上部2枚は旧田住邸跡(現俊藤邸)です。宮本武蔵(幼名弁之介。みやもとたけぞう、その後
むさしと名乗る)は岡山県大原(平福から近い)に宮本無二斎と母於政との間に生まれる
(1584〜1645)幼くして於政と死別。
父の再婚相手はここ平福の別所家の別所林冶の娘よし子であった。不運
は間もなく無二斎が死亡したため、よし子が平福に帰り再婚したことである。次々と母を失うこと
になったんですが、武蔵はこのよし子を本当に慕っており度々平福を、継母を訪ねている。
そして、地元の名家である田住邸(別所家の家臣であったが、帰農して庄屋)で養育された。そ
れは田住邸に武蔵が描いた達磨が残されている。のち、蓮庵の道林坊に預けられ、また、道林
坊の弟長九郎に武芸を学んだ。体格に優れていて、素質もあったんでしょう、急速に上達した。
武蔵13歳のとき、ここ平福の佐用河原に「日下無双兵法者(にほんでいちばんつよい)」と名乗
る新当流達人「有馬喜兵衛」が立ち会いを望むとの標札を建てた。(下左の写真の場所)
13歳でまだ若いし、兵法者と立ち会えるとは?と周りの人は止めたが、かまわず武蔵は出かけ
木刀で一刀のもとに打ち据えてしまった。(武蔵最初の決闘であった)
下右の六地蔵は決闘の場所にある。墓場はないんですが、もともと平福藩の処刑場であったこ
とから祀られるようになった。
next