好古園

前橋藩15万石(譜代大名)の五代目松平忠挙(ただたか)は、学問を好み、藩校「好古堂」や「求知堂」
を建てた。そして、これら学研が「前橋風土記」の編纂に繋がった。

その九代、松平忠恭(ただずみ)の時代(寛保2年(1742))関東一帯の大洪水によって、本丸さえ危険
な状態となり、居住を三の丸に移した。翌年、寛延2年(1749)1月に忠恭は、姫路へ転封となった。
その忠恭の家老が、河合準之助(はやのすけ)隠居名「寸翁」である。
寸翁は、前橋の藩校に習い、姫路に藩校「好古堂」(現好古園付近)を移し、私学「仁寿山黌(じんじゅざん
こう)」(姫路市奥山、仁寿山麓)をも作った。
この私学は、当時の超有名人だった「頼山陽」、「斎藤拙堂」、「大国隆正」、などを招き、講師にも「太田
南畝
」なども見られる豪華さであった。彼らの遊山は、小赤壁(頼山陽の命名、姫路市木場)などで句を
読むことであった。

ただ残念なことに、この時代になると、藩財政は疲弊し節約を旨とする政策が幕府から各藩までに浸透す
る。学問に費やす藩費は減額され・・・ていった。
二つの藩校はやがて統合されたが・・・・・。

一方、閑谷学校は独自の田畑や山林を与えられ、藩主が替わっても財政を維持できる体制が、池田家
の時代に築かれて現在も観光客を集めている。
政治とは、財政を逼迫させれば、即座に悪政のそしりを免れないが、善政は遠い時代を経てやっと認めら
れるものらしい。(庶民は日々の暮らしに追われ、政治は解らぬものらしい。依って偉人の出現を待つしか
ない。恐らく数百年に一人だろう。