各地の城には便所がないようですが、姫路城はどうでしょう。

各地の城にはもちろん便所はありました。ただ、ただ、姫路城
は例外で建設時には「関が原の戦い」が終わっても世情は不
安定ですから、防御を中心に考えられた城なんです。最後の籠
城の場所天守閣に便所を作りました。(地階部分にある、写真)
各地の天守閣はもちろん居住空間でありませんので、ありませ
んでした。ではどこに便所を造ったのでしょうか。
姫路城で言いますと、城主の住まいである「備前丸」や千姫の
「西の丸」や女官がいた渡り櫓の近くに別棟で便所がありました。

江戸では町民の長屋にも近在の百姓が糞尿を買いに来たもの
です。姫路城の便所は汲み取り式ですが、近代的なものです。
全部木製ですが、下にはカメで受けています。近くの名主や豪農
が(もちろん代理の小作人)城の便所(糞尿)を買いに来ますので、屋内という訳には行き
ません。そこで、別棟に便所を造り外部から汲み取れる構造にしていました。
明治の廃藩置県で無用の長物と化した各地の城は、傷みが激しく、特に丈夫な材木で作
られていない便所などの別棟は次々に崩壊してしまいました。
姫路城のトップページの看板は明治初期のものですが、三の丸などの内堀以内や堀外に
も沢山の武家屋敷があることがわかります。城下町も坊主町や加治屋町、博労町などの
職業を町名にしたところが多いです。
姫路藩は池田輝政52万石でしたが、最後の大名「酒井忠恭(さかいただずみ)」が15万石
でしたが、城を明け渡すときにも、家臣一族郎党(家族を含む)は8600人もいました。糞尿
の量も多かったでしょう。

別棟で天守閣などと違って保存の対象ではありませんので、城には便所がないような印象
を与えてしまうんです。
姫路城は売られたに明治の写真があります。