姫路城は池田輝政が「関が原の戦い」の軍功により、三河の国吉田(愛知県豊橋市)より
52万石の大所領を与えられて入封した。それまで羽柴秀吉(1580〜)、木下家定(1585
〜秀吉の妻「ねね」の兄)の三層の天守を持つ姫路城は現状の姫路城に大改修された。
そのとき、多くの一族と家人が来姫したので、城下町も造営した。

坂田町から下寺町、国府寺町、五軒邸(ごけんやしき)と続く道筋(南北の道路)には多くの
寺が今も残っています。その道筋の北側に米屋町、八木町、福居町には敵の侵入を防ぐ為
のノコギリ型の家並みが残っています。(江戸時代の家屋は残っていませんが、その構造は
そのまま残っています。)

現在に残る江戸の町名。
小姓町、五軒邸(ごけんやしき、これで町名です。)
五郎右衛門邸(これも町名、ここには姫路城の金具を作った芥川五郎右衛門の屋敷があった。)
  近くには金屋町、鍵町、鍛治町などの職人の町が見受けられる。  
同心町 同心などの侍屋敷が軒を連ねていた。
坊主町 お坊さんは寺町付近に多く住んでいましたが、ここには広大な屋敷を構える士分の坊さ
  んや武士が住んでいました。所々に侍屋敷が見られます。
魚町、米屋町、塩町、元塩町、豆腐町、豪商の古二階町、二階町、綿町、呉服町、紺屋町、柳町
  博労町などの職人や商家の名前の町名があります。この辺りの福中町には旅籠が立ち並び
  魚町には遊郭がありました。(現在も本当に沢山の飲食店やバーなどがあり、大歓楽街を形
  成しています。
鷹匠町あたりから男山(歴代城主が鳥居などを寄進した男山八幡宮や千姫が化粧櫓から朝夕
  拝んだ男山天満宮がある。)にかけては侍屋敷がたくさんありました。
白銀町、材木町のような材料を扱う町。特に材木町には船場川(中堀として利用)を使って飾磨
  湊からなんと高瀬船が上り下りする荷揚場があった。現在は宅地化や道路の舗装化などの
  様々の要因で水量が少ないです。

国道2号線東行道路 ここは中堀がありました。もともとは30メートルほど北側の西国街道(山陽
  道、龍野町から柿山伏の道筋)でしたが、大正の初め当時の市長「堀音吉」によって埋められ
  てしまいました。(堀埋吉と揶揄された)従って国道のすぐ北側に埋門、G門(くまたかもん)や
  続く土塁が昔の遺構を残しています。
小溝筋(おみぞすじ) 城下町の時代は大溝(おおみぞ)と言っていました。国道2号線の中堀か
  ら、大量の綺麗な水が流れていました。埋め戻されたときに「おおみぞ」→「おみぞ」になった
  ようです。
龍野町 ここは街道筋でしたから、秀吉の時代から市が立ち町を形成していました。1丁目には
  酒蔵が2丁目には商家が残っています。
大蔵前筋 魚町から南のあたりには藩の御用蔵が沢山並んでいました。52万石の蔵は一時に
  何万石を貯蔵したのでしょうか。後には藩域は15万石になった。千姫が嫁いできたときには
  化粧料として10万石が追加された。
射楯兵主神社(いだてひょうずじんじゃ) 播磨の国総社(そうしゃと呼ばれている)播磨域には各
  地16郡に174座の神をお祭りしていた。これは郡を預かる者にとって大変な物入りだったの
  で、平安末期(1181)に神々に集まってもらって惣社(そうじゃ)とした。何回も遷座されたが、
  現在の場所に遷座されたのは秀吉で天正9年(1581)ですから、勿論池田輝政姫路城よりは
  古い。遷座より古い赤松政村寄進の梵鐘(1506)や後の城主榊原忠次が寄進の鳥居先門、
  木下勝忠が寄進の石灯篭(1599)がある。