完璧な防御の要塞にも石垣のない部分があった。

姫路城は関が原の合戦の軍功により池田輝政が三河吉田(豊橋)より入封し、秀吉の城
を解体して新しく築城。城下町も造営した(1600〜1608)。この場所は池田三代の後に
伊勢桑名より本田忠政が入封。忠政の嫡男忠刻に輿入れした千姫のために建てた長局
(ワの櫓から化粧櫓とそれをつなぐ百間廊下)の城内側です。
1616年から建てられましたので、やはり石は集め難かったようです。ただし、世の中は
徳川の治世が安定していたので、防御についても厳重を極める必要がなかったと思われ
ます。しかし、長局は女の館ですので、夜警や警備の配置は外の犬走りを男子が担当。
(石垣が2段になっている部分)廊下などの局内は薙刀を構えた女官が火の用心を唱え
ながら、警戒したようです。
簡単に駆け上がったり、進入出来そうな構造も太平な時代がそうさせたのでしょう