各地の大名は参勤交代や江戸屋敷の入用で財政が破綻寸前になりました。姫路藩は。

江戸幕府が出来てから200年も経ち、文化の年号を聞きますと、各地の大名は莫大な
借財を抱えて疲弊しました。大名は江戸詰めですから、国元の城代家老は要求される
ま、莫大な金を送りました。姫路藩では酒井三代目忠道(ただひろ)の文化5年(1808)
藩の借財は73万両に達しました。12月、家老河合準之助(かわいはやのすけ)『後、隠居
して、寸翁(すんのう)を名乗る』は急遽江戸に呼び寄せられ、藩財政改革を命ぜられる。
寸翁は、領内に布告文を発して、実情を領民に訴えた。寸翁の改革は徹底した倹約と地
域産業の育成と不時の大飢饉に備えようとの三点であった。

倹約は、領民が食べる物にも事欠く状態であるので、藩士にも粗食を命じ、綿布の衣服
を奨励した。
地域産業の育成は姫路木綿の専売、江戸市場の開拓で「玉川晒し」、「姫玉」で好評だっ
た。東山焼(とうざんやき)を東山(ひがしやま)から男山に移して藩営とした。養蚕、絹織
物、朝鮮人参の栽培、砂糖製造、藍製造、染物、ハゼの栽培(製蝋)などを奨励した。
飢饉に備えるものとして、「固寧倉(こねいそう)」の制度を作った。名前は『五経』の「書経
「民は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し」(たみはこれくにのもと、もとかたければくにやすし)
に寄る。
庄屋や富農層から米麦の提供を求めて、非常用に備蓄して、災害に備えた。2000人を
一つの組として、最大時には各組8つの固寧倉を作った。天保14年には92ヶ所、弘化3年
(1848)に最大となり、288ヶ所もありました。現在も神崎郡市川町沢、夢前町芦田(残念
にも近年崩落)、福崎町福田、姫路市刀出、慶雲寺、妻鹿、白浜、東山に保存されています。

参考 天保元年(1830)大坂与力の職を息子格之助に譲って学問所「洗心洞」を起こしてい
た「大塩平八郎」は領民が飢えに苦しんでいるのを見て、三井や鴻池等の豪商に6万両の助
力を願い出た。しかし、協力は得られなかった。(姫路藩の借財は73万両で、庄屋、豪農は
協力した。)これらの豪商は米の買占めと江戸への廻米で莫大な利益を得ていた。これには
堪忍袋の緒が切れた平八郎は大坂で決起を呼びかけると同時に飢えに苦しんでいる地方に
も決起を促した。各地で「農民一揆」が起こった。当時直訴も死罪だったので一族郎党打ち首
を覚悟の上であった。(40日後捕らえられ、塩漬けの後見せしめに磔にされた。)
「洗心洞」の8つの制約(入門時に約束)まじめに勉学に励むこと。【罰は書籍を買って塾生に
与えること、非常に高価でした)小説や雑誌を読んではいけない。俗輩(見識のない人)と付き
合うな。悪人(心の)と付き合うな。酒を飲むな。登楼するな(遊女屋で遊ぶな)】などであった。

参考 『五経』 江戸時代の学問の基本、四書五経。四書は大学、中庸、論語、孟子で、五経
は易経、誌経、書経、春秋、礼記(らいき)。学問は昌平坂学問所を頂点に成り立っているん
ですが、進級は「素読」「復習」「初学」と進み、学内試験の「大試業」を経てのちに「諸会業」
に進み、経史、刑政、天文地理、習字、算術、物産、有職故実(ゆうそくこじつ)を学び、3年に
1度の幕府直轄の試験「学問吟味」に合格すれば、輝かしい出世の道があった。