姫路藩は何万石の大名だったでしょう。

「関が原の戦い(1600年)」以前の黒田職高、黒田官兵衛孝高(よしたか)、羽柴秀吉は
石高の算定が困難なので、関が原で家康に味方した戦功により、播磨姫路の城主とし
て、「池田輝政」が入封した。その時が藩域が最大で播磨全域を与えられた。52万石で
す。1608年から秀吉築城の姫路城を8年の歳月を掛け大改修し、城下町をも造営した。
元和2年(1616)二代利隆が死去、嫡男光政が継ぐが翌三年に因幡鳥取(32万石)に
移封。これ以後は徳川の意向で頻繁に代替わりをさせられた。本多忠政(15万石)政朝、
政勝、松平(奥平)忠明(18万石)、忠弘、松平直其(15万石)、直矩、榊原忠次(15万石
)・・・・・・・・・。寛延2年(1749)上野(こうずけ)前橋から酒井忠恭(ただずみ)が15万石
で入封して、その後幕末まで酒井家が在封する。
従って、最大域は52万石ですが、ほとんどの時代15万石の大名でした。では52万石とか
15万石とは現代の価値、価格ではどれほどでしょうか。

1石=10斗ですが、昔は(つい10年ほど前)は俵詰めでした。1俵=4斗(60Kg)です。
52万石=520万斗=130万俵です。(78000000Kg)ですから現代の価格に換算する
と、10Kg=4000円としますと312億円です。
15万石=150万斗=375000俵=22500000Kg=90億円
安いか高いか現在と比較するのは無意味なことかも知れませんが。

近隣の小野藩、林田藩、福本藩(神崎町)、安志藩(安富町)山崎藩などは1万石の大名で
したから、6億円の予算規模といえます。
江戸時代は1反(いったん、300坪)収穫は5〜6俵です。莫大な作付け面積が必要です。
その内の半分が納税、名主は裕福な人も。小作人は粟、稗、麦を食べて・・・・。

納税は農民に偏っているようです。四公六民から五公五民と不作の年の過酷さがどんな物
だったか、想像出来ません。姫路藩も参勤交代や代替わりによる減石などで疲弊しました。
農民一揆も米屋倉の打ち壊しも最後の手段だったんです。次ページにその対策。
(現代も納税は勤労者に偏っています。国と地方の借金は920兆円もあり、外国に援助した
り、アメリカの戦費負担をする余裕があるのでしょうか。消費税のアップはすぐそこです。)

参考 上級武士と下級武士の境目は俸給50石でした。お目見えが出来る条件です。現在
でも官公庁(国、県、市町村)の新年の挨拶など全職員ではなく、課長以上で行っているよう
です。課長以上はお目見えといえます。50石以上の武士は本当に少なかったようです。30
石以下の武士が大半でした。現在の価格に置き直してみますと(無意味ですが)以下のよう
になります。30石以下の武士も付き人やお手伝いさんも必要です。物書きや子供の勉強を
見たり、代書などの内職もしました。大藩には勿論1万石以上(6億円以上)の家老もいまし
た。なんという落差でしょう。最下級の武士は捨扶持20俵(48万円程度)です。

50石=500斗=125俵=7500Kg (10Kg=4000円) 750*4000=300万円
30石=300斗= 75俵=4500Kg               450*4000=180万円