【空】





 不思議なほどに、頭がスッキリとしていた。

 ひとつの重大な決断をして、それを宣言した。もう後戻りは出来ないし、するつもりもない。決断が、正しいのかも分からない。
 ただ、オレはその決断に奇妙に納得していた。


「野球を、やめる、だって?」

「はい」

「お前、自分が何を言ってるかわかってんのか」

 どういう訳か、ひどく不機嫌な、いっそ怒りを耐えているといっていいほどの声音で、噛んで含めるように問われた。
 なのに、目の前の人はとても静かで、不謹慎だけど笑ってしまいそうになる。あんなに騒がしい人なのに、ここ数日は別人みたいに真剣な顔して。

「なあ、わかってんのかよ!?」

「わかってる、分かってますよ。野球をやめる、って言ったんです」


 ――ダンッ!

 大きな音がして、部屋が、いや、家全体が揺れるような衝撃が伝わった。それまで静かだったのが嘘みたいに、握ったこぶしが壁に打ち付けられている。
 あ、左手…、とその握り拳がどちらの手か認識した瞬間、叫んでいた。

「ちょ、アンタなにして…!左手、左手!怪我したらどうするんですか!?」

 きれいに整えられた爪は、握りしめた手のひらに食い込んではいなかったけれど、でもあまりに強く握りしめ過ぎて手が白くなっている。
 手が色を失うと、形がきれいな分途端に作り物めいて、まるでホントに神様の手みたいだった。でも、神様の手なんかに興味はない。その手は、アンタの左についているからこそ、意味があるんだ。

 打ち付けられた手を取って、その強張った拳を開かせた。手のひらには爪の跡がついている。あちこち固くなった大きな手が、わななくようにちいさく震えている。
 どうしたというのだろう。この手には、震えなんて似合わないのに。そう思って見上げたら、顔まで白くした人と眼があった。

「やめるって、本気なのか…? なんでだよ、オレはお前と…」
 声まで震えている。なのに、ただ口から出た音、といった感じで、声に色がなかった。無表情な声だ。
 腕を掴まれて、その左手もやっぱり震えていて、この人のこんなところを見るのは初めてだな、と思った。オレの知る榛名元希は、いつも自信に溢れていて、グラウンドの一番高いところに君臨する王様だった。

 我が侭でオレサマでムカツクはずなのに、その球ひとつで全部黙らせてマウンドに立つ。なのにいま、震えは掴まれた腕からオレにまで伝染してきそうで、見たことない顔をして、見たことない声をしている。

「なんで、なんでだよ。お前、それでいいのかよ。お前、野球やめて生きていけるのかよ」

「生きていきますよ、オレは。別に、野球に全く関わらない訳ではないんだし」

 野球から離れて生きていけないのはアンタの方だろ。投手になる為に生まれてきたようなこの人は、理解できない、なんて顔をしている。
 オレにもそれだけの才能があったら、野球をやめたら生きていけない、と言えたのかも知れないけど。


 唐突に、もう一人の投手の顔が浮かんだ。三橋。オレのピッチャー。
 アイツは、野球の才能があるのだろうか。投手としての才能を持って生まれたのだろうか。

 ……多分、違う。アイツが持って生まれたのは、投げることが好きだ、という途方もなく強い欲求だ。強いて言うなら、努力を厭わない、という性質が才能なのかもしれないけど、三橋はそれを努力と思っていないんだから、やっぱり違うのだろう。
 あの、投げることが大好きで、サインをくれる捕手が大好きな投手には、悪いことをするな、とは思うけど、オレは決めてしまったんだ。

 ごめんな、三橋。

 そう心の中で謝って、そしてオレは向き合った。










【ただいま】





 オレは、どちらか片方、なんて選べないんです。どちらも選べない。アンタも三橋も、選べないんだ。だって、どっちも大切なオレのエースだったんだ。
 どっちの球も捕りたいって思うし、どっちの球も凄いって思う。でも、タイプだって正反対だし、比べられないんだ。

 三橋の、あのコントロールも、崩れない強さも、何もかもが好きだ。受けるのが楽しい。リードするのが幸せだ。ああやってオレの配球通りに投げて、それでアウトを取ったときに三橋が笑うのが嬉しい。勝たせてやりたい、もっとうまく投げさせてやりたい。ありがとうって言われると、他にはもうなにもいらないと思う。

 アンタの、その誰も寄せ付けないスピードと球威が好きだった。マウンドで不敵に笑うのも、オレが取り損ねてボールくらって踞っても心配しないところも、腹立たしいのと同時に嬉しかった。アンタに野球で甘やかされたくなかった。妥協されたくなかった。だから、取れないのはお前がヘタだからだ、って言われる方が、オレのコントロールが悪いから、って謝られるよりずっと良かった。次は捕ってやる、絶対止めてやるって頑張って、それでちゃんと取れたときに見せる、やりやがったなって顔が嬉しくてたまらなかった。18.44の距離を挟んで向かい合うと、ドキドキして神経が焼き切れそうで、それが中毒みたいだった。

 どっちも最高、どっちも大切。選べと選択を迫られて、2人に出会ったことを辛く感じたりもしたけど、今ならそれは僥倖なんだ、と言える。
 それは、心が決まったから、かもしれないけど。


 ……そう、考え抜いてたどり着いた答えは、これだった。

 どちらも選べない。なら、どちらも選ばない。

 オレは高校を卒業したら野球をやめて、もうどちらの球も、そのほかの投手の球も捕らない。

 元希さんはオレに捕って欲しいと言うし、三橋も、ずっとオレに投げたいと言う。どちらかを選ぶことはオレには出来ないし、両方捕る、ということも出来ない以上、オレの選択はひとつだけだ。

 心が、野球を辞めたくない、と言うのだけれど、その一方で、オレの野球はもう2人の「最高」に出会ったのだから、と言う声もある。

 元希さんに会えて、幸せでしたよ。
 三橋に会えて、幸せだった。
 ………それだけで、もう充分だ、と思った。



「……だから、オレは高校を卒業したら野球を辞めます。アンタの球も三橋の球も捕りません」










【おかえり】





「そんな馬鹿な話があるかよ!」

 掴まれた腕に力が入って、痛いぐらいだった。相変わらず握力が強い。殴られるのかと思うくらいの剣幕だけど、でも怒りの矛先はオレではないことは分かった。シニアにいた頃は、結局なにも分からないままだと思っていたけど、実のところそうでもなかったらしい。少なくとも、オレに対しての怒りでないことぐらいは分かる。

「そんな、そんな答えを聞く為にオレは言ったんじゃねぇんだよ!それならいっそ三橋が選ばれたほうがよっぽどマシだ!」

「三橋は選びません」

「じゃあオレを選べよ!」

「アンタも選びません」

「じゃあ、どっちも選ばなくていいから、野球は続けろ!」

「野球続けても、オレは捕手しか出来ないから、やっぱり誰かの球を捕るんですよ」

「それでもいい。それでもいいから」

 オレは、折れない。元希さんは、翻意を促そうと必死だ。最後には懇願するような声で、発言の重大さの割に凪いだ心持ちのオレは、なんでアンタが泣きそうな顔してんですか、なんてことを考えていた。
 気の強そうなつり目は、本来はきれいなアーモンド型なのに、今は歪んで眼の淵に水が溜まっている。
 涙かな。この人が泣くところなんて、見たこともないし想像もつかなかったのに。

「いいんですよ。だって、3人目の投手と出会っちゃうかもしれないでしょ。ほら、二度あることは三度あるって言うし」

「バカなこと言ってんじゃねぇよ。オレ、お前に捕って欲しいなんて言うんじゃなかった……」

 なんだか、決めちまったオレよりもこの人の方がよっぽど重大な決断したみたいに、よっぽど後悔しているみたいに見える。
 それって、どうなんだろう。オレは、捕手・阿部隆也は、アンタの中でそれだけ惜しむべき位置付けだったんだろうか。

 例えば、もう一度取って欲しいと望まれた理由。純粋に技術面なら、悔しいけれどオレよりも巧い捕手なんてそれこそ大勢いるだろう。武蔵野に捕れる捕手がいなかったとしても、プロに入ってしまえば、そんなことはあり得ない。

 だったら、相性だろうか?………自慢じゃないが、オレの武器はデータを集めて配給を組み立てる頭だから、そういう意味では、この人とは相性はむしろ悪いと言った方がいい。

 ならば、何を持って、もう一度と望まれたのだろうか。


 正直なところ、もう一度捕って欲しいと言われて嬉しかった。お前がイイ、と言われて、ずっと欲しいと願っていて、叶わないと思っていたそれを与えられて、幸せだ、と思った。

 同時に痛みもあったけど、でも、どれだけオレがアンタの事恨んでても、アンタの球が最高だってのはいつだって認めている。だから、その球に、ミットを望まれるってのか嬉しくない訳無い。

 それに、野球を辞めるっていう選択は、寂しくもあるけど、でもオレ自身が納得して決めたことだから、それは構わない。


 でも、アンタはオレがイイと言い、オレが辞めるとなるとその言葉を後悔している。なんで、今さらオレがイイって言ったんですか。もう、最後にアンタの球を捕ってから3年近く経ってる。
 ………どうして、オレなんだろうか。

 オレには、アンタみたいな才能はないってこと、自分でも分かっている。努力だけではどうにもならない世界があって、オレはそこには行けないんだってことを、もう知っている。そして多分、アンタもそのことを知っている。

 だとしたら、なんで今になってオレなんだ。大体、捕って欲しいって、どこで捕らせるつもりだったんだ。オレに、プロにこいって言ってんのか?そんなの、無理だ。

”じゃあ、どうして?”

 つまり、オレに執着する理由があると言うのだろうか。これからの榛名元希の球を受けるに足りないこのオレを望む理由が。

 オレにとってアンタは特別な投手だったけど、アンタにとってのオレは特別な捕手だったということですか?
 でも、それだけでミットを望むほど、アンタは野球に対して妥協なんて無いはずだ。
 じゃあ、捕手以外のところに理由があるとでもいうのだろうか。

 ………もしそうだとしたら、捕手じゃなくなった阿部隆也は、アンタの中でどういう位置付けなんですか?