【虹】





「阿部、なんかあった?」

 次の日に、栄口につかまった。

 ジャリジャリと砂のあがった下足で、終鈴が鳴ってすぐに教室を飛び出してきたのに、なんでかそこに立っている。こいつの、こういうところが侮れないな、って思う。
 クラスも違うのに、よく見てるよな。

 昨日の今日だから、花井あたりにつかまるかと思っていたら、栄口だった。
 にこにこしてるくせに追求厳しいから、痛いトコロつかれるし、誤魔化されてもくれないから、今は出来るだけ会いたくなかった。

「あった、んだね」

「どっちの意味の "あった" ?」

「有った、でも、会った、でもいいよ」

 はぁ、とため息をついた。なんでこんなに読まれてるんだか。

 中学が一緒だったって言っても、別にそのころは交友なんてなかったのに、高校に入ってすぐの春休みに2人だけだった事が効いているのか、帰る方向が一緒でその間に色々話すのが理由なのか、問題があると大抵間に入ったり話聞いたりしてくれる。

 ……けっこう容赦のない意見をくれるわけで、ありがたいけど、鬼門筋っつーか。苦手じゃないけど、叶わないっつーか、頭が上がらないやつだ。

 その栄口が、わざとらしいくらいにこにこしていた顔を曇らせて言った。

「三橋が、心配してるよ」

「三橋が? 昨日は会ってないけど……」

 三橋は、正直なところ、今一番会いたくない人物だった。どんな顔していいか分からないし、後ろめたくもある。
 ……にしても、確か昨日は会ってない。
 三橋どころか、野球部の誰とも会ってないはずだ。なんせ、保健室受験してそのまま即帰りしたんだから。
 会いたくないから逃げるって、どこの小学生だよ。自分が情けなくて、いやになる。

 ……と思ってたら。

「すれ違ったのに、阿部が三橋に気付かなかったんだよ。有り得ないって大騒ぎだったけど」

 なんだ、すれ違ってたのか、気付かなかったな。もしかして、三橋は声をかけてくれたんだろうか。
 気付かないオレをどう思っただろう、また泣いてないといいんだけど。

「ね、阿部。このままじゃダメだってこと、わかってるよね?」

「……ん。分かってる、つもりだ」

 三橋は、大切だ。いつでも笑っていて欲しいし、いつまでも投げていて欲しい。
 オレの中の優しい気持ちを集めて形にすると、きっと三橋の姿になる。

 暖かいもの、しなやかなもの、守りたいもの。
 三橋が、大切だ。

 でも。だから。

「オレ、ケリつけに行かないと……」

「頑張ってね……って言うのも変かな。でも、ちゃんと決着がつくといいね」

 うん、と頷いて、踵を返した。

 このままでは、三橋と元希さんの間で気持ちを揺らしているままではいられないと分かっているから、どんな形でもちゃんとケリをつけないと、前に進めないから。
 まだどういう決着になるのか自分でも分からないけど、この中途半端な状態は脱却したい。
 でないと、テストが終わって部活が再開されても、辛くて頭の中がぐちゃぐちゃになるし、みんなに迷惑かける。

 後ろめたさもなく、三橋の球を捕りたいし、元希さんと顔を合わせたときにビクビクするのもいやだ。
 でも、どちらかを選ぶのか。選べるのか。

「阿部、チームメイトとしては、三橋を泣かせるなよって言うべきなのかもしれないけど、オレは阿部の方に泣いて欲しくないよ!」

 背中越しにそう声をかけられて、思わず振り向いた。
 栄口が、笑っている。
 暖かい笑顔は、照りつける太陽じゃなくて、雨上がりの洗われた空気にやわらかく反射する光みたいだった。

「優しいな」

「同中のよしみでね!」

 ニカッと笑った笑顔と声に背中を押されて、オレは駆けだした。

 サンキュー、栄口。










【風】





 会いに行こう、会って話をしよう。

 そう思っても、なかなか行けないのだ、こういう、フクザツな事情がある間柄は。

 せっかく栄口に背中を押してもらったのに、いざ会いに行くとなると、やはり戸惑いというか、いっそ恐怖のようなものを感じてしまう。

 それは、榛名に対する恐怖ではなく、自分自身に対する恐怖である。
 例えば、榛名と会えば、自分は三橋よりも榛名を選んでしまうのではないか、というような。

 人は同じくらい大切で特別なものが2つあれば、どちらを選んでしまうのだろう。
 決断を迫られたときに、自分がどう判断するのか分からない。頭で考えた答えを用意していっても、咄嗟に違う決断をしてしまうかもしれない。

 今現在、阿部隆也がこの世でもっとも信じられないのは、自分自身である。

 ………そういう恐怖だった。



「情けないな……」

 思わずそう呟いてしまうほどには、自分が情けなかった。背中押されて学校を飛び出したは良いが、やっぱり躊躇ってしまう。
 まだ心の準備が出来ていない、というのは言い訳で、あの人まだ学校かもしれないし、ってのも言い訳で。
 取り敢えずチャリで榛名邸を目指していたものの、西浦高校からの距離が災いして(考える時間がたっぷりあったのだ、逆に迷ってしまうほどには)、阿部家と榛名家の間ぐらいにある小さな公園で何となく立ち止まってしまったのだ。

 ……明らかにそれは失敗で、一度立ち止まってしまうと、なにかこう、気合いを入れ直さないと進めそうにない。
 やっぱり、勢いのままにいくべきだったんかな、と、反省点をあげてみることすら現実逃避に思えてしまうくらいだった。

 が、今日を逃すと、もう試験が終わって練習が再開してしまう。
 今日しかない、と自分を追い込んででも会いに行かなければ。会って、ちゃんとケリをつけなければ。

 よしっ、と気合いを入れるようにして、立ち上がった。

(今から絶対に元希さんに会いに行く。で、ちゃんとケリをつける。練習には、引きずらない)

 心の中で唱えて、振り切るようにして前へ進んだ。



 ―――そも、そういうものに出会える確率からして低そうなものなのに、もし、それが同時に目の前に存在したならば。
 わからない。難しい。
 世の人はどうして2つのひとつを選ぶというのか。たった16年の人生経験では、適切な判断なんて下せない。
 ただ、恐らくは僥倖なんだと思う、出会えたことは。
 その、奇跡みたいな確率が、ひどく呪わしく感じたとしても、だ。





 そして、いったいどういう巡り合わせだか、彼の家に辿り着く最後の角を曲がったときにそこに榛名元希が立っていた。
 彼は、学校の帰りなのだろう、中身が入っていないのか、薄っぺらい制カバンを肩にかけて、待っていた、とでも言うようにこっちを見ていた。

 風が、鞣した皮の匂いを運んできて、ああ、野球の匂いだ、と思った。










【鳥】





「そろそろ来るかな、とは思ってたんだ」


 まあ入れよ、と招き入れられた、何日ぶりかのこの人の部屋は、数日前に見たままに散らかっていて、机の上の様子すら変わっていないところに現在のチームメイトの苦労が窺えた。
 テスト期間なのに、勉強した形跡がない。
 ウチの問題児どもは……と考えて、そう言えば彼らの机にも勉強した形跡なんて無いことに思い至った。
 放っておいたら自分ではやらないから、勉強会と称して集まっているのだ。

「なんで、来るって分かったんですか」

「ん? だってお前、すっげー負けず嫌いじゃん。なんかこう、あんな半端で終わるタカヤじゃないだろっていうか」

 ……こういうところを読むのなら、もっとこう、場の空気とかも読んで欲しい。
 そう思うのだが、思い起こしてみればこの人は、そういえば空気には敏感だった気がする。怒っている人間には近付かない、とか。

 それはどっちかというと、犬とかそういう動物的なカンなのかもしれないけど。
 ……オレは、そう思うとあのシニアのチームの中ではずいぶんと長い時間をこの人と過ごしたのだ。

 あまりのノーコンっぷりに、オレ様っぷりに、いつも腹を立てていた。でも、いつも近くにいた。
 いつも、本気で怒っていたんじゃなかったから、か。
 ノーコンなのはともかく、捕れないのはオレのせいだったし、ワガママでもどこか憎めなくて、つい許してしまっていた。
 オレが、本気で怒ってはいなかったことを、知っていたから、か。

ただ一度、本気で許せないと思ったあの試合の後だけは、近付いてこなかった。いや、遠慮がちだったというのかな。

 今は、また向かい合っている。
 オレの腹の底に怒りがないわけでもないし、この人がそれを忘れたワケでもないことは、この前知った。

 なんにも知らずに、脳天気に、あの試合のこともオレのことも忘れたように過ごしているのものだとばかり思っていたのに、それだけじゃ無いことも知った。
 こういう場が苦手苦手なはずなのに、どうしてかあのときの話をして、どうしてかオレに答えを求めている。


 顔をあげたら、向かいに立つ人と目があって、坐りもせずに突っ立ったままで何やってんだか、と少し可笑しくなった。
 つり目気味の、ひどく真剣な目にぶつかって、まるでマウンドに立つみたいなのにどこか穏やかなそれは、見たことがあるような無いような、そんな目だった。
 その、口が開く。

「オレは、あの試合のことは悪かったと思っているし、それ以前にシニアでのお前に対するオレは、酷いことばっかしてた、ってのは分かってる。……悪かった」

 "悪かった"

 この人も謝るんだな、とどこか他人事のように考えて、それから一瞬の後に、ガツンときた。

 謝ったのだ、あの確執に。

 だから、オレはそれに対する答えを返さないとならないのだ。許すにせよ、許さないにせよ。

逃げ回っていたそれを、改めて眼前に突きつけられて、足が震えた。

 オレは、今のチームが好きで、今の野球が楽しい。
 三橋はちょっとアレだけどイイヤツで、凄い投手で、受けたい、リードしたいと思う。
 でも、この人が凄い投手で、オレはその球が好きだった、ということも思い出した。



オレ、は。









【夢】





 目標は、プロになることだ、と言っていた。

 それは野球少年ならみんな一度はみる夢で、そして叶えられるのはごく僅かのものだけだった。

中学生にもなると、そう無邪気でもいられない。
 飛び抜けて上手い選手を見て、なかなか伸びない自身を顧みて、無邪気にプロになりたいなんて言えなくなっていく。

 夢は、本当に夢に成り下がってしまって、どうせオレは、と思いながらも、それでも野球が好きだから日々白球を追いかける。

 そんな中、榛名元希、という目つきの悪い少年は、臆面もなくプロになると言ってのけ、そしてそのためにいつだって努力を怠らなかった。
 神経質なほどに膝や肩に気を遣い、アップもダウンも、練習にも、いつだって真摯だった。

 一番近くで見ていたから、よく知っていた。
 …一度も、夢だと言わなかった。

 プロというのは、いつだって夢ではなくて目標で、いつだってそれに向かっていた。
 その姿勢が、少し悲しくて、そして好きだった。



 沈黙は痛くはなかった。
 でも、自分の中からせり上がってくる声みたいなものが喉で固まって、ひどく苦しかった。

 悪かった、と謝った目の前の頭を見ながら、言い様のない焦燥感に、手を握りしめた。
 身長差の為普段は見ることの出来ない旋毛がみえて、おざなりなものではなく、深く頭を下げているのが分かった。

 その顔が、ゆっくりとあげられる。答えないと、と無理にでも口を開こうとして、「でも」と止められた。

「でも、オレは、あのとき80球で降りたことを謝っているんじゃない。また同じ場面があったら、オレはやっぱりマウンドを降りる」

「…っ! だったら、だったら、何に対して謝ってんですか!?」

「お前に何も言わずにマウンドを降りたことに対してだ」

 その言葉に、一瞬の激昂が、嘘のように引いてしまった。
 言葉は、まだ続いている。

「オレの目標はプロになることで、そのために自分の体は自分で守らなきゃいけなかった。80球で降りるのは、オレの基準で、でも一度81球目を投げちまったら、きっとズルズルと投げ続けてしまいそうで怖かった。でも、あのときオレとお前はバッテリーだったんだ。だから、降りるなら、ちゃんと説明して、お前に分かってもらってからでないといけなかったんだ」

 そして、榛名元希は、もう一度頭を下げた。
 散らかった部屋、その辺に放り出された学校のカバン、正反対に片づけられている野球関連のもの。
 ベッドの上の掛け布団はクシャクシャと足下に丸まっていて、枕元には不似合いに気圧や湿度の表示があるウェザークロックが置いてあった。
 アナログの文字盤が3つ並んだ、シンプルなメタリックのフレームは、今は光を反射して、文字盤の中の数値を読むことは出来なかった。

 ――そんな、どうでもいいことばかりが目についた。

 頭を下げている榛名は、この雑然とした部屋からは浮いている。それほどまでに、折り目正しく下げられた頭が、彼の真摯を教えていた。

「タカヤを認めてなかった訳でも、軽んじてた訳でもないんだ。ただ、オレは、あのとき自分のことだけで精一杯で、それでお前を傷つけた。本当に悪かった。虫のいい話だけど、許して欲しい」


 一言一句、最後まで言い切った頭が、答えを待つようにゆっくりと上げられた。真っ黒い目はつや消しみたいに光を吸い込んで、少しも揺れない。

 ――そして、オレは、ゆっくりと口を開いた。









【夕暮れ】





「…無理、です」

 オレの口から、否定の言葉が出た。

 向かいに立つ人の、その瞬間に無惨に歪んだ顔を見て、多少は溜飲が下がるものかと思ってみたが、全然そういうことはなかった。
 むしろ、自分のことのように痛い。

「無理です。だって、アンタはまたオレに投げたいんでしょう?」

「そうだ、捕って欲しい。タカヤがいい」

 ……その言葉を、あの頃に聞いていれば、きっとオレは武蔵野を選んだだろう。同じ学校に行って、野球部で一緒に甲子園を目指す。いや、この人の最終目標はプロだから、もしかして甲子園にはこだわりはないのかも知れないけど。
 高校でも、球を受ける。バッテリーになる。
 ……これこそ、まさに夢だ。
 だって、今こうして謝っているこの人は、あのときにはいなかったんだ。

 オレは、考える。今、この人の球を捕りたいか、と。

 答えはYES、だ。
 捕りたい、投げて欲しい、オレだけに。心の底ではずっとそう思っていたことを、最近思い知らされた。

 じゃあ、捕れるか、と言われれば、それは無理だ、と答えが出る。
 技術面では、……難しいかもしれない。ブランクがあるし、その間にこの人はいっそう球威をあげた。捕ろうとするなら、また痣だらけになって、痛いのを我慢して、怖いのを我慢して、逃げたくなるのを我慢して座り続けないといけない。それ自体は構わないのだけれど。

 捕れるか、ともう一度自分に尋ねた。それは駄目だ、と答えが返った。
 三橋。オレのエース。アイツを、オレは裏切れない。だって、三橋はオレのエースで、西浦のエースだ。
 それで、アイツが固執する "マウンド" は、オレが捕る、ということとイコールなんだ。
 だから、三橋はオレが他の投手の球を捕るのを嫌がる。…というか、うん、オレのミットに対して独占欲のようなものを持っている。
 これは、自惚れなんかじゃない。
 だから、捕れない。

「問題は、許す、許さない、じゃあないんです。オレが、この先アンタの球を捕るか捕らないかだ。それで、オレはアンタの球は捕らないんです」

「高校を卒業してからでも、か?」

「はい。捕りたいか、って言われたら、捕りたい。だから、その意味では、許しているのかもしれない。けど、駄目なんです」

 そう、問題はすでに、許す、許さない、じゃあなくなっていた。
 問題は、オレが、三橋とこの人と、どちらを選ぶか、ということだった。

 三橋は、オレに捕って欲しいって言った。阿部くんにはオレが投げるって言ったんだ。
 でも、この人もそれをオレに言うとしたら、どちらを選ぶのか。どちらか選べるのか。

 だからオレは。




「オレは、野球をやめます」


 暮れかけの赤い光が逆光になって、元希さんの顔はよく見えなかった。