【独り】
夢を見た。ずいぶんと長い間湯船の中にいたから、湯当たりしたらしい。
気分が悪くて、頭がグルグルして、倒れ込むようにベッドに転がって、そのまま眠ってしまったらしい。
こう言うときに見る夢なんて、最低と相場が決まっている。
三橋の球を受けていた。
西浦の、オレが作ったマウンドで、辺りはまだ明るいのに、どういうワケかオレと三橋以外に誰もいない。
どうしてオレたちしかいないんだろう。花井は、栄口は、田島は?監督だって、篠岡だっていない。
どうして、と思うのだけれど、すぐにまぁいいか、と思ってしまった。
これが夢だって分かっている。
現実感のあるような無いような、不思議と音がしない無声映画みたいな世界。
まっすぐなはずの視界は、玄関ののぞき穴のレンズ越しに見たように、あるいはビー玉に映った世界のように、マウンドを中心にして円のように歪んで見えた。
そのどれもが、現実には起こりえないことだからこそ、夢を見ているのだと自覚できる。
でも、三橋がいてオレに投げるから、この夢はイイ夢なんだ。
どんどん辺りが暗くなって、こんなところは現実的なんだな、と思いながら、三橋にそろそろあがろうか、と声をかけた。
これは夢なんだから、もっと投げてもらってもいいかな、いや、夢でもそんな事しちゃダメだ、とせめぎ合う心があった。
あぁ、もしかして。この夢に三橋以外が出てこないのって、オレの深層心理とかの投影なんかな。
投手だけで野球が出来るワケじゃないっての、分かってるんだけど、やっぱりオレの中の野球は投手のウェイトが一番おおきい。軽んじてるわけじゃないんだ、と言い訳のように呟いた。
この夢に登場していないチームメイトの、明るくてお人好しで、騒がしくて心地良い顔を思い浮かべた。
野球、が楽しいのが嬉しい。
投げて捕ってを繰り返すうちに、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。今日も良いボールだったと、マスクを外して立ち上がろうとした。
………と、ビデオの巻き戻しのように、辺りが明るさを取り戻して行く。
マウンドの向こうから日が昇るように、そこだけひときわ明るい光を放っていて、三橋は?と慌てて視線をやったそこには、逆光で判然とはしないけど、人影が一つ。
三橋、じゃない、あれは。
三橋よりもおおきくて、ひれ伏しそうになるくらい偉そうで、そこから射抜くように見下ろされる、あの人影は。
元希さん。
まるでその体が発行しているように、光が強すぎて手を翳した。三橋は月の光みたいに柔らかで優しいのに、この人の光は強すぎて焼き尽くされそうだと思う。
どうしてここに。どうしてオレの夢に勝手にあらわれるんだ。
光の中でゆっくりと振りかぶった元希さんは、シニアの頃のように、オレに向かってボールを投げた。パブロフの犬のように、それを受け止める。
相変わらずの荒れ球で、でも昔よりは数段マシになっている、それ。
なんでオレ、受けてるんだろう、と不思議に思う。
頭の隅で、投手が投げるのなら、捕手が捕るのは当たり前だ、と声がする。何度も受けて、たまに取り損ねて、あぁ、これ、痣になるなって思って。痣を数えるのは、久しぶりだ。
捕れない自分の未熟と、逃げないと誉められた誇らしさと。
現実にはもう痣なんて残ってないのだけど、この感覚も懐かしいな、と思った。
しばらくして、80球目が近づいてきた。球数を数えるのはもうクセみたいになってるから、80球まであと何球を残しているのかは分かっている。
あと3球。
スライダーは高めに浮いていて、構えた所に入らなかった。
あと2球。
ストレートは右打者の内角に抉り混むように、打者がいたらデッドボール、という位置にとんできた。
あと1球。
最後の球は、いつも決まっている。
ど真ん中、ストレート。
ミットから伝わった衝撃に体が痺れ、いつもこれだけは外さなかったな、と思いだした。
80球投げ終わって(捕り終わって)、今度こそマスクを取って立ち上がった。
手に持ったままのボールを渡そうと、マウンドに立つ人に歩み寄る。しかし、渡そうとした手は、宙でとまってしまった。
三橋がいる。
いつの間にか、マウンドには2人の投手。
元希さんが、不機嫌そうな顔で、はやく寄越せと手を突き出した。
三橋が、相変わらず泣き出しそうな顔で、でもしっかりと手のひらを差し出した。
……オレのボールは一つしかない。
どうしよう。どうしたらいい。どっちにこのボールを渡したらいい?
2人の投手。それぞれに大切で(大切だった)、何にも代えられない(そう、何にも代え難く最高だった、あのころは)。
どちらかを選べというのだろうか。選べるワケなんてないのに。
手に持ったままのボールに視線を落として、少し汚れた白球を握りしめた。
三橋、元希さん。
頭では、三橋に渡すべきだと思っている。
今組んでいるのは三橋で、彼は捕る幸せを思い出させてくれた大切な人で、オレを頼って、オレが捕るならいい投手になるとまで言ってくれて。
なのに、握りしめたままの手は動かない。
どうせ夢なのだから、と思うのに、元希さんを切り捨てられない。
「タカヤ」
元希さんが呼ぶ。
「阿部くん」
三橋が呼ぶ。
手も体も震えて、声も出ない。
選べるわけがない。
なのに、2人の投手に手をさしのべられて、オレはどうしようもなくて、2人の姿を追い出すようにして目を閉じた。
きつく、きつく目を閉じた。
―――盛大にかいた汗で気持ち悪い。
目をあけると、そこは自室のベッドで、自分はグラウンドにいるわけでもなく、2人の投手もいなかった。
心臓はまだドクドク言っていて、手は震えている。
ひどい吐き気がして、それ以上にひどい罪悪感がした。
―――三橋、ゴメン。
オレには選べないんだ。
涙がこぼれて、布団の上に突っ伏して、何度も三橋に謝った。三橋にあわせる顔がない。
こんなに練習に行きたくないと思ったのは、あの試合以来だった。
【水溜まり】
幸いな事に、テスト期間なので練習はなかった。
冷えてのぼせて、そのまま眠ったらひどい夢を見た。それで、気持ち悪いくらいに汗をかいて、また冷えてしまって。
どういう悪循環だよ、まったく。
自分で自分を罵りたいような、情けない気持ちになりながら、保健室で数Uのテストを受けた。
夢、は、心と体に生々しい傷跡を残している。
力の入って強張った体は、起きたときにはガチガチに固まっていて、動くとあちこちが軋むようだった。
おまけに冷えて怠く、食欲も無い。頭が痛いというか、微熱ぎみなんだけど、もしかして知恵熱だろうか。
気分の方も最悪で、どうしても教室に行く気がしなくて(花井にも水谷にも会いたくない)、下足から直接保健室に入った。
やっぱりひどい顔をしていたんだろう。特に事情を聞かれるでもなく、内線で職員室に連絡を取ってもらって、あっさりと保健室受験が許された。
開始直前にはカバンの中の携帯が震えて、多分花井か水谷か篠岡だろう、メールの受信を知らせたが、見る気もしない。
なかなか教室に来ないオレを心配してくれてるんだろうけど、……ゴメン。
チャイムが鳴って、デスクでなんかの書類を片づけてる保健の先生のはす向かいの長机の、消毒セットとか、なぜか体温計の刺さっているペン立てを端に寄せて作ったスペースで数Uの問題を解きながら、でも考えているのはやっぱり夢のことだった。
いい加減、考えすぎて頭は痛いし、そもそも今現在は授業中どころかテスト中なワケであって、どう考えてもよそ事を考えてるのはマズイだろう、とは思うのだけど、不幸にもというか幸いにもというか、オレは数学が得意なもんで、つい時間を余して他の事を考えてしまう。
シャーペンを置いて、問題用紙も解答用紙も一緒くたにして裏返して横に寄せて、組んだ腕の上にアゴを置いて目を閉じた。
瞼の裏に、2人の投手。
オレは夢の中で、2人の投手を選べなくて、目が覚めてからもずっと悩んでいる。悩んでいるっていっても、今すぐに選択を迫られるワケじゃないんだけど。
でも、今オレは西浦で三橋と一緒に野球やってるんだし、元希さんは学校も違うし、どっちの球を捕るんだっていったら、そりゃ当然三橋の球だ。悩むまでもないはずだ。
いくら元希さんが今さらオレに捕ってくれって言ったところで、そこら辺はどうしようもない。
でも、あの夢みたいに、2人に並ばれて、手を差し出されたら。
理性は三橋を選べ、と言うし、泣き出しそうな三橋を見てると、オレが捕らなきゃって思う。
でも、元希さんに捕手としてのオレが望まれたなら、今度こそ、今度こそは、って思ってしまう。
忘れたつもり、諦めたつもりだったのに、馬鹿みたいに繰り返し望んでしまう。
三橋は、オレが悩んでいる事を知ったらどう思うだろうか。
オレが捕るならいい投手になるとまで言ってくれたのに、裏切る事なんて出来ないのに。なのに悩んでいるオレを、許してくれるだろうか。
もう一年も前になる、三星との練習試合のことを思いだした。さびしくない、と言って西浦で野球をすることを選んでくれた三橋。
過去にとらわれたままで、ぎゅうぎゅうに縛られて小さくなってて、どうにしかして解き放ってやりたい、オレを選んで欲しい、って思っていたのに、本当に囚われているのはオレの方だったんだって気付かされた。
ゴメン、三橋。
お前がオレにとって最高の投手だってのも、オレが捕って勝たせてやりたいってのも、全部全部ホントのことなんだ。
でも、元希さんの球を捕りたいってのも、本当なんだ。望まれなかった昔みたいじゃなくて、望まれるなら、今さらだけど。
ゴメン、三橋。
もう一度、心の中で謝った。
誰も聞く事のない謝罪なんて、虚しいだけだけど。
三橋に会うのがたまらなく怖いのに、投げて欲しい、と思った。
今、投げて欲しい。何球でも、何球でも。
元希さんの球なんて忘れるくらいに、投げて欲しい。
……忘れられるワケなんて無い事を、誰よりもオレがよく分かっているのに。
ごめん。もう一度謝った。
机の上に水溜まりが出来ていて、泣いている事に気がついた。