【雨】
突然降り出した雨は、それはもうひどい土砂降りで、天気予報が "降水確率20%" と言っていた為に傘を持ってこなかったオレは、いっそのこと気象庁を訴えてやろうかと思うほどにイライラしていた。
20%と言えば、降る確立は五分の一だ。十中八九の八降らないってコトだ。なのになんだ、この土砂降りは。道の向こう側が見えないじゃないか。
今雨をしのいでいる軒は、一斉定休の商店街の、シャッターの降りた靴屋のもので、向かい側にある布団屋の軒まで、たったの3メートルくらいしかない。
なのに、激しすぎる雨で、そしてアスファルトに跳ね返る飛沫で、視界がけぶって、見通しがきかない。
傘はないし、テスト期間で早上がりの高校生が、未だ授業中のはずの中学生の弟に迎えを頼めるわけもないし。
どうしようか。
正直に言うと、とても困っている。走って帰ろうかとも思ったが、それだと教科書類が浸水に全滅しそうだった。
これが通り雨だというのに願いをかけて、やむまで待つ、かな……。あぁでも、濡れたままで、ちょっと寒い。
部活がないから、タオルも持ち合わせていない。仕方なく、制服の袖で濡れた顔を拭って、やみそうもない空を見上げて、思わずため息をついた。
風邪ひきそうだ。風邪引いてる暇なんか無いのに。
…………と、ザカザカ、傘が水滴を弾く音がした。
幸運な事に、又は用意周到な事に、ちゃんと傘を持ち合わせていたらしい誰かが、この商店街を歩いてくる。でもまあ、この雨脚じゃ、けっこう濡れてしまっているんじゃないか。それでも、顔面と荷物が守れればまだマシかな。
ザカザカ、ザカザカ。
微細な水滴でモヤがかかったように不鮮明な視界のなか、目をこらしてみれば、それはビニール傘をさした高校生だった。恐らくテスト期間なのだろう。
背が高くて、半透明の傘越しに見えるシルエットは肩ががっちりしている。運動部だろうか。しかし、いくら人がいないからって道のど真ん中を歩く、その人影には、見覚えがあるような気がした。
………って、元希さん!?
そう気付いたと同時に、向こうもオレに気付いたらしい。
「タカヤ!」
大声で名前を呼ばれて、ばしゃばしゃと飛沫をまき散らし、水溜まりを踏んでこちらに駆け寄ってきた。
「なにおまえ、傘持ってねぇの?」
「見りゃ分かるでしょ」
「へぇ、珍しいのな。いっつもオレが持ってないほうだったのに」
「そうですよ。朝から降ってた訳じゃないのにアンタが傘持ってるなんて、まるっきり奇跡じゃん」
は、もしかすると、傘を持って出るなんて有り得ない行動をしたこの人のせいでこんなに土砂降りなのか!?
……と思ってたら、至極あっさりと、
「や、これ置き傘」
あっそ、そりゃそーだよな。雨が嫌いなくせに、アンタ天気予報なんて全く観ないだろ。
今にも降りそうなのに、なんで傘持ってこないんだ、と言った昔を思いだして、少し暗い気分になった。
思いだしたのは、きっとこの人が目の前にいるせいだ。そう思うと、八つ当たり気味にイライラしてくる。
さっさと帰ってくれよ、アンタは傘もってんだから。オレなんか、置いていけばいい。
―――突然、ぐいっ、と腕を引かれる感触がした。
「な、入れよ」
そう言って、オレを傘の下に引っ張り込む。腕に感じる握力の強い、大きな手。………左手だ。
ジンと腕が痺れるような錯覚。やめてくれ、と叫びそうになった。
離してくれ。
オレの事は放っておいてくれ。
アンタは肩が濡れて冷えない内に、さっさと帰ってしまえばいい。
なのに、掴まれたままの腕、ふりほどくなんて出来そうもない。
「取り敢えずオレんち行くぞ」
そのまま傘を渡されて、傘を持ったオレの右手を元希さんの左手が掴んで、雨の商店街を並んで歩いた。
小さなビニール傘に、高校生の男が2人、なんて、無茶もいいところで、当然半身は濡れたけど、傘を持つ内側の利き手は濡れる事がなかった。
すぐ近くにある元希さんの肩に当たらないように、少し離れて歩こうとしたら、濡れるだろ、と引き寄せられた。
―――馬鹿みたいだ。残酷っていうのは、こういうことを言うんだと思った。あんなに、必死になって諦めたものが、こんなに近くにあるなんて。
眼を合わせるのがひどく怖くて、下を向いて歩いた。あの頃、並んで歩きたいと思っていたことを思いだしてしまった。
もう要らないはずのものなのにどうして今頃になって、こんな。
【雲】
やっぱり通り雨だったらしい。
あんなに降ってた雨は、元希さんの家に着いた途端にピタリとやんでしまって、でも体の左半分をずぶ濡れにしたオレは、掴まれたままの腕をふりほどけなくて結局こんな所まで来てしまった。
相変わらず散らかった元希さんの部屋で、ぞんざいに投げつけられたタオルで顔を拭きながら、変わってないなぁ、とヘンに懐かしくなる。
洗濯物を箪笥にしまう、という習慣のないこの人は、せっかく洗ってもらった服もその辺にほったらかしで汚してしまうから、元希さんのお母さんは箪笥にしまうところまでやってくれる。だから、ぞんざいな風の部屋で、箪笥の中だけは綺麗に整えられている。
オレんちでは、洗濯物はたたんだヤツが部屋の前に置いてあって自分でしまうか、そもそもたたんでもいない洗濯物が積んであって、自分でたたんでしまうかだ。
いや、それ以前に、オレもこの人も、多分他の高校球児も、普段は制服と練習着とパジャマの三種類のローテーションで、私服を着る機会ってのが滅多に無い。箪笥にしまわなくとも、洗い上がりをカバンに詰めて練習で着る、みたいな、そういう回転の速さだから、そう考えると、一々箪笥にしまうのは余計な手間なのかもしれない。
派手に濡れたままの身では座るわけにもいかず、オレは部屋中にぽつねんと立っていた。そもそも長居するつもりも必要もなく、その心理的要素が、ますます居心地を悪くしている。雨もあがったしそろそろ帰りたい、と思った。
しかし、このまま帰る事が出来ないのも分かっている。
この部屋の主がドアの前に立っていて、恐らくこの人は、かんたんにはオレを帰したりはしないだろうから。
去年の春にフェンス越しに再開してから、オレはずっと避けてきた。顔を合わせてもお互い連れがいるような状況ばかりで、秋丸という名前らしい武蔵野の捕手の人や、ウチの花井や栄口が間に入ってくれて、一対一で話す事は避けられていた。
待ってろ、と言われたのは再三ではないけれど、団体行動を盾にして、一度も待ったりはしなかった。
会いたくないし、話したくもない。この人が何を言うつもりなのかが分からないから、余計に。
もしも、やっぱりこの人はあの試合の事もオレの事も何も分かって無くて、何もないように話されたらどうしよう。
もしも、急に熱を無くしたようになったオレを詰ったなら、どうしよう。
もしも。
そう、もしも、あの試合の、いや、シニアの頃の事を何か一つでも謝ってくれたりしたら、どうしよう。
謝って欲しいわけじゃない。
謝って許せるとも思えない。
でも、もしもそんなことになったとしたら、オレはどうするんだろう。
………どうするのか、分からない。予測がつかないのが、怖くてたまらない。
はやく、顔も見えない、声も届かないところまで逃げてしまいたい。
【泥】
「やっとつかまえたのに、簡単に帰すわけねぇだろ」
はは、と小さな笑いと共に言われた。
ドアの前に立ち、通せんぼするみたいに少し腕を広げてそう言った人の顔は、声の調子とは反して、全く笑っていない。
真剣な顔なんて、マウンド以外じゃ滅多にお目にかかれないのに、と見当違いの事を考えながら、気配に圧されるようにして半歩後ろにさがった。
開けられた窓から、雨上がりの湿気を含んで少し冷たい空気が流れ込んでくる。
腕に、ぞわりと鳥肌が立ったのは、その冷気のせいか、それとも、ひどく真剣な顔をしている目の前のこの人のせいなのか。
半歩下がった分だけ、半歩つめられて、このままいけば壁際まで追いつめられそうだった。
「お前、なんでオレを避けてんの」
「なんで、オレと同じガッコに来なかったの」
「いつから、そんな顔でオレを見るようになったの」
答える事のないオレに、"なんで" が降り積もる。
いつでも直球で、人を誤魔化すことも、自分を誤魔化すこともしないのはこの人らしい。
なんで、と問われたなら、言ってやりたい恨み辛みが、オレには山ほどあった。でも、そのどれも、もう言うつもりは無かった。
西浦に入って、三橋と出会って、それで、シニアのときの事は、もう過去のもので、ちゃんとした決着を見なくてもいいと思っていた。
過去にケリをつける、なんて痛みを伴う荒療治をしなくても、ゆっくりと癒されて、忘れられると思っていた。
思っていたのに、なんで、今さら。
「なぁ、答えてくれよ」
一歩、また距離をつめられて、彼我の距離と心理的な圧迫感は比例するのか、少し息苦しさが増したように感じる。
忘れよう、忘れた、もう大丈夫だ。そう思っていた色々なことを、思い出しそうになる。
まっすぐな目で、見ないで欲しい。
もう何も言わないで欲しい。
オレの事は、放っておいて欲しい。
なのに、目が離せないままで、滑稽にも瞬きさえ出来ずに見つめていたその顔が。
身長差の為に、目線の高さにちょうど見える口が、不吉な動きを見せるのを止められない。
「やっぱり、あの試合のこと、か?」
知っていたのか、と思った。知ってて黙っていたのか、と思うと、煮え立つような怒りがこみ上げてくる。知らなくて最近気付いたのなら、そのまま一生知らずにいれば良かったのに、と思う。
どっちにしろ、放っておいて欲しかった。このまま何年かしたら、取り繕って普通の顔でアンタと喋れるぐらいに過去のことに出来たのに。
なのに相変わらず、核心をつく男だ。投げるボールと一緒で、どこまでもまっすぐで、とてつもなく痛い。
もう、何も言わないで欲しい。
今すぐここから立ち去りたい。なのに―――
「お前、オレが謝れば、またオレの球を捕ってくれるか?」
忘れてた事が、忘れたいと思っていた事が、忘れたつもりだったことが、甦ってしまった。
きっと、ホントの事なんて何も分かっていないのだろうに、謝れば、と言う。ひどい男だ。
謝って欲しいワケじゃないのに、謝って許せるとも思えない。
許せないのに、この男の投げる球が一番で、それを捕る事がオレの全部で、それさえあればいいと思っていた事、を。
―――思いだしてしまった。
心の中の、奥の奥の、一番底の方に、忘れたつもりで、捨てたつもりで蟠って澱んでいた、ドロドロしたモノに、足を取られて動けない。
昔望んだこと、諦めてもう二度と望まないと心に決めたこと、が、叶うのかもしれない、と、心が勝手に躍り出す。
また捨てられて傷つくのはゴメンだ、と、同時に警鐘も。
やめろ、これ以上聞くな。耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
本当は何も分かっていないくせに、今更、オレをほしがる言葉だけなんて欲しくなかった。
なのに、その言葉だけで、オレはまた捕りたい。捕りたくない。
………なんてひどい男だ、昔から、今も。
【傘】
雨上がりの、濡れたアスファルトを蹴って、全力で走った。
走ることに慣れているはずの体は、ペースを気にせずに走ったせいか、それとも動揺を反映してか、ひどく息を乱している。
心臓がドクドクと音を立てて、上がった息に、汗がつたう。なのに、鳥肌が立つくらいに、冷たいと感じた。
走って、走って、走っているうちに、どこか知らない場所にたどり着いたらいい。
走っているうちに、全部ぜんぶ、振り落とされ、そぎ落とされて、無かったことになればいい。
そんなことを願いながら、ただ闇雲走った。叶う事のない願望に過ぎないと分かっているのだけれど。
―――逃げないでくれ、と言われて、掴まれた腕を引き寄せられた。
あの人の部屋で、あの人が今さらオレを欲しがるから、耐えられなくて捕まりたくなくて、逃げようとした。
また捕ってくれるか。
―――今さらそんなこと言われたって!
今さら、そう、今さらだ。
もしもその言葉をもらうのがもっと早かったなら、オレはアンタと同じ高校で、アンタの球を受けていたかもしれない。
やっぱりケンカばかりで、でも同じ場所で、夢を見れたかもしれない。
でも、もう遅いんだ。
オレは西浦に入って、オレを見て投げてくれる投手と出会って、オレなりの夢を追いかけようとしてるんだよ。
今さらそんな、もう手遅れなんだよ。
引き寄せられた感触の残る腕が、ガタガタと震えだした。震えは、腕から肩、そして体全体へと広がっていく。
足まで震えて、立っていられなくて、膝をついた。三半規管が狂ったようにめまいを覚え、そのなかで、何度も声が聞こえる。
また捕ってくれるか。
(いやだ)
また捕ってくれるか。
(いやだ、もう捕らないって決めたんだ)
また捕ってくれるか。
(もうやめてくれ)
また……
地面についた膝から、水分が染みてきて、それでもその場を動けずにいた。
強張ったように震える体は冷え切って、それでも氷の塊を呑んだように痛むのは違う場所だと、分かっている。
ポタリ、となにか水の粒が落ちてくる音がして、また雨が降ってきたのかと空を見上げた。曇天は、しずくを零すほどに水分を含んではいない。
ポタリ、ポタリ。
雨など降っていないはずなのに、なお落ちる水滴。雨などではなく、自分が泣いて零した涙なのだ、と、歪んだ視界にようやく気がついた。
頬をつたい、顎の先からこぼれる水滴。傘を差さないで雨の中を歩いたように、幾筋も頬をつたって落ちる。
傘が欲しい、と思った。
あの、すべてが直截な男からオレを守ってくれる、傘が欲しい。
そうしたら、頬を濡らす事なんてないのに、と。
【雷】
雨は夕方には止んで、外は静かで心地良い夜なのに、オレの中は大嵐だ。
どうやって帰ったのか覚えていないけど、どうにか家に帰り着いたらしい。
気がつくと湯気の立ちこめる風呂場にいて、鼻先まで湯船に沈めて、体を温めていた。風呂にはいるまでの記憶がないんだけど、これって自分で脱いで入ったのかな。
この年にもなって、母親に服をひっぺがされて風呂場に放り込まれた、とか、そういうのはイヤだな。
ぶくぶくと泡を吐きだしながら、少しずつ体を沈み込ませる。水面が目の辺りまで上がってきて、もっと沈み込んだら頭のてっぺんまでが湯船に浸かった。
そのままで、しばらく。
だんだん息が苦しくなってきて、酸欠の頭がガンガンと打ち付けられるように痛む。このまま落ちてしまえれば、どんなにか楽だろうと、ひどく後ろ向きの考えが浮かんだ。
…………むりだ。
人間は、そうやって落ちるまで息を止めていられるほど意志が強くはない。稀にそういう人がいたとしたら、そいつはきっと特殊なご職業だ。
ザパァッ、と顔を上げて、苦しかった分、おおきく何度も息をついた。吸い込まれる空気は暖かく湿っていて、喉には優しいのだろうが、あまり気持ちよくない。
髪の毛から垂れた滴が、涙みたいにほっぺたを伝ってこぼれ落ちて、あぁ、どうしようか、と思いだした。
元希さんに、言われたんだ。
捕ってくれるか、と言われた。
それは、シニアの頃に欲しかった言葉だ。
認めたくはないけれど、あの人の投げる球だけは、最高だったと思う。他の部分がどんなにひどくても、それだけは確かなことだった。
でも、本気の球なんて、滅多にもらえなかった。
あの男が投げてオレが捕る、っていうことさえ、確かにあったことなのに、どこかあやふやな心持ちがする。多分それは、あの男とオレが、本当はバッテリーなんかじゃなかったからなんだろう。
なのに、なんで今さらあんなことを言ったんだろうか。
<br。 武蔵野には、捕れる捕手がいないから?でも、あそこでは上手くやってるみたいだし、そもそもそう言うレベルを求めるなら、学校だって選べただろう。
それとも、あの元希さんが、謝ってまでオレが良いという理由があるのだろうか。
年下で、命令できるから?
ぶつけてもかまわないから?
……それだけで、あのオレサマが謝るわけがない。
…………もしかして、オレをバッテリーとして認めてくれたのだろうか。あの頃そうされたかったみたいに、今さら。
頭を振った。それはないな、と、思わず声に出てしまった。
独り言にしてはおおきくて、風呂場の籠もった空気に反響して、他人の声のようだった。
それはない。
しかし、否定はしたが、あの行動の意味が分からない。もう忘れたと思っていたのに、思い起こされて、悩まされる。
アンタ、いったい何様のつもりなんだ。
ああでも、捕って欲しいと求められたのなら、オレはどうしたらいいんだろう。学校だって違うし、そんな事は無理だって分かっている。
でも、もしも本当にそう望まれたのなら。
オレは、あの球を捕りたいのだろうか。もう一度、18.44の距離を挟んで向かい合いたいと思っているのだろうか。
今オレとその距離で向かい合っているのは三橋で、アイツはそりゃ、日常的にはちょっとムカツクこともあるけど、すげぇいい投手で、不満なんてなにもない。ならそれで良いじゃないか。
そう思うのに、悩むのを、揺れるのをやめられない。
三橋。元希さん。
もう一度、捕りたいのだろうか、と自問してみる。
わからない。でも、あの速球は、本当に最高だった。
それだけは、本当のことだと思う。
目を閉じると、瞼の裏にマウンドが見えた。投手が立つ、グラウンドで一番高い場所。
縦縞の、ひどく目つきの悪い投手が現れて、サインを出さなきゃ、と思うのに、ちっともこちらを見ない。
やっぱり、最低の投手だ。
そう思っていたら、マウンドの人影が、むくむくとおおきくなって、今の元希さんの姿になった。
何度かフェンス越しに試合を見たときのように、ニヤリ、と笑う。
そうして、プレートを踏む姿に、ストレートが来る、と思った。
反射的に、左手をあげる。
意識の外側で、湯が揺れて音を立てたのを感じ取った気がした。
振りかぶるその左腕から放たれたストレートが、吸い込まれるように、或いは、なぎ倒すように、18.44の距離を引き裂いて―――
雷に打たれたような衝撃がはしり、目を開いた。
体は、あの球を覚えていた。
切り落とした足が痛む、ファントムペインのように、無いはずの衝撃に体が痺れる。
覚えていた、思いだしてしまった。
あの球を、捕りたい。