模範解答を作ろうにも
レンタル自習室、などという珍妙な商売が成り立つ昨今であるが、にしうらーぜこと西浦高校硬式野球部三年生の皆さんにとっては幸いな事に、学校から徒歩2分の距離にある田島家は、非常に敷居の低いお家柄であるので、大人数で押しかけてもあまり恐縮しないで住むのがありがたいことだった。
なにせ、自習室という所は、基本的には会話厳禁なのである。他人の勉強の邪魔にならないように、そうした決まりがあるのは当然のことだったが、一緒にいる友人に分からない箇所を教えて貰う事もできないなら、それはそれで困りものである。
まあ、前述の通り、田島家の存在によって、にしうらーぜにおけるその悩みは、ほぼ解消されていると言ってもいいだろう。
たとえ田島自身に勉強の必要性が無いにしろ、彼は歓迎の態度を崩さないのだ。田島は仲間が好きで、大人数で集まるのも好きだったから。
そのような訳で、今日も今日とて、田島家の縁側に面した十二畳敷きはご盛況だった。日によって集まるメンツに入れ替わりがあるものの、大抵の日は5人以上が訪れている。
ドラフトによってプロ入りを決めている田島は、縁側に面した庭で、同じく受験勉強が要らなくなった阿部と素振りをしたり筋トレをしたり、または勉強の気分転換にと庭に出てきた誰かとキャッチボールをしたりして過ごしている。勉強している仲間をおいてロードワークに出ることもあるが、3年間ことあるごとに田島家に集まっていたにしうらーぜは、今更そんなことは気にしなかった。
田島は、ドラフト以降機嫌が良かった。プロ入りが決まったし、勉強しなくてもいいようになったし、みんなが田島の家で勉強してくれるから、取り残されたような気分にもならない。
おまけに―――これが結構嬉しいことなのだが、榛名のせいでパパラッチに辟易した阿部が、ドラフト以降田島家に避難してきていて、重度の野球バカな阿部が居るおかげで、一日中密度の濃い野球漬け生活を送る事ができるのだ。これまで田島が本能的にこなしていた状況判断や連携も、阿部にかかると理路整然と解明される。まさに、目から鱗である。
ところが、今週に入ってから、阿部が勉強組に混じってなにやらうんうん悩むようになってしまって、田島はをれを不満に思っていた。確かに阿部は頭のデキもよく、受験組によく数学を教えたりしていたが、それにしたって田島と一緒に筋トレしたりしている時間の方が長かったのだ。なのに、今週に入ってからは………
「なー、あべー」
「悪い、田島。後でな」
今週に入ってからは、この調子である。
阿部がこのようにつれなくなってしまった理由は…………またしても、榛名元希そのひとだった。
阿部は――――榛名に直球過ぎてどうしようもない愛情だか執着だかをぶつけられている阿部は、現在非常に困難な状況に追いつめられていた。
ノートを広げてなにやら文章を書き、それを消し、ノートの端になにやらメモ書きして、頭をかきむしって机に突っ伏す。締め切りを控えた作家か、人生の壁にぶつかって苦悩する人間の見本のような様であった。
しかしてその実態は――――やはり、人生の壁にぶつかって苦悩しているのである。
具体的に言うと、この先順調に野球人生を歩めたとしたら、それこそ一生関わり合いになるであろう某ノーコンピッチ――名を榛名元希という――がしでかした爆弾発言に、どう対応するか、という苦悩だった。
阿部は榛名のせいで、パパラッチにつきまとわれて迷惑したり、過去の確執をスクープされたり、あまつさえ、ホ……、ホモの疑惑までもたれているのである。それもこれも、榛名の方向性を間違った熱烈さのせいであることは疑いようもない。
そして、阿部は根っからの理系人間で、自分の気持ちを上手く言葉にするのはとてつもなく苦手だった。弁解するのもそうである。
つまり阿部は、これからことあるごとに聞かれる榛名との関係について、上手く誤解を避けるような模範解答を用意しておこうと思い立ち、しかし理系人間の文才の無さという超えられない壁に阻まれて苦悩しているのである。
「………栄口」
「ごめん無理」
即答だった。栄口はにしうらーぜ内で、野球から離れた視点でみれば最も阿部と親しい間柄だったが、その栄口をして、即答拒否である。もっとも、栄口は、優しく人当たりの良い人物であるが、阿部に対しては妙に容赦がなかったが。
「…………花井」
「悪い無理だ」
こちらも、即答だった。花井は部内では比較的阿部に甘く、おまけに苦労性で頼まれたら嫌と言えない性格だったが、今回ばかりはこちらも即答だった。正直なところ、自分の勉強と田島のストッパーで精一杯だったのである。それ以前に、花井は榛名が苦手だったのだ。
阿部は、頼りの2人に即答で断られて、いっそ絶望した! といった表情で天を仰いだ。うっかり、涙で天井が滲みそうになる。
それを見た栄口が、慌てて阿部を慰めだした。栄口は、泉に次いで阿部に容赦がないが、阿部に最も親身になりもする。この2つの事実は相反するようでいて、彼らの中では上手く整合しているらしい。阿部は、とても栄口を頼りにしているのだ。
「えーと、とりあえずカンペ…………っていうか、模範解答みたいなのを作るんだよな。こーいうのって、榛名さんを全否定するような内容だと、角が立つしまた別の方向から突っ込まれたりするから、とりあえずプロ野球選手としての榛名さんを褒めて、でも阿部自身は違う球団なんだし、個人的なところはあまり関係ない、みたいな感じの事を言えばいいんじゃないかな。………ほら、その、ホモ疑惑、みたいなのあるし、個人的なところは素っ気なくっていうか……」
「栄口………」
阿部が、希望に縋るように顔を上げた。ペンを持ったままの右手を、栄口がゆっくりと握る。にしうらーぜは現役時代の手つなぎ瞑想のたまものか、あまりこういった接触に抵抗感を持たない。一般的に見れば高校男子が手を取り合っているのはアレな光景かも知れないが、ここにはそれを不思議に思う人間は居なかった。
栄口が、阿部の黒い目をのぞき込んで言葉を繋げる。
「投手として、プロの先輩として野球に打ち込む榛名選手の姿勢に尊敬の念を抱きますが、シニアリーグ以降、高校の別の所に進学しましたし、…………とかいう感じで」
「そうか。そうだよな。なんか、ホ……、ホモ疑惑みたいなん持たれてる、みたいだけど、実際なんもなくて、フツーに他校の先輩だったし、その辺を上手く言えれば大丈夫だよな。………上手く言えるか分からないけど」
周囲からも、大丈夫、阿部なら出来るよ!……と励ましを受けて、阿部は覚悟を決めたように、ノートに向き直った。角の立たない、突っ込みどころもない上手いカンペを作って、平穏無事な野球人生を確立してみせる!
しかし、このとき阿部も栄口も、にしうらーぜたち全員が気付いていなかった。阿部という捕手の、投手に対する愛情深さを。
阿部は、投手をとても大切にし、己の全てを捧げてしまうような愛情深い捕手であった。この点で、榛名とはどっこいどっこいである。彼らの違いは、阿部の方が常識人でTPOを弁えている、ということだったが、このときみんなそれを失念していたのだった。
阿部が作成したカンペは、投手としての榛名を褒める段階で、うっかり愛溢れるものになってしまい、さらなる疑惑を呼ぶのだった。
阿部は、自分の認めた投手を、嘘でも貶すことは出来ない。おまけに愛情の密度が普通より濃い阿部は、普通に褒めたつもりでも、世間一般では熱烈に聞こえてしまうという事を分かっていなかったのだ。
なにせ、自習室という所は、基本的には会話厳禁なのである。他人の勉強の邪魔にならないように、そうした決まりがあるのは当然のことだったが、一緒にいる友人に分からない箇所を教えて貰う事もできないなら、それはそれで困りものである。
まあ、前述の通り、田島家の存在によって、にしうらーぜにおけるその悩みは、ほぼ解消されていると言ってもいいだろう。
たとえ田島自身に勉強の必要性が無いにしろ、彼は歓迎の態度を崩さないのだ。田島は仲間が好きで、大人数で集まるのも好きだったから。
そのような訳で、今日も今日とて、田島家の縁側に面した十二畳敷きはご盛況だった。日によって集まるメンツに入れ替わりがあるものの、大抵の日は5人以上が訪れている。
ドラフトによってプロ入りを決めている田島は、縁側に面した庭で、同じく受験勉強が要らなくなった阿部と素振りをしたり筋トレをしたり、または勉強の気分転換にと庭に出てきた誰かとキャッチボールをしたりして過ごしている。勉強している仲間をおいてロードワークに出ることもあるが、3年間ことあるごとに田島家に集まっていたにしうらーぜは、今更そんなことは気にしなかった。
田島は、ドラフト以降機嫌が良かった。プロ入りが決まったし、勉強しなくてもいいようになったし、みんなが田島の家で勉強してくれるから、取り残されたような気分にもならない。
おまけに―――これが結構嬉しいことなのだが、榛名のせいでパパラッチに辟易した阿部が、ドラフト以降田島家に避難してきていて、重度の野球バカな阿部が居るおかげで、一日中密度の濃い野球漬け生活を送る事ができるのだ。これまで田島が本能的にこなしていた状況判断や連携も、阿部にかかると理路整然と解明される。まさに、目から鱗である。
ところが、今週に入ってから、阿部が勉強組に混じってなにやらうんうん悩むようになってしまって、田島はをれを不満に思っていた。確かに阿部は頭のデキもよく、受験組によく数学を教えたりしていたが、それにしたって田島と一緒に筋トレしたりしている時間の方が長かったのだ。なのに、今週に入ってからは………
「なー、あべー」
「悪い、田島。後でな」
今週に入ってからは、この調子である。
阿部がこのようにつれなくなってしまった理由は…………またしても、榛名元希そのひとだった。
阿部は――――榛名に直球過ぎてどうしようもない愛情だか執着だかをぶつけられている阿部は、現在非常に困難な状況に追いつめられていた。
ノートを広げてなにやら文章を書き、それを消し、ノートの端になにやらメモ書きして、頭をかきむしって机に突っ伏す。締め切りを控えた作家か、人生の壁にぶつかって苦悩する人間の見本のような様であった。
しかしてその実態は――――やはり、人生の壁にぶつかって苦悩しているのである。
具体的に言うと、この先順調に野球人生を歩めたとしたら、それこそ一生関わり合いになるであろう某ノーコンピッチ――名を榛名元希という――がしでかした爆弾発言に、どう対応するか、という苦悩だった。
阿部は榛名のせいで、パパラッチにつきまとわれて迷惑したり、過去の確執をスクープされたり、あまつさえ、ホ……、ホモの疑惑までもたれているのである。それもこれも、榛名の方向性を間違った熱烈さのせいであることは疑いようもない。
そして、阿部は根っからの理系人間で、自分の気持ちを上手く言葉にするのはとてつもなく苦手だった。弁解するのもそうである。
つまり阿部は、これからことあるごとに聞かれる榛名との関係について、上手く誤解を避けるような模範解答を用意しておこうと思い立ち、しかし理系人間の文才の無さという超えられない壁に阻まれて苦悩しているのである。
「………栄口」
「ごめん無理」
即答だった。栄口はにしうらーぜ内で、野球から離れた視点でみれば最も阿部と親しい間柄だったが、その栄口をして、即答拒否である。もっとも、栄口は、優しく人当たりの良い人物であるが、阿部に対しては妙に容赦がなかったが。
「…………花井」
「悪い無理だ」
こちらも、即答だった。花井は部内では比較的阿部に甘く、おまけに苦労性で頼まれたら嫌と言えない性格だったが、今回ばかりはこちらも即答だった。正直なところ、自分の勉強と田島のストッパーで精一杯だったのである。それ以前に、花井は榛名が苦手だったのだ。
阿部は、頼りの2人に即答で断られて、いっそ絶望した! といった表情で天を仰いだ。うっかり、涙で天井が滲みそうになる。
それを見た栄口が、慌てて阿部を慰めだした。栄口は、泉に次いで阿部に容赦がないが、阿部に最も親身になりもする。この2つの事実は相反するようでいて、彼らの中では上手く整合しているらしい。阿部は、とても栄口を頼りにしているのだ。
「えーと、とりあえずカンペ…………っていうか、模範解答みたいなのを作るんだよな。こーいうのって、榛名さんを全否定するような内容だと、角が立つしまた別の方向から突っ込まれたりするから、とりあえずプロ野球選手としての榛名さんを褒めて、でも阿部自身は違う球団なんだし、個人的なところはあまり関係ない、みたいな感じの事を言えばいいんじゃないかな。………ほら、その、ホモ疑惑、みたいなのあるし、個人的なところは素っ気なくっていうか……」
「栄口………」
阿部が、希望に縋るように顔を上げた。ペンを持ったままの右手を、栄口がゆっくりと握る。にしうらーぜは現役時代の手つなぎ瞑想のたまものか、あまりこういった接触に抵抗感を持たない。一般的に見れば高校男子が手を取り合っているのはアレな光景かも知れないが、ここにはそれを不思議に思う人間は居なかった。
栄口が、阿部の黒い目をのぞき込んで言葉を繋げる。
「投手として、プロの先輩として野球に打ち込む榛名選手の姿勢に尊敬の念を抱きますが、シニアリーグ以降、高校の別の所に進学しましたし、…………とかいう感じで」
「そうか。そうだよな。なんか、ホ……、ホモ疑惑みたいなん持たれてる、みたいだけど、実際なんもなくて、フツーに他校の先輩だったし、その辺を上手く言えれば大丈夫だよな。………上手く言えるか分からないけど」
周囲からも、大丈夫、阿部なら出来るよ!……と励ましを受けて、阿部は覚悟を決めたように、ノートに向き直った。角の立たない、突っ込みどころもない上手いカンペを作って、平穏無事な野球人生を確立してみせる!
しかし、このとき阿部も栄口も、にしうらーぜたち全員が気付いていなかった。阿部という捕手の、投手に対する愛情深さを。
阿部は、投手をとても大切にし、己の全てを捧げてしまうような愛情深い捕手であった。この点で、榛名とはどっこいどっこいである。彼らの違いは、阿部の方が常識人でTPOを弁えている、ということだったが、このときみんなそれを失念していたのだった。
阿部が作成したカンペは、投手としての榛名を褒める段階で、うっかり愛溢れるものになってしまい、さらなる疑惑を呼ぶのだった。
阿部は、自分の認めた投手を、嘘でも貶すことは出来ない。おまけに愛情の密度が普通より濃い阿部は、普通に褒めたつもりでも、世間一般では熱烈に聞こえてしまうという事を分かっていなかったのだ。