困ったときの田島様
その日寝坊して、朝飯抜きの超特急でチャリを飛ばして学校に来た水谷は、久しぶりの激しい運動にヨロヨロしながらも自販機に歩み寄った。
「コ…、コーヒー………。それも甘いヤツ……」
寝起きで頭はボーっとするし、朝を食べていないので、なにかカロリーを取らないと一時間目持ちそうにない。購買はまだ開いていないし、引退してからは部室に置き菓子も無いから、砂糖増量の甘ーいカフェオレぐらいしか思いつかなかったのだ。
これで財布忘れてたら、誰かに弁当分けて貰って早弁するしか……、と、情けないことこの上ない事を考えながら、カバンの中を探る。………財布は無事に見つかった。
先に自販機の前にいた人が、無糖のホットコーヒーを買ったのを肩越しに見ながら、水谷も財布から100円玉を取り出す。ブラック飲むって格好良いけど、オレ今そんな余裕無いんだよね、と思いながら自分の番を待っていた。
………と、前の人物がカップ片手に振り返った。ヘンリーネックの下に着た長袖が薄ピンクで、男が着るには変わった組み合わせだけど優しい感じの配色が水谷は嫌いじゃない。どんな人だろう、一年かな、と顔をあげると―――
―――その優しい感じの配色の上に、阿部の仏頂面がのっかっていた。
「えっ阿部!?」
「んだよクソレフト。さっさと買ってとっとと教室行かねーと遅刻だぞ」
顔だけ見れば、完全に阿部隆也以外の何者でもない。初の練習試合以来、ずっとクソレフト呼ばわりの、態度のでかい阿部である。――もっとも水谷は、これが阿部のニュートラルなので、取り立てて機嫌が悪い訳でも嫌われている訳でもないことを知っているので気にしないが。
その事を気にはしないが、別のことが取っても気になる。水谷は、じゃーな、と校舎に入っていく阿部の後ろ姿に、思わず大声で叫んでいた。
「なんで制服じゃないの阿部!」
三年一組は、理系進学クラスである。二組も理系進学クラス、三組は普通の理系である。四組以降は文系クラスで、その中でも系統ごとに大まかなクラスに別れている。
阿部は、一組だった。スポーツで全国区、かつ理系進学クラス、というと、明らかにクラスメイト達とは毛色が違う。しかし、それを気にする様な阿部ではなかったし、クラスでも「まあ頭脳派捕手だからな」で通っている。
西広も一組だが、こちらは「西広って文武両道でいいよな」などと羨ましがられているところを見ると、阿部はなんだか特殊扱いだった。
その一組の教室が、チャイム直前に入ってきた人影にざわついた。人影は、教室中の視線などには気付いていない様な平静さで、席についてカバンを開いている。
教科書とノートを出して、ペンケースを出して、携帯をマナーモードにして……。阿部がそこまでの動作を終えたとき、丁度本鈴がなって担当教師が入ってきた。教師は、教室内の異様な雰囲気に首を傾げ、そして有る一点で目を留めた。
「なんで制服じゃないんだ阿部」
教室内、その言葉に一斉に頷く。今年度に入って一組が一番団結した瞬間だった。
「それで、なんで今日は制服じゃないの?」
一限終了後、なぜが一組に野球部三年が勢揃いしていた。ぐるりと席の周りを取り囲まれて、阿部はちょっとだけ眉を顰めた。
「なんで全員来るんだ。つーか、そもそもなんで全員知ってるんだ」
そう言いながらも、阿部の視線は水谷に固定されている。水谷が言いふらしたんだろうな、とは見当がついているのだ、三年目ともなると。
うん、オレがみんなに教えました。水谷は頷いて、こう聞いた。
「ねーねー阿部、なんで今日私服なの?つーか、阿部の私服って、そーいう系統だっけ?」
うんうん。にしうらーぜが頷く。一人の疑問はみんなの疑問。にしうらーぜ、野球を離れても仲が良い。
その様子に、何か知っているのか、田島が手を挙げてしゃべり出した。
「あ、阿部の服、実は…むぐっ」
―――しゃべり出して、阿部に取り押さえられる。
「なんでしゃべるんだお前は。つーかなんで手を挙げるんだ」
泉が、「田島はイイ子だから発言の時には手を挙げるんだよな」なんて、小学校の先生みたいな事を言っている。阿部は、田島の手を下ろさせながら、その田島のあしらい方をオレに伝授して欲しい、と真剣に願ってしまった。もしかしたら榛名のあしらいに応用できるかも知れない。
取り敢えず田島を黙らせ、私服の理由は昼に説明する、と言ってみんなを引き取らせた阿部は、ふぅ、とため息をついた。同じクラスの西広が、事情を知らないなりに気遣ってポンポンと肩を叩く。最近、人の優しさが沁みっぱなしの阿部は、西広ってイイヤツだ、と三橋の様なことを思っていた。
さて、ところ変わって、昼休みの屋上である。正確には、階段を昇りきった踊り場、屋上に出るすぐ手前の場所だ。
なんせ、屋上は施錠されているのでそうそう足を踏み入れることがない。が、踊り場までなら普通に出入りできるので、西浦ではこの場所のことを“屋上(の手前)”、と呼んでいた。
この“屋上”は、教室半分くらいの広さで、端に使われていない机が積み上げられているが、それでもけっこう広い。おまけに、壁の一面がガラス張りになっているので、夏はともかく秋ともなれば暖かくて快適なのだ。
どこから持ってきたのか、古ぼけた箒が置いてあるあたり、ここを掃除して使っている者が他にもいるらしい。まあ、はち合わせさえしなければ問題はないのだが。
その“屋上”で、阿部私服登校の謎解きを待ちこがれていた三年生は、車座に座って阿部に視線を集中させていた。なにか知っているらしい田島と、食欲に負けた三橋以外は、弁当をつつく手もそぞろだ。
そしてその注目の中、阿部がゆっくりと口を開いた。曰く――
「榛名のせいでパパラッチがうるさいから田島んちに避難してるんだ」
―――と。
だからこの服は、田島のアニキのを借りてる、と続ける阿部に、阿部家をよく知る栄口はこっそり涙した。避難って言うか、追い出されたんだな、多分。
「あれ、でも田島んちに避難してるだけなら、制服で来てもいいんじゃないの?」
「いや、私服校に学ランだと、オレってばれやすいかなって。田島んちにカメラマンとか押し掛けて迷惑かけるわけにもいかねぇし」
「ああ、それで田島が言おうとしたのを止めたんだ」
そ、お前らも言うなよ。そう言って阿部は、何事も無かったかの様にガツガツと弁当を食べ出した。よく見ると田島と同じメニューである。きっと田島家で渡されたのだろう。
そして、放課後。ふと終礼中に窓の外を眺めた水谷は、そこにカメラマンが待ちかまえているのを発見して、慌てて机の下でメールをうった。
【あべ、校門にカメラマンいるよ!】
水谷が終礼後すぐに一組の教室に行くと、なぜか沖と栄口がいた。
「裏門のところにも張り込みいるたいだよ」
「オレ、掃除してるときに、西側のフェンスのところにいるの見た」
要するに、朝方阿部弟のスケープゴートにみごと引っかかって阿部を取り逃がしたメディアの皆様が、執念深いことに学校の周りで張っているのだった。
そうこうする内に、花井や泉も駆けつけ、田島が三橋を引っぱってきて……と、数分の内に全員が集まっていた。みんな口々に、どこそこにカメラマンが居た、と阿部に教えている。
阿部は愛されてるねぇ、と水谷が呟き、花井が、協力できることがあったら言えよ、などと男前な事を言っている。
しかし、やはり一番男前なのは、田島だった。
大丈夫、オレに任せろ!と親指を立てた田島が、なにやらドラえもんが道具を出す時の様な効果音を口で言いながら、カバンからなにやら取り出した。
「……って、ただの懐中電灯じゃん」
「いいからいいから!」
そして、連れてこられたのなぜか校舎と校舎の間の、しかし中庭とは呼べない様な人気のない場所だった。
こんなところに連れてきて一体どうするんだ、と全員が首を捻る。確かにこの場所なら人目にはつかないが、しかしここで世を明かす訳にもいかないのだ。
もしかしたら、ここで夜になるまで待とうと言うのだろうか? 互いに顔を見合わせ、そんなことを考えているときだった。
地面を横切る様に、深い溝にかぶせられたスノコの一枚を、田島が引っ剥がした。
「おい、田島?」
田島はそのまま、深さが2メートルほどもある溝の中に入り込む。カチッと懐中電灯を点けて、振り向いてニカリと笑った顔が、得意そうに言う。
「これ、オレんちの田圃に水引いてる用水路でさ、今は刈り入れも終わったから、水止めてあんだよね」
「用水路?」
「そ。んで、この中通って、オレんちのすぐ裏に出れるんだ」
(田 島 様 !)
朝は大丈夫だったけど、帰りはヤバイかも知れないと思って懐中電灯持ってきといたんだ、と笑う田島は、男前すぎてホレそうだ。
んじゃ、帰るぞ! と言った田島の後ろ姿を、一生忘れられないだろうとにしうらーぜは思ったと言う。
「コ…、コーヒー………。それも甘いヤツ……」
寝起きで頭はボーっとするし、朝を食べていないので、なにかカロリーを取らないと一時間目持ちそうにない。購買はまだ開いていないし、引退してからは部室に置き菓子も無いから、砂糖増量の甘ーいカフェオレぐらいしか思いつかなかったのだ。
これで財布忘れてたら、誰かに弁当分けて貰って早弁するしか……、と、情けないことこの上ない事を考えながら、カバンの中を探る。………財布は無事に見つかった。
先に自販機の前にいた人が、無糖のホットコーヒーを買ったのを肩越しに見ながら、水谷も財布から100円玉を取り出す。ブラック飲むって格好良いけど、オレ今そんな余裕無いんだよね、と思いながら自分の番を待っていた。
………と、前の人物がカップ片手に振り返った。ヘンリーネックの下に着た長袖が薄ピンクで、男が着るには変わった組み合わせだけど優しい感じの配色が水谷は嫌いじゃない。どんな人だろう、一年かな、と顔をあげると―――
―――その優しい感じの配色の上に、阿部の仏頂面がのっかっていた。
「えっ阿部!?」
「んだよクソレフト。さっさと買ってとっとと教室行かねーと遅刻だぞ」
顔だけ見れば、完全に阿部隆也以外の何者でもない。初の練習試合以来、ずっとクソレフト呼ばわりの、態度のでかい阿部である。――もっとも水谷は、これが阿部のニュートラルなので、取り立てて機嫌が悪い訳でも嫌われている訳でもないことを知っているので気にしないが。
その事を気にはしないが、別のことが取っても気になる。水谷は、じゃーな、と校舎に入っていく阿部の後ろ姿に、思わず大声で叫んでいた。
「なんで制服じゃないの阿部!」
三年一組は、理系進学クラスである。二組も理系進学クラス、三組は普通の理系である。四組以降は文系クラスで、その中でも系統ごとに大まかなクラスに別れている。
阿部は、一組だった。スポーツで全国区、かつ理系進学クラス、というと、明らかにクラスメイト達とは毛色が違う。しかし、それを気にする様な阿部ではなかったし、クラスでも「まあ頭脳派捕手だからな」で通っている。
西広も一組だが、こちらは「西広って文武両道でいいよな」などと羨ましがられているところを見ると、阿部はなんだか特殊扱いだった。
その一組の教室が、チャイム直前に入ってきた人影にざわついた。人影は、教室中の視線などには気付いていない様な平静さで、席についてカバンを開いている。
教科書とノートを出して、ペンケースを出して、携帯をマナーモードにして……。阿部がそこまでの動作を終えたとき、丁度本鈴がなって担当教師が入ってきた。教師は、教室内の異様な雰囲気に首を傾げ、そして有る一点で目を留めた。
「なんで制服じゃないんだ阿部」
教室内、その言葉に一斉に頷く。今年度に入って一組が一番団結した瞬間だった。
「それで、なんで今日は制服じゃないの?」
一限終了後、なぜが一組に野球部三年が勢揃いしていた。ぐるりと席の周りを取り囲まれて、阿部はちょっとだけ眉を顰めた。
「なんで全員来るんだ。つーか、そもそもなんで全員知ってるんだ」
そう言いながらも、阿部の視線は水谷に固定されている。水谷が言いふらしたんだろうな、とは見当がついているのだ、三年目ともなると。
うん、オレがみんなに教えました。水谷は頷いて、こう聞いた。
「ねーねー阿部、なんで今日私服なの?つーか、阿部の私服って、そーいう系統だっけ?」
うんうん。にしうらーぜが頷く。一人の疑問はみんなの疑問。にしうらーぜ、野球を離れても仲が良い。
その様子に、何か知っているのか、田島が手を挙げてしゃべり出した。
「あ、阿部の服、実は…むぐっ」
―――しゃべり出して、阿部に取り押さえられる。
「なんでしゃべるんだお前は。つーかなんで手を挙げるんだ」
泉が、「田島はイイ子だから発言の時には手を挙げるんだよな」なんて、小学校の先生みたいな事を言っている。阿部は、田島の手を下ろさせながら、その田島のあしらい方をオレに伝授して欲しい、と真剣に願ってしまった。もしかしたら榛名のあしらいに応用できるかも知れない。
取り敢えず田島を黙らせ、私服の理由は昼に説明する、と言ってみんなを引き取らせた阿部は、ふぅ、とため息をついた。同じクラスの西広が、事情を知らないなりに気遣ってポンポンと肩を叩く。最近、人の優しさが沁みっぱなしの阿部は、西広ってイイヤツだ、と三橋の様なことを思っていた。
さて、ところ変わって、昼休みの屋上である。正確には、階段を昇りきった踊り場、屋上に出るすぐ手前の場所だ。
なんせ、屋上は施錠されているのでそうそう足を踏み入れることがない。が、踊り場までなら普通に出入りできるので、西浦ではこの場所のことを“屋上(の手前)”、と呼んでいた。
この“屋上”は、教室半分くらいの広さで、端に使われていない机が積み上げられているが、それでもけっこう広い。おまけに、壁の一面がガラス張りになっているので、夏はともかく秋ともなれば暖かくて快適なのだ。
どこから持ってきたのか、古ぼけた箒が置いてあるあたり、ここを掃除して使っている者が他にもいるらしい。まあ、はち合わせさえしなければ問題はないのだが。
その“屋上”で、阿部私服登校の謎解きを待ちこがれていた三年生は、車座に座って阿部に視線を集中させていた。なにか知っているらしい田島と、食欲に負けた三橋以外は、弁当をつつく手もそぞろだ。
そしてその注目の中、阿部がゆっくりと口を開いた。曰く――
「榛名のせいでパパラッチがうるさいから田島んちに避難してるんだ」
―――と。
だからこの服は、田島のアニキのを借りてる、と続ける阿部に、阿部家をよく知る栄口はこっそり涙した。避難って言うか、追い出されたんだな、多分。
「あれ、でも田島んちに避難してるだけなら、制服で来てもいいんじゃないの?」
「いや、私服校に学ランだと、オレってばれやすいかなって。田島んちにカメラマンとか押し掛けて迷惑かけるわけにもいかねぇし」
「ああ、それで田島が言おうとしたのを止めたんだ」
そ、お前らも言うなよ。そう言って阿部は、何事も無かったかの様にガツガツと弁当を食べ出した。よく見ると田島と同じメニューである。きっと田島家で渡されたのだろう。
そして、放課後。ふと終礼中に窓の外を眺めた水谷は、そこにカメラマンが待ちかまえているのを発見して、慌てて机の下でメールをうった。
【あべ、校門にカメラマンいるよ!】
水谷が終礼後すぐに一組の教室に行くと、なぜか沖と栄口がいた。
「裏門のところにも張り込みいるたいだよ」
「オレ、掃除してるときに、西側のフェンスのところにいるの見た」
要するに、朝方阿部弟のスケープゴートにみごと引っかかって阿部を取り逃がしたメディアの皆様が、執念深いことに学校の周りで張っているのだった。
そうこうする内に、花井や泉も駆けつけ、田島が三橋を引っぱってきて……と、数分の内に全員が集まっていた。みんな口々に、どこそこにカメラマンが居た、と阿部に教えている。
阿部は愛されてるねぇ、と水谷が呟き、花井が、協力できることがあったら言えよ、などと男前な事を言っている。
しかし、やはり一番男前なのは、田島だった。
大丈夫、オレに任せろ!と親指を立てた田島が、なにやらドラえもんが道具を出す時の様な効果音を口で言いながら、カバンからなにやら取り出した。
「……って、ただの懐中電灯じゃん」
「いいからいいから!」
そして、連れてこられたのなぜか校舎と校舎の間の、しかし中庭とは呼べない様な人気のない場所だった。
こんなところに連れてきて一体どうするんだ、と全員が首を捻る。確かにこの場所なら人目にはつかないが、しかしここで世を明かす訳にもいかないのだ。
もしかしたら、ここで夜になるまで待とうと言うのだろうか? 互いに顔を見合わせ、そんなことを考えているときだった。
地面を横切る様に、深い溝にかぶせられたスノコの一枚を、田島が引っ剥がした。
「おい、田島?」
田島はそのまま、深さが2メートルほどもある溝の中に入り込む。カチッと懐中電灯を点けて、振り向いてニカリと笑った顔が、得意そうに言う。
「これ、オレんちの田圃に水引いてる用水路でさ、今は刈り入れも終わったから、水止めてあんだよね」
「用水路?」
「そ。んで、この中通って、オレんちのすぐ裏に出れるんだ」
(田 島 様 !)
朝は大丈夫だったけど、帰りはヤバイかも知れないと思って懐中電灯持ってきといたんだ、と笑う田島は、男前すぎてホレそうだ。
んじゃ、帰るぞ! と言った田島の後ろ姿を、一生忘れられないだろうとにしうらーぜは思ったと言う。