人身御供は弟
閑静な住宅街、だったはずのそこは、つい数日前から、その落ち着きを失っていた。
辛うじて車が行き違い出来る程度の幅の道路に、連日路駐が横行し、しかもその車は住宅地在住者のものではないのだ。ならば誰の車か。……週刊誌やワイドショーなどの、つまりはパパラッチ、である。
交通量はそう多くはないが、住宅街なので子供が多い。路駐の車に苛ついた運転手が、車の影から飛び出す子供に肝を冷やす、と言う場面が、ここ数日何度か見られた。まったく、迷惑極まりない騒ぎである。
この喧噪の原因は、ある一人の高校生だった。名を阿部隆也といい、今年の甲子園で活躍した埼玉代表校の正捕手である。度を超した野球バカで、野球と投手以外には驚くほど淡白だが、近所付き合いに必要な礼儀――すなわち、挨拶――は持ち合わせているので、近所からの評判は概ねいい。もっとも、始発が動き出す頃に登校して、夜も9時10時に帰宅する、という高校生活を送っていた為に、ご近所様に挨拶する機会など殆ど無かったのだが。
その阿部隆也の生家、阿部家では、今いくつかの問題が持ち上がっていた。周囲の路駐、記者の聞き込み、それに伴う喧噪。全て、阿部隆也のプロ入りに起因している。
特にこの何日か、隆也は取材を避ける為に、朝練があった頃の時間に登校する様になっていた。本人曰く、体に染み付いた習慣だから、どっちにしろ一度は目が覚めるし、とのことだ。
しかし、ターゲットの早出を察した記者達は、今度は夜明け前から家の前に張り込む様になってしまった。ただでさえ近所に迷惑を掛けているのに、時間帯が早朝ではその度合いも半端ではない。
見かねた母親が、「あんたほとぼり冷めるまでどこかに移り住む?」などと犯罪者に対する様なセリフを発したが、それも仕方ないくらいの迷惑っぷりだった。……が、避難場所にまで押し掛けられては、そちらにも迷惑がかかってしまう。
―――そこで作戦会議、と言う辺り、もしかすると阿部の両親は面白がっているのかも知れないが。
次の日、早朝。
一台の自転車が、庭と続く車庫から出てきた。はねた黒髪にタレ目の学ラン姿が、サドルに跨る。そのまま、ぐっ、と一漕ぎ目に力を入れて、結構なスピードで東――西浦高校の方向だ――に進み出した。それを見つけたカメラマンが、一斉にその後を追う。
国道の大きな交差点、なかなか変わらない信号に引っかかっているのに追いつき、カメラマンは、前方に回り込んで進路を塞ぎ、マイクを突きつけた。
「阿部選手っ、先日の榛名選手の発言についてお聞きしたいのですが!」
「は?……なんですか?」
「ですから、先日の榛名選手の……っ」
「人違いです。オレ、隆也じゃないですよ」
「えっ!?」
よく見ると、タレ目も黒髪も同じ、背格好も同じだが、雰囲気が少しやわらかい。
呆然と、阿部隆也(だと思っていた少年)を凝視するメディアを余所に、その阿部隆也もどきは悠然と自転車で去っていった。
阿部隆也もどき、自転車上でなにやらぼやいている。
「くっそー、アニキのアホー!なんでオレが身代わりなんだよっ」
―――昨夜、阿部家リビングにて。
「取り敢えず、これ以上ここに張り込まれたら迷惑だから、あんたしばらく身を隠しなさいよ」
「まあ、確かに鬱陶しいけど」
サバサバした母が、同じくサバサバした息子に言った。阿部隆也、タレ目は父似だが、性格はきっと母似だ。
「ばあちゃんちでも行くか?」
「……新幹線で学校通えっての?」
「まあそりゃ無理だな」
……と父の提案は、距離という越えられない壁があるので即却下で。
「………田島が、オレんちなら周り畑だから大丈夫だよ、って言ってたから、田島んちに行こうかな」
そして、阿部の提案は、安易にも友人宅に転がり込むというものだったが……。
「あら、田島君ち、ご迷惑じゃないの?」
「田島んち学校から近いから、気付かれずに登下校できるってさ。あと、田島んちの人たち、あんまり気にしなさそうだし」
「それいいわね。それにしても、アンタに付きまとってるメディアの方が悪質ね。何アレ、ゴシップ誌とかじゃないの?」
「それに関しては元希さんが悪い」
「そうねぇ。……あら、ちょっとシュン、聞いてるの?」
「あーうん……」
取り敢えず避難先が決まったので、次にどうやって気付かれずに田島家に移るか、という話になった。ちなみに阿部弟は、この時点で馬鹿らしくなって話を聞き流していたのだが、それを後で後悔することになる。
「――――って感じで行くのは?」
「絶対ばれるわよ」
「もういいよ、オレがチャリ全速で振り切るから」
「アンタ自転車でドリフトするのは止めなさいよ」
「じゃあどーしろってんだよ」
そこで、ふと阿部父がタレ目を大きく見開いた。
「シュンの身長、タカと同じくらいだったよな?」
「……3センチ差」
「アンタあんまり伸びなかったしね」
「うっせぇ」
「まぁまぁ。……それにしても、こうしてみると顔も随分似てるな」
「タレ目が特徴的過ぎるのよ」
「タレ目タレ目って……。まあ自分でもオレとシュンって似てると思うけど」
阿部弟は、作戦会議を右から左に聞き流して、テレビのサッカー中継を見ていた。その横顔に、父母長男の三人は視線を集中させ、そのあと三人で顔を見合わせて言った。
「じゃあ明日の朝はそう言うことで」
―――そして、阿部弟、シュンの人身御供は、本人の与り知らぬ内に決定したのであった。
シュンが西浦に行くと見せかけて、町内を一周して戻ってきたとき、自宅の前には人っ子一人いなかった。車庫に自転車が無かったので、隆也は既に家を出た、と知れる。
しばらくすると、メディアが家の前に駆け戻ってきたので、シュンが囮になっている間にこっそり出て行った隆也は見つからずに逃げおおせたのだな、と分かった。
―――阿部家次男、阿部俊也。兄の隆也とよく似た顔、背格好だが、性格は格段に兄より良いと自負している。だってあの兄は、あまりにも特殊すぎる。今まで、似ている似ていると言われてきて、嫌でもなかったが。
このときほど似ていることを後悔したことは無かったという。
辛うじて車が行き違い出来る程度の幅の道路に、連日路駐が横行し、しかもその車は住宅地在住者のものではないのだ。ならば誰の車か。……週刊誌やワイドショーなどの、つまりはパパラッチ、である。
交通量はそう多くはないが、住宅街なので子供が多い。路駐の車に苛ついた運転手が、車の影から飛び出す子供に肝を冷やす、と言う場面が、ここ数日何度か見られた。まったく、迷惑極まりない騒ぎである。
この喧噪の原因は、ある一人の高校生だった。名を阿部隆也といい、今年の甲子園で活躍した埼玉代表校の正捕手である。度を超した野球バカで、野球と投手以外には驚くほど淡白だが、近所付き合いに必要な礼儀――すなわち、挨拶――は持ち合わせているので、近所からの評判は概ねいい。もっとも、始発が動き出す頃に登校して、夜も9時10時に帰宅する、という高校生活を送っていた為に、ご近所様に挨拶する機会など殆ど無かったのだが。
その阿部隆也の生家、阿部家では、今いくつかの問題が持ち上がっていた。周囲の路駐、記者の聞き込み、それに伴う喧噪。全て、阿部隆也のプロ入りに起因している。
特にこの何日か、隆也は取材を避ける為に、朝練があった頃の時間に登校する様になっていた。本人曰く、体に染み付いた習慣だから、どっちにしろ一度は目が覚めるし、とのことだ。
しかし、ターゲットの早出を察した記者達は、今度は夜明け前から家の前に張り込む様になってしまった。ただでさえ近所に迷惑を掛けているのに、時間帯が早朝ではその度合いも半端ではない。
見かねた母親が、「あんたほとぼり冷めるまでどこかに移り住む?」などと犯罪者に対する様なセリフを発したが、それも仕方ないくらいの迷惑っぷりだった。……が、避難場所にまで押し掛けられては、そちらにも迷惑がかかってしまう。
―――そこで作戦会議、と言う辺り、もしかすると阿部の両親は面白がっているのかも知れないが。
次の日、早朝。
一台の自転車が、庭と続く車庫から出てきた。はねた黒髪にタレ目の学ラン姿が、サドルに跨る。そのまま、ぐっ、と一漕ぎ目に力を入れて、結構なスピードで東――西浦高校の方向だ――に進み出した。それを見つけたカメラマンが、一斉にその後を追う。
国道の大きな交差点、なかなか変わらない信号に引っかかっているのに追いつき、カメラマンは、前方に回り込んで進路を塞ぎ、マイクを突きつけた。
「阿部選手っ、先日の榛名選手の発言についてお聞きしたいのですが!」
「は?……なんですか?」
「ですから、先日の榛名選手の……っ」
「人違いです。オレ、隆也じゃないですよ」
「えっ!?」
よく見ると、タレ目も黒髪も同じ、背格好も同じだが、雰囲気が少しやわらかい。
呆然と、阿部隆也(だと思っていた少年)を凝視するメディアを余所に、その阿部隆也もどきは悠然と自転車で去っていった。
阿部隆也もどき、自転車上でなにやらぼやいている。
「くっそー、アニキのアホー!なんでオレが身代わりなんだよっ」
―――昨夜、阿部家リビングにて。
「取り敢えず、これ以上ここに張り込まれたら迷惑だから、あんたしばらく身を隠しなさいよ」
「まあ、確かに鬱陶しいけど」
サバサバした母が、同じくサバサバした息子に言った。阿部隆也、タレ目は父似だが、性格はきっと母似だ。
「ばあちゃんちでも行くか?」
「……新幹線で学校通えっての?」
「まあそりゃ無理だな」
……と父の提案は、距離という越えられない壁があるので即却下で。
「………田島が、オレんちなら周り畑だから大丈夫だよ、って言ってたから、田島んちに行こうかな」
そして、阿部の提案は、安易にも友人宅に転がり込むというものだったが……。
「あら、田島君ち、ご迷惑じゃないの?」
「田島んち学校から近いから、気付かれずに登下校できるってさ。あと、田島んちの人たち、あんまり気にしなさそうだし」
「それいいわね。それにしても、アンタに付きまとってるメディアの方が悪質ね。何アレ、ゴシップ誌とかじゃないの?」
「それに関しては元希さんが悪い」
「そうねぇ。……あら、ちょっとシュン、聞いてるの?」
「あーうん……」
取り敢えず避難先が決まったので、次にどうやって気付かれずに田島家に移るか、という話になった。ちなみに阿部弟は、この時点で馬鹿らしくなって話を聞き流していたのだが、それを後で後悔することになる。
「――――って感じで行くのは?」
「絶対ばれるわよ」
「もういいよ、オレがチャリ全速で振り切るから」
「アンタ自転車でドリフトするのは止めなさいよ」
「じゃあどーしろってんだよ」
そこで、ふと阿部父がタレ目を大きく見開いた。
「シュンの身長、タカと同じくらいだったよな?」
「……3センチ差」
「アンタあんまり伸びなかったしね」
「うっせぇ」
「まぁまぁ。……それにしても、こうしてみると顔も随分似てるな」
「タレ目が特徴的過ぎるのよ」
「タレ目タレ目って……。まあ自分でもオレとシュンって似てると思うけど」
阿部弟は、作戦会議を右から左に聞き流して、テレビのサッカー中継を見ていた。その横顔に、父母長男の三人は視線を集中させ、そのあと三人で顔を見合わせて言った。
「じゃあ明日の朝はそう言うことで」
―――そして、阿部弟、シュンの人身御供は、本人の与り知らぬ内に決定したのであった。
シュンが西浦に行くと見せかけて、町内を一周して戻ってきたとき、自宅の前には人っ子一人いなかった。車庫に自転車が無かったので、隆也は既に家を出た、と知れる。
しばらくすると、メディアが家の前に駆け戻ってきたので、シュンが囮になっている間にこっそり出て行った隆也は見つからずに逃げおおせたのだな、と分かった。
―――阿部家次男、阿部俊也。兄の隆也とよく似た顔、背格好だが、性格は格段に兄より良いと自負している。だってあの兄は、あまりにも特殊すぎる。今まで、似ている似ていると言われてきて、嫌でもなかったが。
このときほど似ていることを後悔したことは無かったという。