一日目

 寝ころんだ頭上に、パラパラと音がする。屋根を打つ水滴、雨の音。普段ならこんな時間に家にいることなんてないのに、雨が降った日は筋トレだけして家に帰るものだから、どうにも調子が狂ってしまう。榛名は、ふわぁ、と大きな欠伸をひとつこぼして、しかし眠ってしまえるほどには眠くない体を弛緩させた。
 外は雨で、止む気配が無くて、練習が無くなってしまって。仕方なく帰った家は、まだ明かりを付けなくても充分に明るく、かといって雨の日の弱い自然光では少しばかりボンヤリして見えて、他人の家に上がり込んだように余所余所しく感じてしまう。はっきり言えば、所在がない、と言う状況で、ひどく落ち着かないままに ベッドの上でゴロゴロしていた。
「・・・・・・・・・ヒマ、だぁ」
 思わず口に付いた言葉は、予想外に情けない声をしていて、オレってもしかして野球が出来ないと全くダメなヤツなんじゃ、なんて思いがよぎった。ぶんと首を振ってその考えを追い払おうとしたが、よく考えてみれば、野球以外に取り立てて得意なものがないのも事実だ。反射的に頭に浮かんだ、今は違うチームで野球をしている元捕手の少年も、今頃気付いたんですか、なんて言っている。
(あ、くそっ、相変わらずナマイキなヤツ!)
 想像上のタカヤに、ふふん、と笑われて、あくまで想像上の事なのにちょっとムカッときた。なんで自分の想像にむかついてんだよオレ、なんてセルフツッコミも役には立たない。なんせ、実際に現実のタカヤも、この場合はやっぱり、今頃気付いたんですかと言って笑うに決まっているのだから。その程度には、タカヤの事を分かっている。
「タカヤー、ヒマだー」
 ゴロゴロ、ごろごろ、無駄にベッドの上を転がりながら、閉じた瞼の裏にうつるタカヤに向かって言ってみた。さっきまでバカにしたように笑っていたタカヤは、ふうっと少しだけ眉根を寄せて、仕方ないなぁって顔をした。まだシニアにいた頃の、チビっちゃくて髪が短くて、サルみたいなタカヤだ。そう言えばあの頃も、仕方ないなぁって顔をよくしていた。今は、あの頃よりも背も髪も伸びていて、なんだか態度は不貞不貞しくなっている。今はチームが違うから、そう滅多に会えないけど、野球バカなのは相変わらずだった。
 そう思っていたら、瞼の裏のタカヤは成長していって、さっきまでは出会った頃のタカヤだったのが、痣だらけでもオレの球を捕れるようになったタカヤになって、シニアを引退する頃のタカヤになって、そこからいきなり高校生の、春大のフェンス越しに会ったタカヤになった。それから、今のタカヤに。仕方ないなぁって顔をする、今のタカヤ。なんだか本当にそこにいるようで、でも眼をあけるとやっぱりそこは誰もいない自分の部屋で、どういうワケかガッカリした。 野球が出来ないと、どうにも鬱屈して情けないヤツに成り下がっている気がする。窓の外は雨が降り続いていて、止む気配なんて欠片ほども見いだせなかった。




  二日目

 朝練があるし、無い日もランニングに出るもんだから、体内時計がちゃんとその時間に体を起こしてくれる。
 ところが、窓の外を見るまでもなく、昨日からの雨が降り続いているので、朝練がない上に走りにも出られなかった。なんせ、昨日はパラパラと軽い音で止めを打っていた雨音が、今日はバシバシ言っていてなんだか痛そうだ。確実に部活が出来ない上に、グラウンドまで荒れそうな激しい雨でイヤになる。
ヴィィィ、ヴィィィ…
 マナーモードの携帯をとったら、案の定秋丸からの朝練中止の連絡だった。ちなみに榛名は連絡網の最後だった。往々にして次の人に回すのを忘れる為に、榛名だけ別系統で秋丸から回ってくるようにしてあるのだ。榛名の球を受けていると、必然的に榛名係にされてしまうのだが、中高一緒で秋丸はすでに諦めの境地に至っていた。
「やっぱり、朝練ないよなぁ。つか、午後練も出来なさそう……」
 榛名は、普段の覇気はどこへいったのかというくらい弱々しく呟いた。つり目のきつい眼差しが、今は困ったように垂れてしまっている。鬱々としてしまって、どうしようもない。朝練は無くなったわ、多分放課後の練習も出来ないわで、それならいっそ、
「学校、サボッちまおーかな……」
 声に出してみると、それはひどくいい考えのような気がした。放課後になったら筋トレだけしに行ったらいいし、それまでは家でのんびりしていてもいいし、普段出来ない買い物に出てもいい。
 よっ、と起きあがり、規則正しく鳴り出しそうな気配の腹時計を抱えて、朝飯でも、と一階に降りていった。雨の日は朝練がないのが常だから、まだ親も起きてなくて、シンとした居間は自分の家じゃないみたいだ。そう言えば昨日もそんな事を考えた、と思いだして、ふとおかしくなる。練習で殆ど家にいない自分は、違う表情の家に対して余所余所しいと感じる事の方がおかしいのではないか。だって、家ですることなんて、メシ、風呂、寝る、の3つくらいしかない。家事なんて全然手伝わないし、ヒマがないのもそうだけど今更そんな事期待されてもいないから、今だってほら、パンがどこに置いてあるかも、無くなってしまったジャムの新しい瓶がどこにしまってあるのかも分からない。
 仕方がないから牛乳だけ飲んで、朝飯までもう一回寝ようかな、なんて考えながら、さっき降りてきた怪談を昇った。二階の突き当たりに置かれた姿見に映った自分は、なんだかいつもと違って眉をしかめて目尻が<垂れていて、
「うわ、タカヤみたい」
 アイツもこの雨で練習が出来なくて鬱々としてんのかな、と思うと、なんだか無性に会いたくなってしまう。
 自室のベッドにごろんと伸びて、もう一眠り、と目を閉じれば、瞼の裏にはやっぱりタカヤが浮かんだ。昔見た事のある光景。いつだったかな、と記憶をさらう。髪は短いままに、腕の痣はいくつか薄くなっているものもある。多分、夏合宿のときのタカヤだ。あのときも雨が降っていて、あのでっかくて垂れてる眼をもっと垂らして、思案げに窓の外を見ていた。野球がしたい、ボールを追いたくてたまらないのに、それが出来ないときのあの鬱屈。こういうときのオレとタカヤは、少し似ているとも思う。
 一度、あんまり雨続きで練習が出来なかったときに、訊いてみたことがあった。
『オレって、野球できないとどうしよーもねぇな、って思う』
『元希さん、投げる以外に特技とかあったんスか?』
『おま、即答かよ!? つか、さすがにそれってシツレーじゃねぇ?』
『だってだって実際、元希さんって投げるだけじゃないですか』
『じゃあオマエはどーなんだよ。捕るだけじゃねーの』
『オレは……、違いますよ』
 そう言ってタカヤは窓の外に視線を戻した。なにか小さく呟いたのは、声が小さくて聞き取れなかった。
―――ってことがあった、のを思いだした。昨日から、他にする事がないせいか、いろんなことを思いだしている気がする。予想外に細部まで覚えていて、というか、閉じた瞼の裏で勝手に再生されて、あれ、オレってこんなに記憶力よかったっけ、なんて思う。
 目を開くとそこは自分の部屋で、タカヤの姿も消えて、法則があるのかないのか分からない模様の壁紙ばかりが目に入った。
「あー、鬱だー」
 野球ができないと、くだらない事ばかり考えてしまう。考えを追い払うように頭を振って、でもなにもすることがないから腹筋でもしようかな、なんて思ってみた。





  夜

 夢を見た。それが夢だと分かっていても、背に冷たい汗が流れるような、そんな夢だった。
 中学の頃、膝をやって、野球が出来なくなる夢だ。オレの生活の中で1番だった野球が、オレを支えていた野球が、ある日突然出来なくなる、という悪夢。
 これは実際にあった話で、でもって今はリハビリしてまた野球が出来るようになっているって分かっているけど、それでもおそろしい。短い人生だが、野球しかやってこなくて、野球しかないオレが、この先どうしたらいいのだろうと、ひどく途方にくれた。
 野球が無くなった穴を埋めてくれるようなものなんてない。話しかけても返事をしない、目も合わなくなった顧問。
 くさって、鬱屈して、なにもかもどうでもよくなった、うつろな日々。投げられないと言うだけで、オレはこんなにも無意味な存在になる。
 投げられない、という恐怖。要らなくなる、という恐怖。
 怖い、と思った。





  三日目

 朝起きると、じっとりと汗をかいていて、最悪の目覚めだった。時計を見ると、けっこう長く寝ていたはずなのに、寝ている間に力が入って体が強張っていたのか、なにやらだるい。  窓の外を見るまでもなく今日も雨で、また練習が出来ないのかと思うと、気落ちを通り越して腹が立ってくる。
 雨を降らすカミナリ様みたいなのがいるとしたら、絶対にぶち殺してやる。そんな事を考えている今朝の自分の顔は、えらく人相が悪い。
「学校、行きたくねぇな」
 しかし、昨日それで授業をサボって筋トレだけしに行ったら、秋丸に特大のカミナリを落とされた。ついでに、明日は小テストがあるから絶対に来いよ、と言われていた事も思いだして、舌打ちをひとつして起きあがった。
 今日も投げれなかったら、死んでしまう。きっとオレは干涸らびる。食べる、眠ると同じレベルで野球への欲求があって、本当に自分は野球しかないのだ、と知らされた。

「あ、榛名!」
 秋丸が駆け寄ってくる。それを特になんの感動もなく眺めていると、目の前まで来た秋丸にのぞき込まれた。
「榛名、大丈夫か?ひどい顔してるよ」
「うっせ、この顔は元々だ」
「いやでも、目の下クマとかできてるし。ちゃんと眠れてる?」
 秋丸は、心配してそう言ってくれてるんだろうし、いつもの自分はちゃんとそれを分かっているのだけれど、今日はうるさいとしか感じない。鬱陶しい。オレに構うな。
「ちゃんと眠れてるよ」
 それだけ言って、さっさと背を向けた。このまま話していると、ひどい事を言ってしまいそうだった。
『どうせオレは投げるだけしか能がねぇよ!』
『投げれないオレには用はねぇだろ』
 秋丸はそんな事無いのに、言ってしまいそうになる。コイツはオレが膝痛めたときも、リハビリを見守って、その後シニアに行けって言ってくれて、そんなことは無いのに。
 もう支離滅裂だ。
 なんでオレはこんなに卑屈になってるんだ。ちょっと雨が続いて投げられないだけなのに。  キリキリと頭だか胃だかが痛んで、きつく目を閉じた。途端に、意識もしないで浮かぶ姿がある。タカヤ。ここ数日、すっとそうであるように、目を閉じるとタカヤの姿が浮かぶ。食い入るようにボールを見つめる目。高校生になって、背も髪も伸びても大きなたれ目は変わらないままの、あの顔が浮かぶ。
 昔、投げるしか取り柄がないと言われたことがあった。じゃあ、雨の日のオレは用無しだな、なんて思う。なんて後ろ向きな考え!
 実際にアイツがオレの球にしか興味が無くてもイイと思っていた。同じチームでやっているなら、それでも充分だと思っていた。でも今は違うチームで、たまに行き来はあるけれど、ひどく不安に陥る事がある。なんでオマエはオレと会って喋ってんの。オマエに投げないオレに、なんの価値があるの、と。このひどい不安定さ。もうどうして良いか分からない。 今、投げるボールを捕って欲しい。





  四日目

 今日も雨だ。でもって、今日は土曜で学校が休みだ。心なしか、昨日よりも小降りになっているようだけど、こんなに降り続いていたらグラウンドなんて使えるワケがない。
 オレの鬱屈はもう限界を超えたようで、昨日の夕方当たりからは誰とも言葉を交わしていなかった。こっちから話しかける気なんて欠片もおこらないし、どうやらひどい悪相になっているようで、誰も話しかけてこない。遠巻きにされている感覚は、リハビリをしていたあの頃に似ている。何もかも面倒だ。携帯の電源すら切ってある。
 寝ころんだまま天井を睨んで、ほかにすることもなくて自身を持て余している。目を閉じると決まって浮かんでくる顔があるので、そしてその顔に言い様もない不安をかき立てられるので、なるべく目を閉じないようにしていた。
 雨の音以外聞こえない部屋は、静かすぎて廊下や階下の音をよく通した。階段を上がってくる足音。潜めてはいるけれど、かすかに板敷きの軋む音がする。これは恐らく母親の足音で、部屋の前で立ち止まって、何か逡巡するような気配がして、再び遠ざかる。本当に、はれ物に触るようでいたたまれない。
「・・・・・・・・・出るか」
 気遣う家族の気配すら鬱陶しくて、家にすら居たくなくなってくる。外に出るのも億劫だけど、気を遣われない分だけマシか、と家を飛び出した。

 雨の中を、あてもなく歩く。家を出た瞬間、傘を持っていない事に気がついたが、戒めたばかりのドアを開けたくなくてそのまま濡れるにまかせている。どこへ行こう、と思ったが、財布を持ってでなかったのでどこへも行けない。携帯すら持っていない、完全に手ぶらの状態で、こんな雨の中でどうしよう。途方にくれるが、それすらどうでもよく思えてきた。
 濡れながら歩いていると不審な目で見られるので、人気のない方へと歩みを進める。うつむいた為に狭い視界に、足が跳ね上げる水溜まりの飛沫が見える。アスファルトは降り注ぐ水を吸収することなく、そこここで水溜まりを作っては道路脇の排水溝へと流れていく。
 ふと、歩いていた地面が、黒い舗装から赤茶けた土に変わった。気がついたらそこは、何度も来た事がある公園だった。
 公園には面白いくらいに人がいない。
「当たり前か、雨降ってんだし」
 公園の土も、もう水を吸収しきれなくて大きな水溜まりを作っている。ぬかるんで足を取られそうなそこを、頓着せずに歩いて、誰が忘れていったのが、元の色も分からないくらいに汚れたボールを拾い上げた。
 それは軟式用のボールで、濡れてひどく滑る。しかし野球のボールである事に変わりはなく、それを自分が握っているのに、受ける相手がいないのが不思議なくらいだ。
 投げたい、投げたい。
 胃の内容物が逆流するときのような圧迫感と息苦しさ、に似た感覚で、何かが胸の当たりに詰まっている。いっそ指を突っ込んで吐いてしまえば楽になるだろうかと思うくらいに、吐きだしたいものがあった。
 強張ったように細かく震えて思い通りにならない口と喉で、何とか声を絞り出した。
「投げたい。投げたい」
 その声は、雨の音にかき消されて、自分自身にすらよく聞こえなかった。しかし、口に出した事で溢れてくるものがある。顔を上げて、もう一度言った。
「投げたい。捕ってくれ、タカヤ」
 セットについて、ボールが変形するほどに握りしめ、思いっ切り投げてやろうと思った。捕ってくれる人はいないけど、そこのフェンスに向かって、全力で。足下はぬかるんで踏ん張りがきかないし、ボールは濡れて滑るし、肩はつくっていないどころか雨に濡れっぱなしで冷え切っている。どう考えても投げるべきではないのに、投げたくて仕方なくて、ここ数日離れていた投球モーションをなぞった。

「元希さん、いるんですか?」

 唐突に、フェンスの向こうに人が現れた。傘をさして、ビニールの袋を持っている。タカヤだ。そう認識した瞬間、振りかぶったままの途中のモーションがどうにも停まらなくなった。コンディションは最悪で、投げるべきではないと分かっているのに、とまらない。全力のストレート、を、タカヤに。
 おおきく目を見開いたまま動きを止めたタカヤに、全力で、自分でも会心の出来だと思うくらいのストレートを投げてやった。
 タカヤが持っていた袋を落として、左手を前に出したのが見えた―――と同時に、ガシャァン! と凄い音がして、オレたちの間にあったフェンスにボールがあたって、地面に落ちた。  タカヤの左手は、ミットを構えるように差し上げられたままで、ボールがフェンスにあたる瞬間まで瞬きもしないで、そこにいた。落としたビニール袋は、買い物でも頼まれたのだろうか、卵が割れて中の黄色が流れ出している。
「タカヤ・・・・・・・・・」
 タカヤは、呆然とオレを見て、落ちたオールを見て、自分の左手を見て、もう一度オレを見た。そして、ゆっくりと公園に入ってきて、ボールを拾い上げて歩み寄ってくる。見開いたままだった大きな目が、どんどん険しい物になっていくのが見えた。
「何やってんすかアンタは!」
 ぐいっとボールを突き返されて、下から睨み上げられる。
「こんな雨の中で、名前呼ばれたかと思ったらいきなり全力投球だし! スパイクはいてない、地面はぬかるんでいる、肩もつくってないで、なんで投げるんだよ!!」
 そうして、傘を差し掛けて、そっと肩に触れた。怒鳴っているのがウソみたいに穏やかで優しい動作。
「あぁっ、肩! 肩、こんなに冷やして!」
 もしかしたら今まで見た中で3本の指に入るんじゃないかってくらいの剣幕で、もの凄く、とてつもなく怒っている。 なにか言おう、なにか伝えよう、と思ったけど、言葉が出てこなかった。ただ、投げて、それに対してタカヤが反射的に捕ろうとした、と言う事が、底なしに沈んでいた気分を浮上させた。
 捕ってくれてありがとう
。  そう言いたかったが、言葉にはならなかった。捕ってくれるのなら、それだけでいい。オレが投げる事しか出来なくて、オマエがそのボールにしか興味がないとしても、捕ってくれるのならそれだけでもいい。
「ほら、はやく帰ってそのずぶ濡れなの何とかしないと、肩が冷える一方ですよ!」
 そう言って手を引かれて、後について歩き出した。肩を心配してくれているのが、嬉しい。投げる事しかないから、投げれるオレを、オレの肩を大切にしてくれるのは嬉しい。
 タカヤは、傘を殆どこちらにさしかけて、手を引いて歩いていく。落として潰れた卵の袋を拾って、顔を顰めて、オレの晩飯が・・・と呟いた。
「悪かったな、それ」
 卵は本当に見るも無惨で、多分無事なのはひとつもなくて、ちょっと申し訳ない。弁償した方がいいんだろうな、と思ったが、財布を持っていないし、卵が何円ぐらいで買えるのかも分からなかった。オレって、投げる以外は全ダメだ・・・・・。


「今頃気付いたんですか」
 どうやら声に出てたらしくて、すかさずタカヤが切り返してきた。ふふんと笑って、いつかの光景と重なって見える。
「うん。今頃気付いたんだ」
「良かったですね、今更でも気付けて」
「そーだな」
 なんですか、気持ち悪い反応! と、大袈裟なほどに顔を顰められた。雨に打たれて熱でも出たんですか、と本気で心配される。たまに人が殊勝になればコイツは。
「な、オマエは?」
「え?」
「前に、捕るだけじゃないって言ってたよな」
「・・・・・・えらく前の話ですね」
 覚えていると思わなかった。そう呟いたのが聞こえた。
「あのあと、なんて言ったんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「言ってくれよ」
「・・・・・・『オレも捕るだけだったら良かったのに』・・・って言ったんです」
 タカヤは手を引いたまま半歩だけ先を歩いていて、表情は見えなかった。傷ついたような声だったから、どういう意味だろうかと考えてみる。オレはバカだから、こういうときに何も出来ない。
「タカヤ・・・・・・・・・」
「何もかもが投げることだけに集中しているアンタは、投げる事しか出来なくていいんですよ。それで、登り詰めればいい。オレも、家事全ダメでも、数学が赤点でも、捕るだけしかなかったら良かったのにって思います。そしたら、いつまでもアンタの球を捕っていられたのに」  いつの間にか、オレたちはタカヤの家の前にいた。風呂入って肩温めてください。そう言って、風呂場に追いやられる。風呂から上がれば、そこにはタオルと乾いた着替えが置いてあるんだろう。
 コックを捻って、熱い湯を浴びて、肩と体を温める内に、さっきの言葉がしみこんできた。タカヤは諦めてしまったのだろうか。目元がカッと厚くなって、視界が歪んで見えた。それがシャワーのお湯なのか、別の物なのか判別がつかない。
 風呂から出ると、やっぱりバスタオルと着替えが置いてあって、それを着て居間へ移動した。ホットミルクが差し出されて、その甘い香りの湯気を感じながら、タカヤを見た。
「こういうところが、オレは捕るだけじゃないんですよ」
 元希さん、自分の家のタオルを仕舞ってある場所も知らないし、温かい飲み物を用意することまで気が回らないでしょう。そう笑われると、バカにされているのかとも思うけれど、確かにその通りであるオレは、つまりは生活に必要な事まで投げる方につぎ込んでいるのか、と知った。タカヤが、オレは器用貧乏なんです、と言って笑っている。
「オレは捕る以外にいろんなことが出来て、その分だけ<捕る>ことが疎かなんですよ。もちろん、元希さんと比べて、ですけど」
 持っていたタオルを取り上げられて、濡れたままの髪を拭かれた。座ってください、と促されて、傍にあった椅子に腰を下ろす。
「でも、疎か、の分だけ、野球以外で元希さんにしてあげられる事もあります。オレがアンタの球を捕らなくても、出来る事があるんです。こんなふうに」
 手つきは優しくて、とても暖かい。

 嬉しいような悲しいような、不思議な気分だった。タカヤとは、投げる、捕る、の関係でだけ繋がっていると思っていた。投げれないオレは必要ないのかと思っていた。でも、タカヤは言う。
「投げれなくなったら、オレが養ってあげますよ。だって元希さん、投げる以外は全滅なんだもん」
 言葉だけ聞いたらひどい事言われてるのかもしれないけど、実際にはそうじゃない。他の事は全部オレがやってあげるから、投げる事に集中していればいいよ、と言われているのだろう。
 野球だけじゃなくて、確かに他の繋がりもあるのだと思うと、嬉しくて、すこし悲しい。くすぐったい。気付けば、あのひどい鬱屈は無くなっていた。
 雨の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。















'06.5.07

ちょうど梅雨入りしてたのかな、これ書いてた時。
春のインテの時のですね。自分が高校生だった頃のテストとかの日程思い出しながら書く訳ですが、最近の高校は二学期制だったりするのかな?斯く言うenの母校も、私が3年になったときに二学期制になりましたし。
この頃は、関東は公立校はブレザーが多い(らしい)って知らなくて、榛名さんとこの武蔵野はブレザーだから私立だと思ってました。
enの学区は、公立は大抵セーラーで、逆に私立にブレザーが多かった気がします。拍手で教えてもらったんですよね、たしか