余談(44)





 その日は朝から良い天気で、家とブロック塀の間から自転車を引っ張り出した隆也は、その天気に純粋に感謝の念を捧げたものだった。

 なんといっても、今日は所属するシニアチームの試合なのだ。これで雨でも降っていようもんなら、我が侭なエース様の機嫌が急降下どころか、自由落下加速度9.8m/s2だ。せめてでかい図体の空気抵抗で速度落ちねぇかな、などと考えてみても、所詮は無駄なのである。
 まあ、屋外スポーツなのだから、天気で多少機嫌が左右されることは仕方ない。投手が一番その影響を受けることも、事実なのだから許容範囲内だ。問題は、榛名元希という人の機嫌は、則ち行動に直結している事だった。……早い話が、あまり機嫌を損ねると、試合に出やがらないのだ、あのエース様は。

 先々週の練習日に雨が降った時のことを思い出して、隆也は大袈裟に顔を顰めた。あの日も、ボールが滑る、と早々に投球練習を切り上げたのだ、元希は。
 隆也に言わせれば、多少の雨でも試合はやるんだから投げれないと困るだろ、ということだったが、肝心の投手がさっさとブルペンを出て行ってしまったのでどうしようもなかった。
 さすがに、試合本番でまでそんな我が侭はしないだろうと思いたかったが、およそそういう常識が通用しないのが件の投手だ。だからこそ隆也は、信じても居ないのに、昨夜てるてる坊主を作ってしまったのだが。


 グラウンドに着くと、珍しいことに既に元希は来ていた。いつもは隆也の方が早い。……と言っても、元希が遅い訳ではなく、隆也が特に早い、という事だったが。
 珍しいこともあるもんだ、と隆也は思い、そのすぐ後に首を振ってそれを打ち消した。元希の気まぐれに付き合っていたら、一日が30時間あっても足りないかも知れない。気にしないのが一番だ、と短いつき合いの仲でも学んでいる。
 更衣室のドアを開ける背中に続き、隆也も更衣室に入っていった。 


「よータカヤ、ちゃんとてるてるボーズ作ったか?」
「……んなもん作ってませんよ。アンタいくつですか」
「んだよ、作れって言っただろ」
「そーいうのは自分でやってください」

 ……実は、隆也の部屋の窓には、昨夜作ったてるてるボーズが吊されている。前日の練習後、元希がふざけて「作れ」と言ったのだ。
 そのとき隆也は、大層馬鹿にした目で元希を見下したものだが、それでもお義理にか作ってしまったのである。その辺の事は元希に言うつもりなどない隆也だが。

 しかし、本日の元希が比較的機嫌が良く、機嫌と投球内容が一致しがちな性質を考えると、ちゃんと機嫌良く投げてくれるのなら、てるてる坊主くらい安いことだ、とも思えてしまう。チームプレイなのだから、そもそもは隆也が元希の機嫌に気を遣うよりは、元希が機嫌に左右されない様にするのが普通である。その辺りのことは、自分では元希に厳しいつもりの(しかし実は結構甘い)隆也には思いつかない考えだった。

 さて、着替えも終わり、グラウンドも整備し、ノックまでの間にキャッチボールをしているときの事だった。
 せっかく整備したグラウンドを荒らさない様に、アップはダイヤモンドの外で行うことが決まりになっている為、キャッチボールの間隔は、普段より狭い。隆也と元希の間も狭いし、隆也と隣のペアの間も狭い。おかげで普段よりも会話を交わしやすく、この時間に、二遊間がベースカバーやコンビプレーの打ち合わせをしたり、外野がカットの2枚目について話したりしている。元希と隆也は、大抵サインや打者の特徴について隆也が一方的に話していることが多かった。

「だから、いー加減にサインを覚えてくださいって!」
「あんな細かいの、覚えられるかよ」

 実際問題、元希は球種が少なかったし、コントロールも悪かったので、細かいサインはあまり必要ないのだが、隆也の気性か、どうにも覚えていないのが気になるらしい。
 これで元希の機嫌が悪い日だと、試合前から口論に発展するのだが、今日の元希は機嫌が良いようで、ばーか、などと言っているわりには険悪さも無い。

 ちなみにこのとき、周囲のチームメイトがバッテリーの様子を見て胸を撫で下ろしているのは、当のバッテリーは与り知らぬ事だった。