余談(38)
世界史Aの時間だった。
担当講師は教科書の詰め込みが嫌いなのか、それとも講義の準備が面倒だったのか、たまにビデオを観せる。Aは近現代が範囲だから、映像の世紀、とかそう言うのが大概だ。世界史Bだと、特集エジプト文明、とかそういう番組になる。こっちは録画の技術なんてなかった時代が取り扱いだから、観るビデオによっては再現VTRとか、CGとか、そういう内容だった。
今、教科書はちょうど後ろの方を開いている。二時大戦後の冷戦から、その終結まで。資料集の124ページを開けて、と言われてそのページを開くと、歴史的瞬間の写真。
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。平成生まれのオレには想像がつきにくいけど、そう遠くない昔、ドイツは西と左に分かれていた。そういえばサッカーやってる友達が言ってたけど、キャプテン翼の一番最初のヤツは、国際大会に参加してるのは西ドイツだった、って。……そんな昔からやってたんだ、あの漫画。
はい、じゃあビデオ再生するから、テレビの方を見て、と講師に言われて、顔をあげた。
―――壁に人が集まって、上に乗り上げて、ツルハシみたいなので壁を壊している。オレが生まれる前のことなのに、この映像は見たことがある。……あぁ、カップラーメンのCMだ。どおりで見覚えがある。そう思ってたら、前の席の水谷が同じことを呟いていた。
オレたちは、画面に見入った。古い映像だからか、歓声が割れたみたいに響いている。歓喜の渦。カーニバルみたいな喧噪なのに、それを画面越しに、20年近く後になって観ているオレたちは、ひどく厳粛な気持ちだった。
ビデオが終わった。こういう、歴史の重み、を見せられた後は、肩に力が入っていたのか、気分的に少し消耗している。みんな、ふう、と息を吐いて現実に戻ってくる。
講師が、事件の背後関係を説明する。授業中うるさい、と言われる最近の高校生も、こういうときばかりは静かなものだ。板書と言うには汚い書き殴りの略図を写しながら、開きっぱなしの資料集の写真を見た。落書きだらけの、ベルリンの壁。
チャイムが鳴って、振り向いた水谷に、阿部、昼飯屋上だって、って言われるまで、ボーっとその写真に見入っていた。
その夜、夢を見た。
オレは何かにもたれて座り込んでいた。膝を抱えて、その間に顔を埋めて、ひとりでぽつんと。
俺の夢は、現実味のあるものが殆どだったから、最初はそれが夢だって気付かないことがある。伏せていた顔をあげたとき、そこは自分のよく知っている光景――家の近所だ――だったので、夢か現実か、ちょっと悩んだ。
でも、すぐに気が付く。オレ、何にもたれてんの? これが現実だったら、こんな場所にもたれるものなんか無い。だって、ここは道路の真ん中なんだから。
そう思って振り向いて、オレは夢だと言うことを確信した。二車線の国道の、センターラインに壁。右を見ても左を見ても、ずっと壁は続いていて、道路を渡って向こう側に行けないようになっていた。ちょうど、高速道路の中央分離帯みたいに。
でも、もっと高い壁で、もっと分厚い壁だった。しかも、落書きだらけでカラフルだ。
ベルリンの壁。今日、世界史の授業で見たばかりの。
この壁は、オレと何とを隔てているんだろうか。コンクリの表面に手のひらを押し当ててみた。……向こうに、誰か居る。こんな分厚い壁越しに分かるはず無いのに、向こうに、誰か。
壊したい。向こうに行かなきゃ。そう思ったけど、乗り越えられそうに無い高さの壁に、オレは途方にくれた。どうしよう、オレは、向こう側にいる人と会わないといけないのに!
突然、手をあてた壁にガツッを衝撃が伝わって、慌てて手を引いた。ガツッガツッ! なにかを壁に打ち付ける音が響く。壁が、衝撃に小さく震えている。
ビシッ! と壁の表面に蜘蛛の巣みないな日々が入ったかと思うと、次の一撃で、壁は轟音を立てて崩れていた。ぽっかりと穴が空いて、向こう側が見える。壁の向こうにいる人が、ツルハシを置いてこっちに向かってくる。
穴の向こうから差し出された手を、オレは良く知っていた。
元希さん。
ニカッと笑った顔は、とても眩しかった。
目が覚めた。
それは本当に、ただ閉じていただけの目を開いたように、一瞬での覚醒だった。
自分の部屋、ベッドの上。町並みも国道も壁もない。なにもおかしいところなんか、ない。
でも、目を閉じると、あの壁のざらりとした感触が手に残っている気がした。
担当講師は教科書の詰め込みが嫌いなのか、それとも講義の準備が面倒だったのか、たまにビデオを観せる。Aは近現代が範囲だから、映像の世紀、とかそう言うのが大概だ。世界史Bだと、特集エジプト文明、とかそういう番組になる。こっちは録画の技術なんてなかった時代が取り扱いだから、観るビデオによっては再現VTRとか、CGとか、そういう内容だった。
今、教科書はちょうど後ろの方を開いている。二時大戦後の冷戦から、その終結まで。資料集の124ページを開けて、と言われてそのページを開くと、歴史的瞬間の写真。
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。平成生まれのオレには想像がつきにくいけど、そう遠くない昔、ドイツは西と左に分かれていた。そういえばサッカーやってる友達が言ってたけど、キャプテン翼の一番最初のヤツは、国際大会に参加してるのは西ドイツだった、って。……そんな昔からやってたんだ、あの漫画。
はい、じゃあビデオ再生するから、テレビの方を見て、と講師に言われて、顔をあげた。
―――壁に人が集まって、上に乗り上げて、ツルハシみたいなので壁を壊している。オレが生まれる前のことなのに、この映像は見たことがある。……あぁ、カップラーメンのCMだ。どおりで見覚えがある。そう思ってたら、前の席の水谷が同じことを呟いていた。
オレたちは、画面に見入った。古い映像だからか、歓声が割れたみたいに響いている。歓喜の渦。カーニバルみたいな喧噪なのに、それを画面越しに、20年近く後になって観ているオレたちは、ひどく厳粛な気持ちだった。
ビデオが終わった。こういう、歴史の重み、を見せられた後は、肩に力が入っていたのか、気分的に少し消耗している。みんな、ふう、と息を吐いて現実に戻ってくる。
講師が、事件の背後関係を説明する。授業中うるさい、と言われる最近の高校生も、こういうときばかりは静かなものだ。板書と言うには汚い書き殴りの略図を写しながら、開きっぱなしの資料集の写真を見た。落書きだらけの、ベルリンの壁。
チャイムが鳴って、振り向いた水谷に、阿部、昼飯屋上だって、って言われるまで、ボーっとその写真に見入っていた。
その夜、夢を見た。
オレは何かにもたれて座り込んでいた。膝を抱えて、その間に顔を埋めて、ひとりでぽつんと。
俺の夢は、現実味のあるものが殆どだったから、最初はそれが夢だって気付かないことがある。伏せていた顔をあげたとき、そこは自分のよく知っている光景――家の近所だ――だったので、夢か現実か、ちょっと悩んだ。
でも、すぐに気が付く。オレ、何にもたれてんの? これが現実だったら、こんな場所にもたれるものなんか無い。だって、ここは道路の真ん中なんだから。
そう思って振り向いて、オレは夢だと言うことを確信した。二車線の国道の、センターラインに壁。右を見ても左を見ても、ずっと壁は続いていて、道路を渡って向こう側に行けないようになっていた。ちょうど、高速道路の中央分離帯みたいに。
でも、もっと高い壁で、もっと分厚い壁だった。しかも、落書きだらけでカラフルだ。
ベルリンの壁。今日、世界史の授業で見たばかりの。
この壁は、オレと何とを隔てているんだろうか。コンクリの表面に手のひらを押し当ててみた。……向こうに、誰か居る。こんな分厚い壁越しに分かるはず無いのに、向こうに、誰か。
壊したい。向こうに行かなきゃ。そう思ったけど、乗り越えられそうに無い高さの壁に、オレは途方にくれた。どうしよう、オレは、向こう側にいる人と会わないといけないのに!
突然、手をあてた壁にガツッを衝撃が伝わって、慌てて手を引いた。ガツッガツッ! なにかを壁に打ち付ける音が響く。壁が、衝撃に小さく震えている。
ビシッ! と壁の表面に蜘蛛の巣みないな日々が入ったかと思うと、次の一撃で、壁は轟音を立てて崩れていた。ぽっかりと穴が空いて、向こう側が見える。壁の向こうにいる人が、ツルハシを置いてこっちに向かってくる。
穴の向こうから差し出された手を、オレは良く知っていた。
元希さん。
ニカッと笑った顔は、とても眩しかった。
目が覚めた。
それは本当に、ただ閉じていただけの目を開いたように、一瞬での覚醒だった。
自分の部屋、ベッドの上。町並みも国道も壁もない。なにもおかしいところなんか、ない。
でも、目を閉じると、あの壁のざらりとした感触が手に残っている気がした。