余談(36)





(チョコが欲しい)

そんなこと、言える訳がなかった。
通り抜けた商店街は、昔ながらのたたずまいでどこかしら心が落ち着く。郷愁、とすら言っていい。魚屋の生臭さ、八百屋の泥臭さ、小料理屋の出汁の匂い。肉屋のコロッケは、やっぱりスーパーで売ってるのよりはおいしい。実家近くの商店街と違って、慣れ親しんでなんかいないのに、なつかしい、と感じる。日本の匂いって、きっとこういうのだ。
そのなかに、赤とピンクにまみれた一画があって、甘苦い匂いが鼻についた。金・銀のラッピング、女達で賑わう、チョコレート売り場。クーベルチュールって書いてある、アレはなんだろう。チョコならチョコって書きゃあいいのに。つーか、そこのねえちゃん、どれ選んだって一緒だって。もらう男は、そんなんたいして気にしてねぇんだよ。たぶん真剣に吟味しているんだろう女達を横目で見ながら、ため息をついた。バレンタイン。オレにはもう関わりのない行事だ。
そりゃあ、プロ野球選手っていやぁ、ファンレターとかと一緒でチョコを送ってきたりもする。オレは、たぶん結構な量をもらってるんだと思う。でも、そんなことは関係なかった。甘いものは嫌いじゃないけど、全部食べてりゃ太っちまう。だから、施設に寄付って形で処理している。それに、食べたくもない、ホントはチョコなんていらないんだ。他のチョコなんて、全部、全部。
チョコレート売り場を通り過ぎて、いっぺんに人が少なくなった商店街を歩く。家に帰る為に。オレとタカヤの家に帰る為に。

タカヤは、オレのコイビトだ。付き合い始めてから、もうけっこう長い。出会ってからなら、十年は経っている。オレの一番大事な人間だ。料理も掃除も洗濯もアイロンも出来る、器用なヤツ。でも、一緒に住んでるのはそれが理由じゃなくて、ただ好きだからだ。だから、キスだって、セックスだってする。でも、オレは男で、タカヤも男だった。
オレはタカヤが好きで、だからコイビトがするようなこと、全部タカヤとしたかった。手だって繋ぎたい。デートも。チョコも、それがタカヤからだったら、欲しい。でも、タカヤは男で、しかもアイツもオレのこと好きなクセに、世間体とかすごく気にするから、そういう事は出来ない。「そーいうのしたいんだったら、女と付き合ってください」って。なんでお前、そんなに男同士だってこと気にすんの?別にいいじゃん、好きなんだから。
……でも、本当は全部オレの為だって知っている。オレがプロで顔が売れてて、それでプロ野球ってもある種の人気商売だから、スキャンダルはダメな訳で。だから、タカヤが世間体を気にするの、オレを守る為だってのも知っている。タカヤと一緒に居たいなら、オレもその秘密を守らないといけないってのも、分かっている。でも。

(チョコが欲しい)

バレンタインは、もうオレには関係のないイベントだった。タカヤは、オレにくれない。だって、タカヤは男だから。それなら、オレは誰からも要らない。チョコが欲しい、手を繋ぎたい、デートしたい。でも、タカヤとの生活には、どれも代えられない。普通のコイビトがするようなことを、いろいろ諦めて、それでも一緒にいたい。

家路を辿る足を速めた。商店街を抜けて二つ目の角を左に曲がると、オレとタカヤの家が見える。