余談(32)





「絶対、替わりたくないって思った」

そう言ったのは沖だった。それに、花井も同意を示すように頷いている。
練習前の部室。着替えているのは沖と花井と阿部だ。
桐青戦の最後の、阿部が三橋に「マウンドを譲れ」と言った件についての、控え投手の、それが率直な言葉だった。
そもそもあの場は、例え交代したとしても、投手を初めて数ヶ月の沖や花井に、桐青打線を抑えることが出来たとは思えない。
結果的には阿部のハッパが効いて立ち直った三橋が投げて勝利を手にしたのだったが、それにしても沖は思うのだ。
「あの状況でも自分が投げたいって思う三橋は凄い」と。
沖はあの状況でマウンドに立つなんてそんな怖いことは御免だ、と思っていたし、花井だってそうだった。
誰だって、あんな状況で替わりたくなんてない。
そしたら、三橋があの状況でもマウンドを譲りたくない、と思ったのは、あの細い体のどこから出てきた気持ちなのだろうか。
阿部は言う。

「だからこそ、三橋はエースなんだ」

投球中毒。『中毒』は "毒が回る" ではなく "ジャンキー" の意味の方だ。
だとしたら、三橋は重度の投球中毒なのだろう。

「そもそも、沖も花井も性格が投手に向いてねぇんだ。お前ら、死球のときバッターにすげぇ申し訳ないって思ってるだろ。あと、打撃投手してるときにストライクは入らなかったらバッターに悪いな、とか。そういうヤツは、投手に向いてないよ」
「やっぱり?自分でも向いてないって思ってたんだけど」
「まあ、せっかく投球練習してくれてるのにこんなこと言うのもなんだけどな」
「いや、逆に安心した。やっぱ向いてないんだなー」

来年、投手が入部してくるのを期待しとけよ、と阿部は言った。
沖は、(三橋は投手が増えても大丈夫かな)と思ったが、花井は三橋がもう大丈夫だと言うことを知っていた。
来年はお役御免かな。そう呟いた沖は、少しホッとしたような顔だ。
――と、バタバタと騒がしい足音を立てて、3つの小柄な影が飛び込んできた。ホームルームが長引いていた9組、泉と田島と三橋だ。
投手の姿をみとめて、阿部が少しだけ口元をゆるめた。本人は自覚がないのかも知れないが、大切で仕方がない、という表情だ。

(阿部は死球とか気にしなさそうだけど、投手にはなれないよな。だって、絶対に捕手の方が向いてるから)

阿部は、投手は変わったヤツが多い、なんて言ってたけど、捕手も然りなんじゃないかな、と思う控え投手だった。