余談(29)





「セキナンハセイジニアラズ」

呪文のような言葉に、それは一体なんだと振り向いた。
今し方背を向けたばかりの食卓には、父親の姿しかない。
夕食時、と言うには少し遅い時間帯だ。弟はとっくに食べ終わって風呂に入っている。

セキナンハセイジニアラズ。
一体、なんのことだろう。
意味は全く分からない言葉なのに、なんだか腹の底がザワザワして、ひどく落ち着かない気分になった。

「それ、どういう意味?」
「分からなければいい。そのうち分かる日が来るかもしれない」

それだけしか言ってくれなかった。
仕方なく自分で辞書を引いてみた。が、載っていない。
もしかすると、図書館にあるような大きな辞書だったら載っているのかも知れないけれど、取り敢えずオレが持っている中学生レベルの国語辞典には載っていなかった。
でも、意味は分からなかったけど、オレを褒めたり肯定するような言葉じゃないコトだけは何となく分かった。
かといって、否定されている訳でも、きっとない。
なんとなく、本当に何となくだけど、なだめられているような感覚だ。

セキナンハセイジニアラズ。
呪文みたいに数回唱えてみて、そして眠った。
夢の中でその12文字に追いかけ回されて、何か叫んだ。

「だって元希さんが…!」

そう言ったところまでしか覚えていない。
一体あの人がなんだというのだろう。もう、関わりもない人なのに。



そしてオレは高校生になった。
武蔵野には、あの人の学校には行かなかった。
あの呪文のような言葉は、相変わらず意味が分からないままで、たまに思い出しては何かに追い立てられるような苦しさを感じた。
いっそ図書館の辞書で引いてみようか、それともパソコンで検索しようか。
そうも思うのだけど、意味を知るのが怖くて実行できないでいる。

それからまたしばらく立った。
高校のチームにも馴染んで、速さも球威もないけど世界中のどの投手にも負けないコントロールを持った投手と出会えて、オレの野球は充実していた。
ただ、ふと後ろに迫る足音のようにあの言葉を思い出すことがある。

夏、フェンス越しにあの人と再会した。
あの人はなんだか楽しそうに野球をやっていて、ギリリと心臓が痛むように苦しかった。
アンタはあんな事をしたクセに、今のチームで野球を楽しんでいるのか、と。
苦しくて、あの人の記憶を追い出したい、と思ったときだ。あの人の、一番荒れていたという時の話を知った。
才能に恵まれた投手の、怪我。
多分に顧問の責任があり、自分で必死にリハビリして部に戻ったら顧問にひどい扱いを受けたこと。
野球を、やめたいとまで思っていた頃のこと。

ああ、と思った。
オレがあの試合の後野球をやめたいと思ったように、あの人にもあったのだ。
そして、唐突に分かってしまった。
セキナンハセイジニアラズ。
呪文のように意味が分からなかったそれに、当て嵌めるべき漢字が分かった。
責難は成事にあらず、だ。

非難することは容易いけど、それはちゃんとする、という事とは違うんだ。
オレは、ちゃんとしたバッテリーに慣れなかったことを、一人で野球をやってるあの人のせいにばかりしていたけど、そうしてあの人を責めてばかりいたけれど、自分はどうだったのだろう。
逸らすものか、こぼすものか、と意地になってボールに向かっていたけど、傷付いて不信になっていたあの人自身には向かい合えていなかったんだ。
怪我の経緯も、そのあとの出来事も、どうしてあんなに必死になって自分を守ろうとしていたのかも知らないままで、あの人のせいにばかりしていた。

今、西浦の野球が楽しいのは、オレがあの人を非難して反面教師にしたその結果じゃなくて、西浦のみんながいるからだ。
だから、ほら、あの人だって高校で楽しそうに野球をやってるじゃないか。
この言葉に感じていた不安は、きっとどこかで自分にも悪いところがあったって知っていたオレの後ろめたさだったんだ。

ごめん、元希さん。ごめん。
もう遅いけど、もうあの頃に戻れないからやり直しなんて出来ないけど、でももし叶うなら、今度はちゃんとアンタ字自身を見つけてみせるよ。
アンタは大きくて凄い投手で最高に速い球を投げるけど、それだけじゃなくて、たった一歳しか変わらない人間なんだ、ってこと、ちゃんと考えるよ。
事情も知らないで責めるなんてしない、ちゃんと話してもらえるように、精一杯努力するから。

だから。
だから、望んではいけないことだけど、もしも次があるのなら、今度こそ本当のバッテリーになりたいんだ。