もどらない夏  


 例えば、自分が2人いたとしたらどうだろう?



(……だから、上手くいかなかったんだ)

 榛名元希は、ベッドの上で目を開いた。灯りは落としているが、眠ってはいない。ここのところ、彼の眠りは浅かった。
 のび太とまではいかないがそれなりに寝付きの良い榛名が、ここ最近はなかなか寝付けずにいる、その理由について彼は考えていた。目を閉じると、瞼の裏に浮かぶ姿がある。1つ年下の捕手、榛名の不眠の原因。

 先だっての関東大会以来、榛名はあの捕手とどうも上手くかみ合わないでいた。こんな事は、彼が榛名の球を捕れるようになって以来なかったので、どうにも座りが悪い。
 関東大会が終わるまでは、まるでアレは榛名自身であるかのようによく捕った。ノーコンノーコンと言われる榛名であったし、暴投しても悪びれる事もなかったが、それでも暴投したときには、やっちまった、こいつは捕れなくても仕方がない………、ぐらいは思うのである。問題は、会心の球を捕れる捕手が居なかったことで、だから良い球は絶対に落とさないし、普段は小うるさいサインを出すくせにここぞと言うときにはストレートを選ぶのは、お前よく分かってるじゃねぇか!と思うのだ。
 アレのことは、何でも分かる。アレは、オレの事を分かっている。そう、思っていた。なのに今は、分からない。

 そう、分からないのだ。分かっていたつもりだったけど、結局アレはもう1人の榛名ではなかったし、分かるのも分かられているのも偽物で、多分それはお互いに「分からない!」と悩んでいる状態よりもタチが悪かった。

(タカヤ。…………タカヤ)

 小さく、名前を呟いてみる。意外にも、呼び慣れていない違和感があった。あれだけ近くにいて、あれだけ呼ばわったと思っていたのに、どうしてこんな違和感があるのだろう。

 分からないことだらけだった。
 分からないと言えば、アレの名字はなんだっただろうか。戸田北は大抵の場合は名前で呼ぶチームだったから、そういえば他の連中の名字だって分からない。それにしても、アレの名字くらい覚えていても良さそうなもんだが。

(タカヤ、タカヤ…………なにタカヤだっけ?)

 名前を舌の上でころがすようにして、思い出そうとする。違和感はいっそうひどくなる。まるで初めて呼んだ名前のようで、それがあの捕手とはどうにも結びつかない。

 ………そんなに、名前を呼んでなかったのだろうか。
 分からない。アレの名字も、好きな食べ物も、音楽も、家族のことも学校のことも、なにもかも分からない。分からないことが、ひどく堪える。


 分かっていなかったし、分かり合えもしない。

 自分の左腕をことさら名前で呼んだりしないように、自分と同じものだと思っていた。信頼でも気安さでもなく、ただ、本当にそう思っていたから、違うものだと気付いたときには、もうやり直しが利かない。

 多分幸せだった―――もう二度ともどらないうそごとの夢から覚めて、榛名元希は初めてアレの名前を呼ぶ。オレ、ではない一個の存在としての、アレ。口からはき出された3つの音は、とても苦しくてそしてとても大切なものだった。


「タカヤ!」