[ 就寝時、阿部隆也は ]





ベッドに潜り込んで本を読む時間は、ある意味至福と言っていいと思う。――と言っていたのは本好きの友人だが、こうしていると分からなくもない。
隆也はベッドに潜り込んで、先日購入したばかりのベースボールマガジンを読んでいた。とろとろと眠気が寄せてきて心地良い。決して対戦校のデータを読んだりしないのは、間違って寝てしまっては元も子もないからだが、こういう事が出来るのもひとえにオフシーズンゆえ、なのである。
なんせ、全体的に練習時間が短くなっているのだ。放課後の練習は、暗くなるのが早いからそこそこで切り上げるし、朝練だって同じだった。基礎練ばかりの単調な練習。しかし彼はそれを嫌いではない。ただ、冬の間は他の季節よりも時間が取れるから、こうして所謂ところの"至福"を味わうことが出来るのである。

そろそろ寝ようかな。ちらりと時計を見て、そろそろ日付も変わるか、という頃、雑誌を閉じてクリップライトのスイッチに手を伸ばした。白熱灯はジリジリとした熱を発していて、照らされた頭頂部が少々熱い。これでてっぺんが禿げたらどうしよう、なんてラチもあかない事を考えて、一人でひっそりと笑った。満ち足りた食事、程よく疲れた体、フカフカの布団。ああ、なんていい夜!

コツン!

……ん?
閉められた厚手の遮光カーテンの向こう、藍色に黒を混ぜたみたいな色の冬空と室内を区切るガラスが、小さく音を立てた。風邪の音じゃない。起きあがって、もったりと重たいドレープを描くカーテンを開けた。晴れた夜空に、月齢 19.2の、半分よりも少し大きな月が浮かんでいる。冴え冴えとした、と言うのだろうか。冬の月は青白くて美しい。

「なにやってんですかアンタ」

しかしその美しい月夜の元で、阿部家の庭には不法侵入者が存在した。しかも、先ほどの音は彼だったのだろう、今まさに振りかぶって二つ目の小石を投げようとしている。
一瞬、携帯に連絡とかあっただろうか、と考え、すぐにそれを打ち消した。だって、榛名元希という人は、思い立ったらすぐ行動に移すのだ。こちらの都合なんて、いつだってお構いなしだ。
少し腹立たしくなった。不法侵入のあの男は、一体何のつもりなのだろう。ああして寒い中でわざわざやってきて、何の意味があるのか。

『 タ カ ヤ 、入 れ て く れ ! 』

口が、酸欠の金魚みたいにぱくぱくと開閉した。音は全く発せられていないのに、ゆっくりと区切るようなそれは、どういう訳か解読できてしまう。時間を憚ってか、さすがに大声を上げるようなことはしないらしい。つーかそれ以前にアンタ不法侵入ですから。うっかり見つかったら、悪くしたら警察沙汰ですから。
ちょっと待て、と手振りで示し、急いでとって返して、隣の部屋の母と弟が既に寝ていることを確認した。父親は鼻歌から察するにまだ入浴中の筈だ。窓辺に戻り、居間の窓に回るように合図した。つり目が嬉しそうに撓んで、うんうんと首が縦に振られた。


『靴は持ってあがってくださいよ』
『おお。…家の人は?』
『父さんは風呂。母さんとシュンは寝てます。二階行きますよ』
『あれ、弟、受験生じゃなかったっけ?』
『それは来年です。…あ、階段の手前、音が鳴るんで気を付けてください』
『……飛び降りて遊んでたんだろ』
『アンタもちっさいころそうやって遊んだでしょ』

口パクと手振りで、思いの外スムーズに会話が成立してしまった。なんだったら、普段喋るのよりもよっぽど疎通が図れるほどだ。
図体の育った男子高校生2人が、明かりの消えた階段を、足音を忍ばせて這うように登る。まるでこっそりと夜遊びから帰ってきたみたいな様相だけど、二人して健全な高校球児なので、夜遊びにはとんと御縁がない。
抜き足差し足でやっと辿り着いた自室、軋まないようにゆっくりとドアを開けて、同じくらい時間をかけてドアを閉めた。背中に感じる気配から、ホッとしたように緊張感が抜けたのを感じた。

『で、結局なにしに来たんですか?』

勝手知ったる、とばかりにベッドに腰を下ろした闖入者の向かいに、勉強机から引っぱってきた椅子を据えて向かい合った。……普通、座る位置は逆じゃないかと思うんだけど、どんなもんだろう。
さっきカーテンを開けたままにしてしまった窓はベッドの向こうで、だからさし込む月の光が逆光になって、表情は殆ど見えない。ただ、野生動物みたいに光る眼が、暗闇の中浮き上がるようにくっきりと見えた。 そのつり目の片方(左側だ)が、ふいっと上がり、面白がるような色が浮かんだ。不思議の国のアリスの、チシャ猫みたいだ。
『もうちょっと待てよ』
囁きは、口の動きが見えないせいで判別しにくい。カーテンを閉めて電気を点けようか、と立ち上がったら、そのままで、と押しとどめられた。オレはアンタと違って野生の本能なんて無いから、夜目なんて利かないんですけど。
カチコチと、時計の秒針ばかりが耳につく時間がしばらく過ぎた。本当にこの人は何をしに来たんだか。もしかして何の用もなかったりするのかも知れないけど(今までにも用もなく押し掛けてきたことはあった)、こんな夜中に来るなんてどういう酔狂だ。

『元希さ…』
『そろそろだな』

腕時計のバックライトを灯して時間を確認したらしい彼は、こちらの問いかけを遮ってそう言った。

ゆらりと、闇が動く気配がして、手が差し出された。意図が分からないなりに、自分の手を重ねてみる。昔はこんなこと出来やしなかったけど、今ではこの人は俺を傷つけるものではないと分かっているので平気だ。
ああ、冷え切っているな。なにか暖かい飲み物でも……、と考えたとき。
ぎゅっと握りしめられて、冷たさが手に染みて、投手がなに手を冷やしてんだよ、とか、体感瞑想みたいに体温を分けてあげるイメージ、とか考えたとき。
ぐいっと引き寄せられて、……いや、引き寄せられたのではなくて、ベッドから腰を浮かせたこの人が近付いてきて、あっ、と思った瞬間には抱きしめられていた。
やっぱり、服も髪も冷え切っている。さっきまで布団の中にいたオレは暖かいだろうな、人間カイロになるのは久しぶりだ、と懐かしい事を思い出した。お前、なに見当違いのこと考えてんだよ、と言われる。……この人にはオレが今なに考えていたか分かるのだろうか。

ああもう、仕方ねーなぁ。そーいうところがタカヤらしいんだけど。前置きのようにそう言われて、何のことか分からないで首を傾げた。そしたら、耳元に口を寄せられて、一言。

『タカヤ、誕生日オメデトウ』


……この人は、この一言の為にわざわざ寒いなかやってきたのだろうか。
呆れたようなため息が出てしまい、抱きしめられたままの体から、なんだよ悪ぃか、という気配が伝わった。

『まったく、アンタ馬鹿ですか。手も体もこんなに冷え切って。ホント馬鹿だ、馬鹿すぎます』

『馬鹿で悪かったな』

『いいえ、最高ですよ!』