[ 冷蔵庫前、母親は ]





あら、そういえば。

冷蔵庫にマグネットで貼り付けられたカレンダーと額を付き合わせるようにして当面の献立と買い物について考えていた彼女は、唐突に、何が気になっていたのか思い至った。11日は上の息子の誕生日なのだ。 彼女の息子はあの育て方の何が原因だったのかひどく淡白なので、昔から誕生日を楽しみに待つようなところがなかった。むしろ、本人が自分の誕生日を忘れていることがままあるので、盛大に祝おうと頑張っても、少々空回り気味なのが近年の様相だった。親としてはまことに悲しむべき現実であるのだが。
そうは言っても、当の本人は、「高校生にもなって」と思っているらしい。誕生日プレゼント(…と言う名の、普段より高額の買い物)すら、その時に欲しいものがなければ要らない、といった具合である。親にしろ祖父母にしろ、寡欲は美徳であると思うのだが、甘やかす箇所が無くて物足りない…、いや、淋しい。そういう手のかからない息子であった。

彼女は、ふう、と息をついた。腰に手をあて、少し首を傾けるようにして考え込む。
彼女の息子は、ただでさえ淡白なので、下宿なり独立なりで家を出たら、面倒くさいと滅多に帰ってこないに違いない。今までから取り立てて甘やかしてきた訳でもないが、この先、更にそういう機会が無くなるに決まっているので、やはりここは、実家にいるうちは何かしら祝ってやりたいものだ。
欲しがるものが分からないなら、せめて図書カードなりとも! それで、夕飯はちょっと豪勢にして、ケーキでも買ってこよう。

うん、と頷いて、彼女は急いで頭の中で計画を取りまとめていった。息子の好物――高校生男子にしては、少々年寄り臭い、有り体に言えばあっさりした和食なのだが――をつくる為の材料を手近の紙に書き出していく。
これでよし、とばかりにメモをポケットに入れ、最後にもう一度カレンダーを見た彼女は、11日の欄にある書き込みを見つけて表情筋を凍り付かせた。

そこには青色でこう書かれていた。
"夕食×" …と。












[ 風呂上がり、弟は ]





4色ノック式ボールペンの緑のペン先を出しながら、彼は娘を嫁に出す父親のような表情を浮かべた。ちょうど試験期間が終わって部活が再会されるので、明日から弁当が要る、という旨をカレンダーに掻き込もうとした、その矢先のことだった。
当然12月が一番上になっているカレンダーの、11日の欄には、青色で "夕食×" と書かれていた。
阿部家では、食事弁当の有無や帰宅時間が遅い、もしくは泊まってくるといった場合の連絡は、概ねこのカレンダーによって行われている。冷蔵庫の扉に貼り付けられたそれは、予定を書き込む為のスペースが広く取られた月代わりのカレンダーで、右上にノック式のボールペンが具えてあった。4色のそのペンは、それぞれ自分の色というべきものが決まっていて、父は黒、母は赤、兄は青、そして彼は緑だった。色分けされているので、予定を書く際に主語は書かないのが通例になっている。
彼は、母親がよく兄のことを手がかからなさすぎて面白くないと言っているのを聞くが、その一因は、この無味乾燥な、それでいてあくまで自己責任の、書き込み式による連絡方法にあるのではないかと思っていた。まあ、あの兄の性格は、本人の質に因るところも大きいのだろうけど。だってオレはあんな風に何でも自分で出来ないし。

そんな、母に言わせれば、淡白に過ぎる兄が、である。
誕生日に、家で夕食を食べないだなんて、考えられないのだが。だって兄貴、自分の誕生日とか毎年忘れてるし。
なので、誕生日に外で食べてくるなんて、今年一番の椿事に数えてもいいぐらいなんだ!……まあ、今年ももうすぐ終わっちゃうけど。
しかし、いったい誰と、いや、誰に祝ってもらうんだろう。まさか彼女が、なんてコトは無いだろうけど(運動部の忙しさはよく知っている)、それじゃあ野球部の人とか? それはありそうな話だな。
いくつかの推測の内、最も有り得そうな想像に落ち着いて、彼は、あーあ、と息をついた。兄貴はアレで、モテなくはないのだ。ついでに、一途な性格(というには少々激しいが)なので、一度好きになればまあ心変わりはしない。本人は優先順位を付けてるつもりはなくても、あからさまなほどに一番の人を大切にするから、付き合うとなるとなかなか良い相手なんじゃないかと思う。
なのに、兄貴の恋人といえば野球なんだから、勿体ないことこの上ない。いや、野球って言うより、投手かな。なんだろう、あのツンデレの反対みたいなの。そんなに投手が大事かなぁ。

好意を示すのは全く照れない癖に、向けられた更衣にはもの凄く照れて素直に受け入れられないあの兄が、どんな顔して祝われるんだか、それだけは見たいな。そう思いながら、彼は当初の目的通り、カレンダーに緑色で "弁当○" と書き込んだ。












[ 前日の浴室、父は ]





鼻歌が少々調子っぱずれで、誰にともなしに気まずげな表情を浮かべ、湯気で湿り気を帯びた鼻の頭をこすった。彼の息子の誕生日(……は明日なのだけど)を祝って、夕食は豪勢だった。まあ、息子の好みを反映してか、豪勢なわりにあっさりしていたが、手の込んだ煮付けや焼き物で一杯、というのは、また堪えられないものがある。それでついつい過ごしてしまって、そりゃもう、鼻歌の音程も外すというものだ。
上の息子は、明日から一人暮らしをしろ、と言われても取り立てて困らないくらいに何でも自分でやってしまうので、親としてはたまに淋しく感じることもないでもないけれど、性格が"よろしい"以外は概ね自慢の息子なので、それが一つ大人に近付くと感慨深くもある。性格の"よろしい"のだって、この上なくキャッチャーに向いてるのだから、むしろ喜ばしいのじゃないか、と思う。まあ、普通に生きてく分には、ちょっと強烈な性格、かもしれないが。
そういえば、隆也は食卓に並んだものを見て、なんでこんなに自分の好きなものばかりなんだ、という顔をしていたが、もしかして意味が分かっていなかったのだろうか。あぁ、確かにおめでとうもなにも言ってなかったが。そりゃ誕生日当日じゃ無いとは言え、当日は誰かに祝ってもらって来るんだから、さすがに分かっているだろうと……。いや、あの隆也のことだから、もしかしたら明日外で夕食を食べてくるのも、意図に気付いていないのかも知れないな。
息子の、更衣に対する鈍さに少々危惧を覚えながらも、彼は満足げな表情を浮かべている。結局のところ、あのクレバーな長男は自慢の息子でもあるので。

ガサ……

ん? と窓の外を透かすようにして見た。窓の向こうは庭木と塀があり、夏場は開け放たれているのだが、今は12月なので当然浴室の窓は閉められている。彼はもういい年をしたおっさんなので、覗かれる心配などは皆無なのだが、窓の外は我が家の敷地内(しかも塀の内側だ)なので、不審人物が進入したと放置できない。
……と、隆也の声が聞こえた。となると、さっきの物音は、息子のものだろうか。またこんな時間にバットでも振っているのだろうか。睡眠時間を削ると身長が伸びなくなるのに。
まあ、打ち込むことがあるのは喜ばしい。アレの努力が実り、良い結果が出ればいい、と心から願った。
充分温まった体は湯気を立てて、冬にもかかわらず、夕食を終えたにもかかわらず、よく冷えたビールが飲みたいな、なんて思った。