その噂を聞いたとき、秋丸は我が耳どころか、音を伝えた空気の振動と発言者の脳みそを真剣に疑った。次に、今朝読んだ新聞と見たニュースを思い出して、なにか天変地異の(例えば世界滅亡とか!)の予兆が無かったかどうかを考えた。そして最終的に、脳内全秋丸会議は今訊いた発言は無かったことにしよう、と満場一致で決定を下した。
「この鯖味噌、美味しいけどちょっと甘いですね」
定食のチェーン店は、昼を過ぎて客が減っている。それほど煩くない店内にはみそ汁の良い匂いが漂って、それはどこか日本人をホッとさせる匂いだ、と思った。
秋丸は、温かいお茶を一口すすり、ホゥ……と息をついた。日本人に生まれてよかった…………
「えーと、秋丸くん?」
秋丸は、その声を鳥のさえずりだと思うことにした。無理のある野太い男の声だったが、しかし自らの精神衛生を保つためには、だみ声だって天女の声だ。ほら、心頭滅却すれば火もまた涼し、っていうだろう?
「秋丸くん、そんな遠い目をしてないで、ちょっと現実に戻ってきてくれないかな」
秋丸は、その声をダンプのエンジン音だと思うことにした。さっきは鳥のさえずりなんて可愛らしいものだと思おうとしたから上手くいかなかったのだ。きっとそうに違いない。空調が効いて快適な店内で、でも日当たりがよくてこんなに長閑なのだから、ここには秋丸の精神を害する者なんて居るはずがないのだ。
「秋丸くん?」
「……………はい」
現実ってどうしてやさしくないんだろう。そんなことを考えながら、とうとう折れた秋丸は、不承不承返事をした。
向かいの席に座っているのは、小鳥でも天女でもダンプカーでもなくて、会社の同僚だった。……と言っても、部署はかけ離れている。たまたま社屋のエントランスで一緒になって、まあお互いに顔と名前ぐらいは知っているので、何となく一緒に昼を食べることになったのだ。
ちなみに秋丸は、榛名が所属するチームを持っている会社に就職していた。部署は野球とは関係ないが。
「さっきの話なんだけど……」
「ああ、あの幻聴……いや、榛名が実は頭脳派とかいう荒唐無稽を通り越してほら吹き男爵も真っ青のあれですか?」
「……秋丸くんって毒舌なんだな」
秋丸は片頬を歪めて、フッと笑った。榛名との長いつき合いが、走馬燈のように思い出される。これで毒舌にならなかったら、菩薩どころか悟りを開いた如来級だ。昔読んだ仏像マンガによると次に悟りを開くのは弥勒菩薩だったはず。ってことは、オレは弥勒菩薩なのか?
一通り馬鹿なことを考えた秋丸は、しかしその馬鹿さ加減を微塵も表情に上らせずに、どことなくニヒルな笑みを浮かべたままでこう言った。
「あの榛名と長いこと友人付き合いしていたら、毒舌にもなりますよ」
あの脳みそ筋肉男が……。秋丸は口の中で小さく罵った。秋丸にとっての榛名は紛れもなく友人で、一時期はバッテリーだったが、まあなんというか面倒を見るのが大変な相手でもあったのだ。
なんせあの男の適性は野球(しかも投手オンリーだ)のみで、一般常識と生活スキルと高校までの勉強に関しては常に何かしらの手助けを必要としていた。中・高校では定期テスト前に泊まり込みで勉強を教えたものだった。
「……じゃあやっぱり、榛名が頭脳派ってのは嘘なのか?」
「大嘘もいいところですよ。オレとしては、そんな噂がどこから出てきたのかが気になりますけど」
―――ことの発端はこんな噂だった。
曰く、普段は脳天気な言動の目立つ榛名は、アレで頭が切れるらしい。ここ一番というときに捕手のサインに首を振って投げた球は、どれも絶妙な球種とコースである。
この話を、秋丸は目の前の同僚から聞いた。今まさに鯖味噌の最後の一口を咀嚼しているところで、ひとり暮らしで普段は味わえないそれを堪能していたので、言われた内容を即時に理解することは出来なかった。
その後鯖を飲み込んで数秒、何を言われたのか考えていたが、なにやらあり得ないことを聞いたような気がして、秋丸は無意識のうちに同僚の言葉をシャットアウトして心の平穏を守ろうとした。……結局は徒労に終わったのだが。
渋々ながら現実に戻ってきた秋丸に対して、同僚は疑問を投げかけた。なにせ、秋丸は中学・高校の一時期、榛名とバッテリーを組んでいたのだ。
「秋丸くんが榛名の球捕ってたとき、なんかこう、頭脳派の片鱗とかなかったの?」
「全くもって有りませんでしたよ。もしそういうのが有れば、オレももっと楽だったんでしょうけど」
「へぇ。じゃあ榛名がここぞって時に良い球なのって偶然とか?まあ、偶然で片づけられるような回数じゃ無いみたいだけど」
「オレとしては、野性の勘、とか言われた方が納得できますね」
「ああ!榛名っぽいな!」
榛名頭脳派説よりは、どう考えたって榛名野性説の方が信憑性がある。秋丸は同僚と顔を見合わせて、うんうんと頷いた。
榛名の野性の勘は素晴らしいもので、記述式のテストの結果は惨惨たるものだが、択一式となると神が降りてきているのかと思うくらいの正答率をたたき出す。秋丸は、そういえば榛名はセンター試験だけなら国公立も夢じゃないんだよな、などと高校三年のときのことを思い出していた。
「榛名の野性の勘、の話ですけど、アイツ、マークシートとか択一式のテストだけは異様に点数が良かったんですよ」
「やっぱり野性か……」
「一種の天才にはそういうことって有るのかもしれませんね。榛名の場合は紙一重だと思うけど。………ああ、そういえば、田島も択一は強かったらしいですよ」
「田島って、あの?」
あの田島。体格こそ小柄だが走攻守に秀で、特にバットコントロールと目の良さは超一級の、少年からお年寄りまで万遍なく大人気の野手である。人懐っこい性格で、底抜けに明るい言動で、まあなんというか榛名と同じ種類の人間だった。
「その田島ですよ。田島が高校のときのチームメイトの子とはちょっと関わりがあって、けっこういろんな話を聞いたんです」
「へぇ。けっこう人脈広いね」
「その子……ああ、男ですよ、年下なんです。その子が頭の良い子で、配球とかよ………く………」
「秋丸くん?」
突然言葉を途切れさせた秋丸に、同僚は不思議そうな顔をした。しかし、秋丸はそれどころではない。
あり得ないと思っていた榛名頭脳派説の真実の一端を、掴んだ気がしたのだ。
「あの、榛名頭脳派説のことなんですけど、榛名、そのときの事についてなんか言ってませんか?」
「確かヒーローインタビューで、打者の得意な球とコースの話をしてたような……。だから、ちゃんとデータとか研究してるのか!ってちょっと話題になったんだよ」
「データ、ですか………」
秋丸は某探偵のように、謎は全て解けた!と叫びそうになった。この際、某探偵が見た目は子供でもじっちゃんの名にかけてでもどっちでもいい。とにかく、世界滅亡よりもあり得ないと思っていた話題に、納得のいく説明をつけられそうで、それが嬉しかったのだ。
どうしてすぐに気付かなかったのだろう!榛名が頭の良い発言、行動なんてするはずがない。アイツがデータと分析に基づいた配給するなんて、どう考えたってタカヤくんの入れ知恵に決まってるじゃないか!
秋丸は、なんだかとてもスッとした気分で微笑んだ。それは、汚い話だが便秘が解消した人のような、そんな表情だ。はっきり言ってその変化に同僚は置いてけぼりだが、今の秋丸にはそんなことはどうでもいい。
「あのー、秋丸くん?」
「はい?」
自分1人でスッとして、それはちょっと悪いかなと思ったが、まあここで種明かしをしてしまうと、榛名の頭脳の平穏無事な生活を乱してしまうかもしれない。まあ、あちらはあちらで榛名とは長い付き合いだし、本当に平穏無事な生活を送れているのかというと疑問が残るが。
それにしても。
「タカヤくん、今でも榛名のためにデータ研究してるんだ」
「え、今なにか言ったか?」
「いいえ、なにも?」
取り敢えず天変地異の前触れでは無かったのは良しとして、今度榛名とタカヤくんのミーティングを見に行こうかな。それともお邪魔かな。
秋丸は、友人とその後輩の顔を思い浮かべながら、いい加減冷めてしまったお茶をすすった。