「なぁ、どうしたらいいと思う!?」
「知らないよ」
二月の中頃からずっと、なにやら悩んでいた榛名元希は、秋丸の襟首を掴んで前後左右に揺さぶりながら尋ねた。対する秋丸は、冷淡極まりない返答である。
無論、秋丸の態度が冷たいのは、ロックバンドのヘドバンもかくや、という揺さぶりに、機嫌も気分も悪くなったのが理由であるが、実のところ、状況にうんざりしていた、というのもあった。
榛名が悩んでいる理由とは…………。
それは二月の中頃のビッグイベント、バレンタインに関することであった。
チョコの数に一喜一憂する世の多くの男共と違い、榛名にはお付き合いしている相手がいた。これもまた世の多くの男共と違い、その相手は異性ではないのだが、榛名にはしてみれば、ナントカの欲目もあって、たいそう可愛いコイビトである。
彼の恋人に対して一般的な感覚で言う“可愛い”という表現が当てはまるかは賛否両論だが、榛名曰く、可愛くないのが可愛い、だそうで、これは世に言う“バカップル”ではないかと秋丸などは思っていた。傍目には恋人の方は冷淡かつ淡白なので、榛名がベタボレしているように見える。しかしてその実態は…………、あれはまごう事なき両想いである。
ジャレかかる犬のように、見えない尻尾を全力で振って愛情を表現する榛名より、冷めた態度の中で不意に榛名への愛情と気遣いを滲ませる恋人の方が、見ていて格段に恥ずかしい。
どっちにしろ、ゴチソウサマ、ってなもんであった。
そんな彼らだから、バレンタインは当然何かしらあると思われていた。榛名はチョコを貰う気満々だったし、彼の恋人もチョコ(もしくは別のプレゼント)をあげるのだろう、というのが周囲の見解だった。
ちなみに、同性のカップルでありながら、榛名が貰うと黙されていたのは、榛名が“彼氏”だからである。どうやって決まったのかは知らないが、榛名より恋人の方が男気溢れる性格であると目されているので、榛名が泣き落としたのではないかと言う説が有力だった。
ところが、バレンタイン前日はワクワクそわそわしていた榛名が、当日は手の付けられないほどハイテンションになり、そして次の日は、声をかけるのを躊躇うほどの落ち込みぶりを披露していた。
…………貰えなかったんだな。
普段は羨望を集めるエース様が、同情を一身に集めた瞬間である。
そうこうする内に、榛名は今度は、なにやら真剣な顔をして悩みだした。その頃には既に、落ち込んでもなければ不機嫌でもない。試験前でもついぞ見せなかったような真剣さで考え込み、とうとう図書室で調べものを始めるに及んで、榛名の周囲の人間は、真剣に乱心を疑った。バレンタインに貰えなかったショックが大きすぎたのかもしれない。
ちなみに、このとき榛名が調べていたのは、料理の本だった。ショックのあまり“彼氏”を返上して“彼女”になるつもりか、と新たな衝撃が走ったのは言うまでもない。
しかし、上げ膳据え膳の実家暮らしで家事全ダメの榛名であるからして、配役交代して“彼女”になったからと言って、包丁で指を切られたりしたら困るのだ。
それだけはなんとしても阻止しなければならない、場合によっては恋人に直訴して交代を取り止めてもらうしかない、と嘗て無い危機を感じた武蔵野第一野球部の主将とマネージャーは、榛名とも彼の恋人とも親しい秋丸に、指令を言い渡した。
―――お前、事情を訊いて説得してこい。説得が無理なら、恋人の方に泣き付いて止めさせてくれ、と。
ここで話は時間を遡る。2月14日、土曜の夕方、場所は西浦高校第二グラウンドである。
休憩中に、マネジ作のブラウニーを有難く頂戴しているときの事だった。
それまでブラウニーの攻略に必死になっていた田島が、ふと顔を上げた。
視線の先には、阿部隆也。ブラウニーを咀嚼しつつ、速記のようなスピードで部誌を書いている。
田島は知っていた。この男、存外モテるのだ、ということを。
なにしろ無愛想なものだから、阿部がまともに言葉を交わす女子と言えば、マネジの篠岡ぐらいである。しかし、グループワークなどで稀に言葉を交わすと気付くのだ。阿部が結構優しいということに。
……優しいというのは正確ではないかもしれない。実際には阿部は、面倒見がよく、忍耐強い。無愛想ですぐ怒鳴るという性格のわりに、愛情溢れる男なのである。
そんな訳で、阿部の評価としては、彼女になるのは大変そうだけど、付き合ったら大事にしてくれそう、だった。少なくとも、浮気はしないに違いない。
そんな阿部だが、実は恋人が存在した。しかも、男の、である。
それでいいのか、阿部よ……、と誰もが思ったが、当の本人はどこ吹く風、である。付き合うにあたって阿部の基準は人そのものにあり、好きになってしまえば性別などは些末事であるらしい。全くもって男らしい性格であるがしかし、それでいいのか、阿部よ……、と思わないでもない周囲だった。
ちなみに、阿部の恋人が“彼氏”である。愛の為に全てを受け入れる決意をした阿部は、“彼女”でありながら、男の中の男として尊崇を集めていた。
田島は、ブラウニーを飲み込んで、チョコが付着した指先を舐めとると、唐突に質問を投げ掛けた。
「阿部はハルナにチョコあげるのか?」
まさに、誰もが訊きたくて訊けなかった質問である。こうもあっさり訊いてしまうあたり、田島が田島である所以であろうか。
対する阿部の返答は、と 言えば…………
「さあな」
―――のヒトコトであった。にしうらーぜは、オヤ?と思った。絶対にあげると思ったのだ。
しかしよく見ると、阿部の顔には、オレはやったぜ! と書いてある。口では素っ気ないが、どうやら既にあげたらしい。フフン、と笑っているので、余程会心の出来だったのだろうか。
阿部は機嫌よさげに、ペンをくるくる回している。このペン回し、実は巣山が上手いのだが、普段の阿部にはこのような癖は無い。ペン回しの癖など無いことを知っている花井や水谷からすれば、ギョッとするような上機嫌である。
この上機嫌の理由、知りたいような知りたくないような………。話の流れからすると、十中八九、バレンタインがらみなのだろうが、バレンタインがらみという事は榛名がらみで、更に言えば榛名は阿部の"彼氏"にあたる訳で…………、まあ要するに、男の友人に男の恋人なのだから、積極的に聞きたい話ではないのである。
ここで再び、時間は遡る。2月14日、土曜の朝、場所は阿部家の台所である。
前日から泊まりに来ていた榛名は、阿部家で朝食を頂戴して、土曜の練習に向かおうとしていた。
ちなみに、両親と弟は祖父母の家に行っているとかで留守である。だからこそ昨夜は有意義に過ごせたのであるが、恩恵を受けている榛名ですら心配になるほどの放任っぷりである。大丈夫ですかお父さんお母さん。息子さんに悪い虫がついてますよ、などと思ってみたりもする。自分が“虫”であるくせに。
まあとにかく、楽しい一夜が明けて、気分良く目覚めるはずの朝だったのだが、可愛い恋人にたいそう可愛くないやり口でたたき起こされた榛名は、夏場の犬みたいに舌を出しながら朝食の席に着いた。舌がピリピリしているのだ。
榛名としては、可愛らしくおはようのチュー、などと贅沢は言わないので、もう少し穏便な方法で起こして欲しかったのである。揺するとか、布団を剥ぐとか。しかし現実はといえば、大口開けて眠っていた榛名の舌に、ワサビを塗りつけたのだ、彼の恋人は。
その瞬間の衝撃を、なんと表現したらいいのか、語彙の貧困な榛名には分からなかった。ただ、飛び起きた榛名が壁やベッドの支柱に腕をぶつけて怪我しないよう、周囲にはクッションが敷き詰めてあった。それが、愛されている証拠、と言えなくもない………のかも知れない。
とにかく、意表をついた起こし方だったのだ。
飛び起きた榛名は、もちろん恋人に文句を言おうとした。寝穢い榛名が一瞬で完全に覚醒してしまうような、衝撃的な起こし方だったのだ。これは文句の一つも言わねばなるまい。
しかし、しゃべるという事は口を動かすということであり、そうすると口の中にワサビの味が広がってしまう。その様はまさに二次災害というにふさわしく、榛名としては舌を出して堪えるしか無い。……チクショウ、文句も言わせねぇ気か。榛名は、ツーンと痺れる鼻の付け根の痛みに耐えながら、涙目で恋人を睨んだ。
「はよーざいます。朝飯、出来てますよ」
恋人―――阿部は、自らの所行など無かったような顔をして言った。彼は辛党で、ワサビも好きなのである。
そのまま背を向けて、階段を下りていってしまった阿部に続き、文句を言うのを断念した榛名も階段を下りた。一刻も早く、口を漱がねばならない。洗面所に駆け込んだ榛名は、うがいをして口の中に広がったワサビ味に声にならない悲鳴を上げ、それに耐えつつ更にうがいをして、何とか口内のワサビを払拭する事に成功した。……とは言っても、舌は痺れたままである。
ようやく朝食の席に着いた榛名に、阿部は湯気を立てるマグカップを手渡した。中身はカフェオレである。温めた牛乳にインスタントコーヒーを溶いたそれは、苦みよりも甘みの方が勝っている。
朝食は、白米と目玉焼き、ハムに焼いたウィンナー、プチトマトと適当に千切ったレタス、果物とヨーグルトである。ご飯に牛乳、という食い合わせは、阿部にとっても榛名にとっても抵抗はない。
榛名はカフェオレで口の中を洗い流し、恨めしげに恋人を睨んだ。どう考えても、今朝の起こし方は非道い。非道すぎる。
「タカヤ、おまえ、もーちょっとまともな方法で起こせよ」
やっと痺れの収まってきた口で、開口一番抗議した………ところ、返す刀でばっさりと切り捨てられてしまった。
「アンタが寝惚けたフリしてオレを引っ張り込もうとしなくなったら、普通に起こしてあげますよ」
………榛名の自業自得である。
ぐうの音も出ない榛名は、仕方なしに黙って朝食を咀嚼することに集中した。今日はバレンタインデーで、恋人達の祭典で、普段はつれない態度が可愛い恋人もちょっとは甘くなってくれるかと期待していたのだが、むしろいつもより手厳しい。
とは言え、正式にお付き合いしている2人であるし、阿部は誕生日などはちゃんと祝ってくれるので、つれなくてもチョコはくれるはずだった。これ以上食い下がると、チョコも危なくなるかもしれない、と思った榛名は、彼にしては非常に行儀良く食事を終えた。
その夜、再び阿部家に帰り着いた榛名は、それはもうとてつもなくチョコを楽しみにしていた。これで結構もてる榛名は、部活中にマネジに貰った義理チョコ以外のチョコを全て断ってきたのだ。
チョコ自体も楽しみだったが、榛名が何より楽しみにしているのは、それを渡すときの阿部の様子だった。普段のふてぶてしいまでに冷静な態度と違って、赤くなったりどもったりするのだろうか。いつもは目をみて話すくせに、顔を逸らしたりして………。耳が赤くなったりしていたら、たまらない!
今や格好イイと評判の榛名の顔は、顔面土砂崩れをおこしていた。恋する男とは、客観的に見るとこうも間抜けなものなのだろうか。
「ターカヤ!」
「お帰んなさい。晩飯、もう食べれますよ」
阿部家の居間には、カレーの良い匂いが漂っていた。練習後で空腹なのだから、チョコより飯が先でも問題はない。いや寧ろ理に適っていると言ってもいい。榛名は上機嫌で食卓に着いた。
………ところが、食事が終わっても、榛名はチョコを貰えなかった。風呂を借りて、歯も磨いて、後は寝るだけ、という段になっても、やはり貰えない。
意を決して、
「くれないのか?」
……と聞いてみたが、阿部はふふん、と笑うだけである。
そしてそのまま、阿部はあっさりと眠ってしまった。結局榛名はチョコを貰えず終いで、しかもくれる気があるのか無いのか、すっかり忘れていたのかも分からなかった。なんせ、返答は“ふふん”だけである。
翌朝、練習へと向かう榛名の背中は、哀れなほどの哀愁を漂わせていたという。
そして、話は現在へと戻る。
バレンタイン後しばらくはどん底の落ち込みぶりを見せていた榛名だったが、時間と共に冷静さを取り戻し、14日の阿部の様子を反芻し、一つの可能性にたどり着いた。
阿部は、あのとき“ふふん”と笑ったのだ。だったら、バレンタインを忘れていた、という可能性は低いし、くれるつもりがないなら、笑わずにきっぱりと言うはずだ。「あんたチョコなんか欲しいんですか」って。
そのどちらでもないとすれば、あの笑いは………、寧ろ、してやったり! という感じの笑い方ではなかっただろうか?………つまり、榛名が気付いていないだけで、チョコは貰えていたのではないか、ということだ。
この可能性に気付いたとき、榛名はあの日食べた食事の中にチョコが混入されていたのではないか、と考えた。昼食はグラウンドで食べたから、可能性があるのは朝食と夕食だ。
だが、料理をしない榛名には、あの日のメニューのどれにチョコが混入していたかなど分からない。仕方がないので、図書室で料理の本を調べる事にした。
そして、発見した。カレーには、隠し味としてチョコレートを入れるとコクが増す、と書いてある。
これだ!………多分。
榛名は一縷の希望に縋った。阿部がチョコをくれていたと信じたい。カレーに混入されていたら味なんて分からないが、きっと入っていた、と思いたい。
そして、ハッと気付いた。ホワイトデーが迫っている。カレーにチョコが入っていたとしたら、何かお返しするべきだろうか、と。
榛名のこの溢れんばかりの愛を伝えるためにも、是非ともなにかあげたい。しかし、チョコが混入していたという推測が外れていた場合、お返しという概念は成立せず、榛名は間抜けな勘違い男と認識されてしまうかも知れない。
「なぁ、どうしたらいいと思う!?」
「知らないよ」
手近に居た秋丸に訊ねたところ、友達甲斐のないことに、スパッと切り捨てられた。チクショウ、この薄情者!
榛名は頭を抱えて、机に突っ伏した。
目を閉じると、瞼の裏に恋人の顔が浮かぶ。こんなに悩まされてちょっと腹立たしいけれど、あの可愛げ無く笑った顔は最高に好みだった。負けず嫌いで、気が強くて、生意気で。だから、腹が立つのなんて、すぐにどうでもよくなってしまう。
「どっちなんだタカヤ………」
榛名の声は、初春の日差しの中にとけていった。