部室の真ん中に、ガタガタ揺れる机が置いてある。なんで真ん中に置いてあるかっていうと、壁にはぐるりと棚やロッカーが据え付けてあるからで、そうするとどうしても部屋の真ん中に机、ってことになってしまうんだろう。教室で使ってるのと同じ形のその机は、錆の浮いた足と真っ黒になった天板のせいで、廃棄一歩手前に見える。……もしかしたら、廃棄された物を拾ってきたのかも知れないけれど。

 栄口は、そんなことを考えながら欠伸をかみ殺した。ロッカーに背を預けて立ち、書く度にガタガタ鳴る机で一心不乱に部誌を書く頭を眺めている。蛍光灯に照らされた髪は真っ黒で、普段は好き勝手にはねてるそれがぺちゃりとなっているのは、きっと練習中に被っていたメットのせいだろう。自身、髪は短いのでそう気にならないが、そう言えば三橋のフワフワした髪も練習後はへちゃりと寝ていた気がする。他のみんなも、髪が長い者は多かれ少なかれ、似た様な状態だった。……全く変わらないのは花井ぐらいだろうか。
 そこまで考えたところで、栄口は小さな笑いを漏らした。花井は中学の頃は坊主じゃなかったらしい。情報収集が趣味で、当時の花井(……の試合)を見たことがあるらしい阿部の情報だった。
 その阿部は今部誌を書いているが、まだまだ終わりそうにない。彼の右手は、神が降りてきた漫画家のそれのような動きを見せ、その文筆量は連載を複数抱える売れっ子小説家にも勝るとも劣らない。いつもながら、今日の練習にそんなに書くことあったっけ? と思うのだけれど、まあその辺は視点の違いというかなんというか。やっぱりキャッチャーの視点の方が情報量は多いし、何より阿部のこれは趣味の様なものだから仕方がない。それにしても、シートバッティング時の配球と打球を全員分覚えてるって、阿部の頭はどんな構造なんだろうか。

 書き続ける阿部は、顔を紙面に落としたままだ。しばらくは上げる気配もない。窓の外はすっかり藍色に変わり、窓ガラスは照明の反射で鏡の様に阿部の姿を映し出している。いつだって日暮れまで練習するものだから、こうして部誌を書く阿部を待っていても、その頬が夕陽色に染まることなんて一度もなかった。別に、そんな状態の阿部を見たい訳でもないけれど、蛍光灯の光は阿部の頬を白く照らして、栄口はそれを見飽きるほど何度も目にしていた。

(………染めてやれ)

 ふと、悪戯心が湧く。待ってるのに全然こっちを向かない友人に対するイタズラと、白くて動きのない彼の頬に対する破壊活動と、ちょっとした野次馬根性。なかなか楽しい趣向だ、けどちょっと趣味悪いかも、と思う。自画自賛と反省の混じった妙な気分は、昂揚してるっていうのがぴったりだ。でも、その昂揚が声に滲まない様に注意して、話しかける。

「ね、阿部」
「んー」
「今日も疲れたねー」
「うん」
「腹減ったねー」
「うん」

 予想通り、阿部は顔を上げないまま生返事をした。それを受けて、栄口の頬が緩む。阿部は集中力が凄いから、こう言うときは何を言っても同じ返事しかしない。

「学食の塩ラーメン、美味いよねー」
「うん」
「あ、でも購買のカスタードサンドも美味い」
「うん」
「あれ、阿部甘いの苦手じゃなかったっけ?」
「うん」

 ―――何を言っても、阿部の返事は「うん」だ。この状態の阿部は、まさに右から左に聞き流している、といった感じで、考えも無しに同じ返事を繰り返す。これなら大丈夫、と栄口はほくそ笑んだ。そして、目的を果たすべく、自然な流れを装って阿部に話しかける。

「明日7組の家庭科、調理実習だって?」
「うん」
「花井が、俺の包丁捌きを見せてやるって言ってたよ」
「うん」
「水谷は甘いの好きだからみそ汁に砂糖入れるって言ってたし」
「うん」
「ところで、阿部は榛名さんのこと好きなの?」
「うん」

 ―――「うん」って言わせたぞ! 後は、阿部に自分が何に対して「うん」って言ったのか気付かせて……、と。それで、阿部の白い頬は赤くなるはずだ。……あぁ、しまった。これはもしかして、ムービー撮っておくべきだったかも。

「じゃあ付き合ってんの?」
「うん」
「休みの日にデートしたり?」
「うん」
「へぇ、ホントに榛名さんのこと好きなんだ」
「うん」
「オレの言ってること分かって返事してる?」
「うん」
「ホントに?」
「うん」

 いや、分かってないだろ。栄口は思った。阿部の右から左っぷりは予想以上で、なんとか気付かせないと当初の目論見――阿部に赤面させる、という――が果たせない。どうしたものかと思いながらも、まあ楽しいから、ともう暫くこの質問を続けることにした。

「二人で会うときって家に行ったりするの?」
「うん」
「どっちの? 阿部の家?」
「うん」
「へぇ、そうなんだ」
「うん」
「ところで阿部、生返事はダメだよー」
「うん」
「分かってんの?」
「うん」
「ホントに?」
「うん」

 ――――ウソつけ、聞いてないだろ。そう思ってたら、いつの間にか阿部が顔を上げていて、目があった。でも、顔は相変わらず白いままで、机の上を手早く片付けて、荷物をカバンに詰め込んでいる。あれ?

「待たせてわりぃな、帰るか」
「へ?……あ、あぁ」

 阿部は部室の鍵を右手に持って、左手にエナメルスポーツバッグを引っかけて、先に立って部室を出て行く。栄口は、慌てて後を追いながら、訊ねた。

「ホントに、オレの言ってたこと分かってるの?」
「うん」

(………やられた)

 窓ガラスに映る栄口の顔はまっ赤に染まっていて、阿部の惚気にやられたらしい、と思い出しても恥ずかしくなる。だって、分かって返事してると思わないじゃないか。そもそも、阿部を赤面させてやろうと思って仕掛けたイタズラだったのに、自分があてられて赤面ってこれ如何に。

 それにしても、それにしても。


「ホントに付き合ってたんだ、阿部と榛名サン………」