榛名元希が真夏に日陰で舌を出してだらんと延びている大型犬みたいに寝そべっていると、ソファの背もたれ越しにカタカタとキーを打つ音が聞こえてきた。……が、本来一人暮らしのはずの榛名の部屋にある他人の気配――すなわち、阿部の気配――には慣れきっているので、今さら気になるということもない。
榛名からはソファの背が邪魔で見えないが、阿部はレポートでも片付けているのだろうか。榛名が持っているあまり使いこなせていないパソコンはデスクトップタイプのものなので、ダイニングのテーブルでキーボードの音を立てているのは、阿部が持ち込んだノートだろうか。ぼんやりと考えながら、榛名はソファの上で身をよじった。
カタカタ、カタカタ、キーを打つ音は続く。今さら沈黙が苦になる様な間柄ではないけれど、こうした空気の時にたまに阿部が落とす益体もない話が、榛名は好きだった。話の最後が「へぇー」で終わって、そのままうたた寝に陥っても全く問題のない様な、そんな毒にも薬にもならない話。だから、今日もなにか喋らないかな、と半分眠りかけた頭で思った。
「元希さん、知ってます?」
唐突に、阿部が話をふる。脈絡も何もあったもんじゃないけれど、それはそれで良いと思う。
こないだテレビで見たんですけどね、と阿部が続けた。アニメもドラマも見ない(見れない)高校生活を送っていた阿部は、今でも見るものといえばニュースで、だからか基本的にチャンネルはNHKなのだそうだ。その為か、テレビのネタは微妙にシュールな事が多い。
「百年前の野球って、打者が投手にコースをリクエストしてたそうですよ」
「はぁ?」
なんでも、当時の野球は、打者の顔から胸までの高さがハイボール、胸から腰までがフェアボール、腰から膝までがローボールと言って、打席に立った打者は投手に投げて欲しいコースを申告するそうだ。そして、投手にコースを申告したと同時に、捕手野手にも次はどのコースだ、と宣言し、投手は言われたコースに投げなければならないらしい。
「元希さん、今のルールで良かったですね?」
「なにがだよ」
「指定されたコースにちゃんと投げれるんすか?」
「………っ! どーせオレはノーコンだよ!」
阿部がくすくすと笑う。くすぐったがるようなその笑い方は、榛名の好きなものの一つだった。どんな顔で笑っているのか見てやろう。榛名は、身を起こした。
阿部は、予想通りに笑っていた。目尻が下がる笑い方は、やはり榛名は好ましいと思う笑顔だ。
先ほど、暗にノーコンと言われた榛名は、さて、と応酬の手を考えた。別に険悪でこんなことをしているのではなくて、じゃれあいのようなものだ。阿部も榛名も、もうこれぐらいのことでは怒ったりしないし、それを簡単に確認する手段でもある。
暫く阿部の顔を眺めていた榛名が、くい、と口の端を持ち上げて笑いの形を作った。
「確かにオレは今の野球で良かったけどな、それはお前も同じだろ?」
「……なんでです?」
笑っていた阿部の顔が、すこし挑戦的なものになる。二匹の犬が、ちょうど中間にあるボールを取り合って遊ぶみたいな、そんな雰囲気になる。
口の端を上げた榛名は、だってそうだろ、とさも当然の様な顔をして続けた。
「打者がコース指定しちまったら、お前全然楽しくないだろ」
暗に、お前の配球が生きる場所がない、と言われて阿部は―――
「そうですね」
―――阿部は、ニヤリ、と笑った。