【KISS】
「あ」
「あ」
声を上げたのは二人同時。ついでに言うなら、手を伸ばしたのも二人同時だった。「あ」と言ったきり、暫く顔を見合わせて、我に返った様に「よう」と手を挙げる。毎日毎日毎日部活で朝昼晩と突き合わせている顔を、今日もまた朝昼晩と見るとは思ってもみなかったからだ。阿部と泉は、多分お互いに同じようなことを考えながら、半端にへらりと手を挙げた。
そもそも泉は、休みの日に久しぶりに買い物にでも、と思って出てきたのだった。それで、まず入ったのはスポーツ用品店で、他にもあるだろう、と言われそうな気がしたけれど、買い物は優先順位の高い順に買うのがいい、と決めているものだから、どうしても一番はここになってしまう。なんせ、ランニング用のシューズを潰してしまったのだから。
ちょうど15時間くらい前だろうか。前日の練習の最後に、筋トレを兼ねて鬼ごっこをしていると、毎日酷使し続けた靴がとうとう天に召されて、あーあ、明日の休みは買い物だな、と思っていたのだ。思い立ったら即・行動がモットーの泉は、だからこうして朝から買い物に来ているのだった。
当初の予定では、靴を買ってついでにウィンドブレーカーを見て、本屋に行って、軽くなんか食って、カバンと服を買って、雑貨でも冷やかして帰ろう、と思っていた。ところが、最初のスポーツ用品店で泉がシューズをひっくり返したりして真剣に吟味していると、隣の同年輩の男が、こちらも靴の中敷きを両手に持って真剣に見比べていて、あ、と思ったらそれが阿部だったのだ。
よう、お前も買い物? そう言って偶然を笑って、それぞれ目的のモノを購入して、店の前で手を振って別れた。別れたはずだったのだけれど、約40分後に本屋の雑誌コーナーで偶然の再会を果たし、何となく一緒に昼を食べて、今度こそじゃあな、と手を振ったのだけれど、今度は二時間後に、なんとCD屋でまたもや再会した。泉としては、阿部がCD! という点で非常に驚きだったのだが、それ以上に、二度あることは三度ある、を実体験した驚きの方が勝っていた。
さらに、空があかくなってきた頃に、カバンを物色している泉の前を、阿部が横切っていった。ガラス越しだったから阿部は気付かなかったようだけれど、泉はばっちり見てしまって、四度目……、と呟いた。
そして、極めつけは。最後に入った無印で、冬の間に部室のポット(田島家からの供出品)で飲むスープでも、と“フリーズドライ エビと青梗菜の中華風スープ”に手を伸ばしたところ、すぐ隣に置いてあった“フリーズドライ 玄米入り参鶏湯”に手を伸ばした阿部と目があった。
………五度目、と心の中で呟きながら、半ば呆然と互いを見つめ合い、互いに「……よう」と手を挙げる。挙げた手が力ないのは、きっと無駄に奇跡的な遭遇のせいだ。なんだって今日はコイツとこんなに会っちまうんだ。
泉としては、阿部と趣味が合うとは思えないのだが、これだけ行く先々で会うのなら、意外と合うのかもしれない。
とにかく、あまりにも会うものだから、なんだかおかしくなって、ぷっ、と噴きだしてしまった。意外や意外、泉と阿部は、合うのかも知れない。毒舌以外に共通項があったなんて!
『こうして僕等は楽しくなった』
明日は絶対に晴れだ、ってぐらいに綺麗な夕焼けの下で、どういう訳かオレは元希さんと二人で長い階段を下っている。オレの記憶によると、ちょっと走り込みでもと出てきたのに、なんで居るんだこの人は。………って考えて、すぐに答えが見つかった。なんのことはない。シニアの頃たまに付き合っていたこの人の走り込みのコースなんだ、ここは。
ちらり、隣を歩く人をみると、身長差はあの頃と変わってなくて、一瞬シニアの頃に戻ったような錯覚を感じた。茶髪になってるとかそういう、見た目の変化があまりない人だから、余計にそう思うのかも知れない。
―――と、横目で見てたのに気付かれたのか、元希さんがこっちを向いた。眼が合うと、ニカッと笑う。屈託の無さ過ぎる笑顔に、俺も笑い返せば良いんだろうけど、どう笑って良いのか分からなくて顔を背けてしまった。それを誤魔化す様に、二、三歩先に進んで元希さんの前に立つ。
オレが前に立って歩くなんて、道案内してるとき以外は無かったから、それだけはちょっと新鮮――――と思った瞬間だった。
ズルッ…
オレは、長い階段の中程で足を滑らせた。残りの何段だかを転がり落ちそうになったオレの腕を掴んで支えたのは、すぐ後ろにいた元希さんだった。
踏み外した瞬間に跳ね上がった心拍数が、まだ心臓をドキドキさせている。傾いたオレを支えたのはたった一本の腕で、力が強いと感心するべきなのか、オレはそんなに軽いのかとショックを受けるべきなのか分からない。
だた、首筋の血管が痛くなるほどに、ドクドクドクドクとオレの心臓は拍動を速めたままだった。
―――それは、多分現国の時間に習ったのだと思う。ナマケモノの時間だとかゾウの時間だとか、そういう話。
何かというと、つまりほ乳類の心臓が一生の間に打つ鼓動の数はおよそ一定で、それは平均すると20億〜23億回ぐらいなんだそうだ。なのになんで寿命は全然違うかというと、脈拍の速さの違いによるらしくて、人間は1分間に約60回前後、ネズミは600回、ゾウは30回なんだそうだ。
一生の拍動を23億回として、人間は2300000000÷60で38333333分、つまり約72年。
ゾウは2300000000÷30で7666666分、つまり約145年。ネズミだと2300000000÷600で3833333分、つまり約7年。
でもまあ実際には、人間みたいに日々安静に過ごしてる訳でもないし、栄養状態だって良くないから、ゾウもネズミも寿命は半分ぐらいなんだと。
つまり、乱暴に纏めると、一生の速さは鼓動の速さに比例する訳で、人間から見たらたった数年のネズミの一生だって、ネズミ自身にしたら23億回の鼓動を刻む、充分に内容の濃い一生な訳で、1分間に600回も鼓動を刻むそのスピードこそが、ネズミにとっての世界のスピードな訳だ。
ああ、それじゃあ、日本が長寿大国なのって、もしかしたら平和だからなんだろうか。走って逃げまどう様な生活してたら、その分心臓は速く鼓動を刻むから、早く23億回を使い切ってしまうんだろうか。
オレは、掴まれて傾いだままで、ぼんやりとそんなことを考えていた。ああ、早くちゃんと自分の足でまっすぐに立たないと、と思うのだけど、意志に反してオレの体は元希さんに支えられたままで、オレの視界は夕陽であかく染まった元希さんのどアップで、そして多分オレの顔も(夕陽で?)あかく染まっていると思う。
ドクドクドクドク、耳元に自分の鼓動がうるさいぐらいで、静まれ、落ち着け、と心の中で唱えてみるけれど、効果なんて全くなくて、そして。
『傾いたまま世界はまたスピードをあげて』
久しぶりに会ったら、今まで以上に支離滅裂な行動に振り回されて、もう何がなんだかさっぱり分からない。さっきまで笑っていたかと思うと急に声を荒げ、腕を引かれたかと思うと突き放される。珍しく奢ってくれたけど「一口よこせ」って言われて、なんだアンタが両方食べたかっただけじゃん、と思ってたら、「食えよ」って自分の分を分けてくれて、食い意地の張った人なのに今日はやさしいな、って。
………なんだろう。ホントに、訳わかんねぇ。山の天気って言うか、秋の空って言うか。ツリ目だから、猫の目って言う方が合ってるかも。とにかく、くるくると機嫌が良くなったり悪くなったりして、しかも原因が分からないものだから困ってしまう。
「元希さん、今日はどうしたんすか。いつもよりヘンですよ」
急にかかってきた栄口からの通話を終えてケータイを閉じると、さっきまでとうって変わって不機嫌そうな顔になっている元希さんに、ついにオレは理由を尋ねた。慣れてるとは言え、これ以上こんなアップダウンな機嫌に付き合わされるのは御免だった。
「………別に」
ああまたそんな、拗ねた様な顔をして。アンタいったい幾つだよ、って言いたくなる様な、そっぽを向いたはにかんだ顔。………って、はにかんだ顔?
なんでこの場面でその表情をセレクトするんだ、と不思議に思って、マジマジと元希さんの顔を見つめると、そっぽを向いたままの横顔が、夕焼けでもないのにどんどんあかくなっていく。
「ちょっ、どうしたんすか、熱でもあるんですか?」
「ねーよ!」
じゃあなんで?元希さんの前に回って顔をのぞき込むと、後ろを向かれた。もう一度回り込んで顔を見ると、また逸らされる。
なんだこれ。今までにない種類の反応だ。
もう一度回り込んで、今度は逸らされないように襟首を掴んで固定してやった。無理矢理顔をこっちに向けさせると、気まず気に彷徨ってた視線が、諦めた様にこちらに向けられる。
口が開き、でも何の言葉も発せられないまま閉じて、躊躇う様にもう一度開いた。不似合いなほど弱々しい声が、元希さんの口から出る。
「オレと居るのに他のこと考えてるお前はイヤだ。他のヤツと喋るのも。昔の癖で手ぇ掴んじまって、でもその後急に………なんつーか、恥ずかしくなって、もうどうしてイイかわかんねぇ」
「…………はぁ?」
「だから!………お前が好きだって言ってんの!」
いや、言ってねえし。つーか、あれ? 今なんか重大なこと言われた様な気が……。好き? オレのことが? はずかしがったり、や……や…、焼き餅やいたりするってことは、つまりそーいう意味の好き、なんだよな? って、え? えええぇー!?
オレは、目を白黒させて、口をパクパクさせて、なんだか酸欠の金魚みたいに間抜けな顔をしていることだろう。酸欠の金魚がホントに間抜けかどうかは置いといても、人間のオレのこの顔は、やっぱり相当間抜けに違いない。
目の前の元希さんは、顔はあかいままで、でもとても真剣な顔をしていて、タチの悪い冗談はやめて下さい、なんて茶化すことも出来ないぐらいで、オレはなにか返事をしなければ、と焦ってしまう。でも、実際問題、オレがこの人を恋愛対象として見たことは無いから、どう答えていいか分からない。
でも、男に告白されてるわりに、気持ち悪いとかそういう拒否反応的な感情が湧いてこないのは、気持ち悪いと切り捨てるには元希さんの存在が大きすぎるせいだろうか。
混乱が最高潮に達したとき、ふと神のお告げ的な田島の言葉が脳裡に浮かんで、清水の舞台から飛び降りるつもりで、オレはその言葉に従ってみようと決めた。
――――確か、『レンアイは直感だ!』だったっけ。
直感に従って、考えもせずにオレは口を開いた。自然に、最初に口をついて出た言葉が、直感に従ったオレの本心だ、と思って。実際のところ、口をついて出た言葉に一番吃驚したのはオレ自身で、ちょっと待った今の無し!って言いたくなったんだけれども。
―――オレの口をついて出た言葉は
「…………うれしい」
『小さな僕の声』
昼間元気に動き回っている子供ほど寝ている間はおとなしい、なんてのはウソだ。絶対に。
――――と思ったかどうかは知らないが、少なくともその瞬間の阿部隆也は、とてつもなく不機嫌だった。理由は簡単。起こされたからだ、隣で眠る榛名元希の寝相の悪さに。
例えば、急に誰か泊まりに来るとして、慌てない程度に部屋が片づいている男子高校生はどれくらい居るのだろうか。阿部自身は寡聞にしてその割合を知らなかったが、少なくとも榛名元希という男の部屋は、お世辞にも片づいているとは言えなかった。
もっとも、榛名自身はあまり気にしていない様で、散らかしたままに阿部を自宅に呼んで居たのだが、今は主に榛名が阿部の家に来ることになっている。榛名の部屋に行くと、阿部は必ず掃除をしてからでないと腰を落ち着けないので、それだったら阿部の部屋の方が、ということになったらしい。
―――ところで、ここに一つ問題があった。
榛名の部屋は、図体の大きな部屋の主に合わせて、ベッドも大きな物が据えてあった。来客用の布団が無いという事情も合わせて、不本意ながら阿部が同衾を了承する程度には大きなベッドである。
一方の阿部の部屋にあるのは、ごく普通のシングルサイズのベッドだった。卒業しても仲良しにしうらーぜが頻繁に遊びに来るので、一応客用の布団はある。某量販店の寝具七点セットは、泊まりに来るにしうらーぜ一同が割り勘して引越祝いにくれたものだ。
しかし、フローリングに布団を敷いて寝る、というのは、どうにも背中が痛くてかなわない。だから、榛名が来たときには、ベッドに榛名を寝かせて、阿部自身は布団で眠る、というのが通例になっていた。
そして、草木も眠る丑三つ時。
寝相が悪くて寝ている間も大運動会の榛名元希は、寝返りをうった拍子に、ベッドのふちから転げ落ちた。その下には、フローリングに布団を敷いて眠る阿部。運が良いのか悪いのか、その阿部の上に無事着地した榛名は、うぅん……、とひとつ唸ってそのまま眠りの園に帰っていき、突如巨体の襲来を受けた阿部は、飛び起きようにものし掛かって眠る男のせいで身動きも出来ずにいた。
「ちょ……っ!おもっ重い!」
阿部は榛名を退かせようと、必死で身をよじる。しかし榛名、人恋しい季節なのか、一向に退く気配がなかった。
叩いても抓っても、あまつさえグーで殴ったり膝で蹴り上げたりしても、榛名は起きない。鼻を摘んでやろうかと思っても、榛名の顔は阿部の肩口に埋まっているので、阿部の肩関節が人体の構造を無視した動きをしない限りは鼻に手が届きそうにない。この辺りで、阿部のこめかみに血管が浮いた。
―――いや待てオレ。これは子供。体だけでっかく育った中身は子供。オレは大人だから、子供が寝ぼけてしたことなんて我慢できる。
額に血管を浮かばせた阿部は、しかし心の中でそう唱えて、なんとか怒りの衝動を抑えようと努力していた。……と、努力の甲斐あってか自己暗示が効いたのか、なんとか怒りの噴出は我慢できそうなぐらいの平常心が戻ってくる。阿部は心の中で、よし! と握りしめた拳を掲げた。
しかし、である。実は阿部は、寝ぼけた水谷を壁際まで吹っ飛ばして栄口に正座を命じられる、という前科があった。しかも、比較的最近の話である。元が短気な阿部の性格では、相手が寝ぼけているからと言って我慢できるものでは無いのだ、実際には。
ならば、どうして今回は我慢できたのか、と言われれば、きっと阿部は、
「元希さんこれでもプロなんだから、吹っ飛ばして怪我でもさせたら……」
―――などと言うに違いない。……が、阿部は、相手が寝ぼけているから、子供だから、プロだから、といってこの許容を発動させる訳ではない。そんなに心の広い人間ではないのだ、阿部は。
だったらどうして、この図体ばっかり育った榛名を許容するのかと言えば、それはつまり。
つまり、阿部にとっての榛名の存在とは―――
『潰れた太陽僕の上』
夢みたいな日々が、終わった。
終わりは、決して唐突なものではなくて、予定されていた終わりだった。日々は、期間にしておよそ一年。最初の何ヶ月かは最悪で、その次に文字通り夢みたいな時間があって、最後は最低だった。善い夢と悪い夢の一年間。醒めてみれば…………なんのことはない。オレが馬鹿だっただけのことだ。
たとえば、蹲ったオレから興味なく逸らされた目線とか、捕れなかったけれど後逸もしなかった時に口の端に浮かぶ傲慢な笑いとか、ちゃんと捕れたときに大きく見開いた目の中に少しだけ透けて見える(ような気がした)驚きと喜びとか、そんなもの全部は、本当はどうでもいいことだったんだ。
たとえば、かじかんだ手を暖めた肉まんの湯気とか、なんでもないように頭の上に置かれる手とか、気まぐれにくるメールとか、そんなものも、意味のないことなんだ。
………理解するのに一年近くかかったけれど。
練習で夜遅くなったりするから、ケータイを持たされていた。別に有害サイトブロックのフィルターも設定していない、ごく普通のケータイだ。テレビは見れない、音楽も聴けない。……別に、取り立てて必要性を感じないから構わないけど。 ……そのケータイを、今日ほど疎ましく思ったことはない。ケツポケットに突っ込んだ黒い直方体は、肩にかけたビニールバッグの体積の1/100もないくせに、やけに存在を主張してくる。つるりとした黒い表面は、あのおとこの真っ黒な目みたいだ。あの目に映っていたのは、結局のところオレではなかった。
夕暮れの茜色と夜の藍色が入りまじった不思議な世界を歩きながら、習い性のように携帯を引っ張り出す。基本的にはずっとマナーモードにしてあるので、たまに着信がないか確認するようにしていた。携帯を持っている、と知られた後、たまにメールや電話が入るようになったからだ。気まぐれなそれらに気付くのが遅れると、あのおとこの機嫌が降下する。だから身に付いた習慣だった。
――――着信は、ない。
そりゃそうか。もうシニアを引退したあのおとこには、オレはもう用無しなんだろう。
分かっていたはずなのに、急に実感を伴って訪れたその感傷に、不意に視界が歪んだ。きつく目を閉じてやり過ごす。
………携帯を、こうやって開く癖を、やめよう。でないと、自分自身が哀れに過ぎる。
感傷を振り切るように、乱暴な手つきでボタンを一つ押して携帯を閉じた。カバンに放り込んで、あとはその存在すら忘れたフリをする。大丈夫。オレは、大丈夫。
顔を上げて、点滅し始めた信号に向かって走った。
『さよならこんな日には電源を落とし』
「どーすんだよ、オイ」
「どう……って言われても」
ガタイのよろしい男と、平均的な体格の男が、額を突き合わせてなにやら話しこんでいる。仲がいい、と言うには少々顔が近すぎるが、幸いにしてその場には彼ら二人しかいなかったので、大の男が二人して……という場面を見られずに済んでいる。もっとも、彼らが居るのは試合終了後の一塁側ブルペンで、一般人はそもそも立ち入れないし、関係者とて試合が終わってしまえば用もなく立ち入ることは無い。
そんな人気の無いブルペンで2人――榛名と阿部である――が何をしているのか、と言うと、彼らにとって重大極まりないある事柄について相談しているのである。断じて逢い引きなどではない。
「……明日だぜ」
「分かってますよ!」
「……にしても、バレるとはなぁ」
「アンタが迂濶だからでしょうが」
―――断じて逢い引きなどではないが、この2人、逢い引きしてもおかしくない間柄ではあった。早い話が、付き合っているのである。榛名と阿部は。
榛名は日本を代表する左腕であり、昨年の奪三振王でもある。彼が最多勝利投手を逃したのは、概ねリリーフ投手の不甲斐なさのせいだと言われている。
一方の阿部は、スタメン定着こそしていないものの、ベンチ入りしてデータを分析しつつ、投手の交代と共に捕手も交代して出てきたり、代打で出てそのまま守備についたりと、途中出場が多いながらも、まずまず一軍に馴染みつつあった。榛名はファンに人気があるが、どちらかというと阿部の方は、「この場面で内角要求するか!」と言った強気で激しい配球が、逆に投手たちに人気だったりする。なんでも、挑発されたような気分になって、見てろよやってやろーじゃん! と奮発するらしい。
そんな2人は、所属チームが別なので、当然今日は対戦した訳だが、試合が終わってしまえばそれより重大な案件が待ちかまえていたので、着替えもそこそこに慌ててロッカールームを飛び出してブルペンで合流したのだった。ちなみに、榛名と阿部が旧知の仲であることはよく知られているので、チームメイトたちにはそれほど不審がられずにすんだらしい。
―――そして、冒頭に戻る。
「どうする」「明日」「バレた」「迂闊」………。これらの言葉を総合して導き出される答えは………、すなわち、秘密がばれてしまって、明日なにかある、ということ。
端的に言ってしまえば、"榛名と阿部がつき合っているという秘密" が、榛名の "迂闊さにより" とうとう親に "バレてしまい"、ちょうど試合のない "明日" にちょっと来て事情を説明しろ、と言われているのだった。これはもう、ちょっとした修羅場である。
2人としては、是非とも彼らの親が息子の恋愛事情に理解を示し、寛容な態度でいてくれることを望まずにはいられなかったが、決して楽観できる状況でないのは確かだった。かろうじて試合中は野球に集中していたのだが、終わってしまうと途端に不安がぶり返してくる。互いの両親が互いを知っている、という状況も、心臓が不規則に跳ねるのを助長しているようだ。
「そろそろ行かねぇと、バス出ちまうな……」
「そーっすね。とりあえず、今日モトキさんち行きますから」
「おー」
シーズン中は滅多に無い共に過ごせる夜なのに、どうしても浮き立たない心を抱えて、2人は隙間から滑り出るようにブルペンを後にした。明日なんかこなけりゃいいのに、などと非現実的なことを考えながら人気のない通路を進む。
本当に、本当に明日なんてこなけりゃいいのに!
『僕等の明日は処刑台に立って』