「サインなんていらねーんだよ!」
元希の大暴投で逆転サヨナラ負けになってしまった練習試合、その後の反省会という名のミーティングの更に後に、隆也が元希に「サインを見ろ」と詰め寄って、元希がそれを切り捨てる、という一幕があった。
隆也は元希の球をよく捕るが、しかしこの二年生捕手の本来の持ち味は、その配球の構成にある。ちょっとコントロールの良い投手と組ませたら、それはもうてきめんに分かる。
それを、元希は切って捨てた。つかみ合うかのような距離で相対して、隆也の垂れた大きな目が、歪む。あ、泣く、と思ったけど、すぐにそれは無いか、と思い直した。隆也は、嬉しいときには泣くくせに、悔しいときには驚くほど涙を我慢する。だから、今回もきっと泣かない。
「だったら、オレは何の為に居るんですか。捕るだけかよ!」
「捕るだけでいいんだよ!」
売り言葉に買い言葉、か。ひどい言葉が、元希の口から吐きだされた。隆也が、くちびるが白くなるくらいに噛み締めている。それでもやっぱり、泣かないんだな。
周りにいる奴らが、さっきから、いつ止めに入ろうか、と間をはかっていた。元希と隆也のバッテリーは、基本的に第三者の介入が難しいから、なおさら慎重に。第三者の介入となると、どうしても隆也に甘い判断をしてしまう。それは隆也が元希より一つ年下だってこともあるし、なにより隆也は元希に認められたい、対等のバッテリーになりたい、と思っているから、庇われるのを嫌がる。気持ちは嬉しいけど、ありがた迷惑です。ってのが正直なところなんだろう。
二人はしばらくにらみ合っていたが、元希がふいっとそっぽを向いた。拒絶、のつもりはないんだろう、本人には。でも、背を向けられた隆也は、その後ろでひどい顔をしていた。とても辛いことがあったときの人間の顔。大人がたまにそういう表情をするのを、見たことがある。そのくせ、やっぱり泣かない。泣けばいいのに、とも思うけど、可哀相なぐらい芯が強いこのチームメイトは、きっとこんな場所で泣くことを自分に許していないんだ。
穴が開くかと思うくらいに元希の背中を見続けていた隆也は、しばらくしてとぼとぼと帰っていった。
元希が、トイレにでも行っていたのだろうか、戻ってきて周囲を見回している。何かを、誰かを捜している目。誰を捜しているのかなんて、聞くまでもない。
「アイツ、帰ったのか?」
そう言って、じゃあオレも帰るよ、とカバンを肩に掛けた。少しだけ、その仕草が寂しそうにも見える。元希は、あんなふうに隆也の言葉を切って捨てるくせに、隆也のことを好きだからだ。……だったら、
「なんで隆也にあんなこと言ったんだよ」
「………ムカついたから」
元希は、隆也が帰っていった方向を見ながら、ぽつり、そうこぼした。
「どーせオレのコントールじゃムリなんだ。だから、サインなんて、役に立たないだろ。だから、打者の観察とかも止めちまえばいい。アイツはオレだけ見てりゃいいんだ」
―――ああ、このバッテリーは、きっと上手くいかない、と思った。元希が隆也に求めるものと、隆也が元希に求めるものは、違うカタチをしている。
元希は、隆也のミットも逃げないまっすぐな目も、隆也自身までも欲しがってるのに、なのに投球に関してだけは隆也を立ち入らせない。きっと、オレがもっと速く、強くなればいいんだ、と思ってる。隆也はそれを受けてくれるだけでいいと、思ってる。
でも隆也は、球を受けるだけじゃなくて、リードってカタチで元希を勝たせたいと願っているから、この二人の目指すカタチの違いが、このバッテリーを壊してしまう。
もしかすると元希は、中学では捕れる捕手がいなくて、だから隆也が捕ってくれるだけでもいい、って思ってるのかも知れないけど、でも隆也にはそんな事情はあずかり知らないことだ。
『オレだけ見てりゃいいんだ』って元希は言ったけど、隆也はそれよりも捕手として求められる方を望んでいる。
せめてもっと時間があれば。時間を掛けて、隆也が元希の球を危なげなく捕れるようになって、元希も隆也が捕るのが当たり前のことだって慣れてしまえばいい。そしたら、元希は隆也に『捕る』以上のものを望むようになるかも知れない。ひとりで投げるよりもその方がずっとイイって気付くかもしれない。
そして、そこまでバッテリーが成長すれば、隆也も元希の求めるものに応じれるようになるかも。何より願った、捕手として必要とされる、という事が叶えば。
なのにどうして、あと半年ちょっとしかないのか。そんな短い時間じゃ、間に合わない。もっと時間をかけないと、あの二人は本当のバッテリーになれない。
せめて、元希が最初からこのチームに居れば。………言っても、仕方のないことか。
元希は、もう帰ってしまった。他のチームメイト達も、もう帰っていった。夕陽に赤く染められたマウンドと、ホームベース。あまりに近くて、でもどうやっても縮められない距離を眺めながら、二人の為に願わずには居られなかった。
どうか、どうかあの二人に。