ホームベースの後ろ、捕手の定位置に坐ってマスクを被った時に、あれ、と思った。思わず、自分の位置を再確認してしまう。
左右のバッターボックスの底辺を結ぶ線より、一歩後ろ。間違っていない、榛名元希という投手がマウンドにあがったときの、捕手の定位置だ。
榛名元希の、球は速い。おまけに、重い。更に、コントロールが悪い。だから、どうしても打者はバッターボックスの後ろの方に立つ。その分、他の投手の時よりも、捕手も後ろに座る。
もう一度、自分の位置を確認した。うん、間違っていない。
……なのにどうして、こんなにあの人が近く感じるのだろう。
元希さんは、日差しを嫌うように引き下げた帽子の鍔の下で、機嫌良さげにニヤリと笑った。



「……痛い」

練習が終わった後、痺れて感覚のない左手をミットから引き抜いて、盛大に顔を顰めてしまった。中指と薬指の第二関節が、赤黒く腫れている。指が上手く曲がらない。……内出血していた。
やっちまったな、と痛む手を握ったり開いたりしながら、明日はテーピングだな、と思った。面倒な作業に、少し鬱陶しさを感じてしまう。
指用の一番細いテーピングでも、おそらく大人用の太さなのだろう、オレの手にはまだちょっと幅が広い。だからといって、あの粘着質なテープを三分の二の太さに切るのは、面倒を通り越した作業だった。もう一つ太いテーピングを買って、それを半分に切ろうかな、と思案する。だって、三分の二の太さに切るなんて、本当に面倒だし、切った残りの三分の一に使い道がない。

――そんなことを考えながら着替えていると、後ろから頭を叩かれた。

「痛い」

振り向くと、元希さんが、なんだか機嫌良さそうにしていた。

「おっせーよ、早く着替えろよ」

そんな事を言って、また頭を叩く。手加減しているのだろうけど、それでも強い力に頭を叩かれて、つい恨めしそうな顔で睨んでしまった。チクショ、背が伸びなくなったらどうしてくれるんだ、と。
だよーなー、お前、なんか縮んだもんな、と笑われて、アンタがタケノコみたいにニョキニョキ伸びてるんでしょう、と思った。オレにも早く成長期が来ないかな。

「帰りにコンビニ寄ってこーぜ」

だから急いで着替えろよ、と言われて、やっぱり今日は機嫌が良い、と思った。まあ、機嫌が良いに越したことはない。
うん、と頷いて、痺れて上手く動かない指で、急いでボタンを留めた。






次の日の練習でも、やっぱり自分の位置に違和感を感じて、周りを見回してしまった。マウンドで元希さんが、何やってんだよ、よそ見すんなよ、と言っている。
ああ、確かによそ見してると危ないよな、と、当たり前のことを頭の隅っこで考えながら、オレはミットを構えた。正直な話、この人相手でよそ事考えてると、危ないのは怪我どころか命だ。しかも、球が当たっても、絶対心配するんじゃなくて笑うんだ、この人は、と思うと腹が立つ。
振りかぶった左手から放たれた直球が、早送りみたいにいきなり目の前に現れて、うわっ、と思いながらもなんとか捕球した。ビリビリ痺れる左手。ヘビー級ボクサーがサンドバッグを殴ったみたいな、重い音。衝撃に片目を瞑って耐え、震える余韻に、ああ、この球だ、と嬉しさのようなものを感じた。マウンドで、元希さんも笑っている。
そう、元希さんはここのところ、調子が良い。相変わらずの荒れ球だけど、それにしても良い。力の乗ったストレートが、腹の底まで響くような衝撃でもってミットに飛び込んでくる。
そう、この球、この球だ。
くるり、ミットの中でボールを一回転させて、汚れてもないし滑らないのを確認してから返球した。返球――オレが投げた時には普段通りなのに、元希さんが振りかぶると、やっぱり近く感じた。
投球練習のブルペンは、投手のプレートもホームベースも埋め込んであるから、距離を間違うなんて有り得ないけど、やっぱり近い。
ああ、これが。
思い当たることがあって、オレは納得して気分が良くなった。自分の事みたいに、嬉しい。
投手の調子が良い日は、何だが距離が近く感じるって。球が走ってると、その速さの分彼我の距離が短く感じるって。
聞いたことはあったけど、実感したのは初めてだ。やっぱり元希さん、調子が良い。
元々速い球がもっと速く感じて、これはちょっと怖いな、と思うのと、ゾクゾクするのが半分ぐらいで、少しだけ腕が震えた。怖いのに楽しいって、なんだかおかしい。なにかの中毒みたいで、笑い出したくなった。おかしいんじゃねーの、オレ。
振りかぶって投げられた直球が、重たい衝撃を腹まで響かせて、マウンドの上では元希さんが、どーだ! って顔で笑ってて、これじゃホントに中毒みたいだ、って嬉しいのか呆れてるのか分からなくて、困ってしまった。



「タカヤー、お前なにニヤニヤしてんの」

練習後、ロッカーで、やっぱり痺れる指でもたもたとボタンを留めていたオレを、やっぱり機嫌が良い元希さんが軽く叩いた。機嫌が良いからか、投球練習のときだけじゃなくて、距離が近い気がする。機嫌が悪いときの元希さんは、まるで絶滅危惧種の野生動物みたいに周りを威嚇するから、機嫌が良いとその分もあって尚更だ。
そう考えると、なんかちょっと気分が良いよな。「懐いた!」みたいな。
仮にも先輩に対してちょっと失礼な事を考えながら、別にニヤニヤなんてしてませんよ、と答えた。嘘だー、絶対ニヤニヤしてるって! と返される。
……と、
「元希、隆也、鍵頼むな!」

キャプテンの先輩が、お先ー、と声をかけて出て行ったのを見て、そういえばと周りを見たら、いつの間にかロッカーには二人だけだった。ここんとこ、オレは指が上手く動かないので、着替えが遅い。
でもって、オレの他のもう一人は当然元希さんで、最近はなんだか一緒に帰るのが決まりのようになっていた。着替えるのが早い――なんせ、脱いだ練習着を畳まずにカバンに突っ込むので――元希さんは、どういう訳かオレが着替えるのを待っててくれる。

「タカヤー、今日オレんち母さんいないから、晩飯どっかで食って帰ろーぜ」

晩飯? 一瞬財布の中の所持金を思い浮かべて、そういやじいちゃんに小遣い貰ったばっかだった、ということを思い出した。いいですよ、と答える。
時刻は4時。まだ家では夕飯の準備をしていないはずだから、連絡入れとけば外食は可だ。
中学生のくせにわりと放任されているオレは、連絡さえ入れれば比較的自由に外食・外泊が許される。
急いで家に連絡して、自分でもそれで良いのかと思うくらいにあっさりと許可が出て、んじゃどこ行きますか? って振り向いたら、元希さんが

「肉肉!肉が食いたい!」

……って、この人やっぱり動物っぽい。
まあ、中学生のオレ達に手が出る肉ってのは、ファミレスのハンバーグとかそういうものなので、んじゃ駅前のファミレス行きますか? って聞いたら、二つ返事で、うん、と返されて、あれ、こーいうのって後輩のオレが言う事じゃないよな、でも元希さんだしなぁ、と先輩っぽくない先輩を見上げた。





そんなこんなで、練習の後に寄り道して帰るのが決まりみたいになって二週間。
相変わらず元希さんの投球は絶好調で、その分マウンドが近く感じて、オレは投球練習の度にちょっとドキドキしていた。そのドキドキが嫌じゃないのが中毒みたいで、オレってなんかアブノーマルな人みたいだ、と愕然としたりもしたけど、調子が良いときの球を受けるのは気持ちが良いのでまあいいか、と思っている。
近く感じるのは捕手だけじゃなくて打者もみたいで、最近打撃練習の時に、今までにも増して打者が後ろに立つので、時々ミットにバットが当たりそうになる。元希の球、怖えーよ、と言われて、あれ、打者はこの球にドキドキしないのかな、なんて思ってもみるけど、それを口に出したことは無い。
だって、ドキドキしないと言われたら、あの球にドキドキするオレがおかしい人みたいだし。
練習中に、調子いいと近く感じるなぁと思って、練習後に寄り道しながら、やっぱり機嫌良いと近く 感じるなぁと思っていたら、ある時先輩に、

「お前ら最近仲いいな」

――って言われて、愕然とした。

こっちの "近い" は、気のせいじゃ無かったのか。