「オレ、メジャーに移籍したい」

今や日本のプロ野球界を代表する左腕へと成長した榛名元希投手は、こちらは全然成長の見られない脈絡のなさでそう言った。右手に茶碗、左手にお箸、口はもぐもぐと休み無くおかずの筑前煮を咀嚼している最中である。

「えーと、今なんて?」

聞き返したのは、不幸にも同席していた秋丸だった。彼は中学で榛名と同じ野球部になってから、ずっと榛名の突拍子もない言動のとばっちりを喰らっていた。いい加減慣れているので、ちょうど飲みかけだったお茶を噴出することもない。

「だから、オレはメジャーに移籍したい、って」

ああ、やっぱり幻聴じゃなかったんだな。秋丸は、あーあ、と息をついて目を閉じた。榛名は今や、球団の看板だ。勝ち星を稼ぐエースであるし、メディアへの露出だって多い。なんせ、顔が良いもんだから。球団側としても、手放すなんて考えてないだろうし、確か去年の契約更新時には、けっこうな好待遇を提示していたはずだ。移籍したいなんて言いだしたら、交渉が紛糾するに決まっている。
まあ、榛名の実力なら、メジャーでもやっていけるだろうし、まだ若手の範疇に入る年だから、新天地ってのもいいかも知れない。いずれ、メジャーに移籍、というのなら、球団側だって了承するだろう。
しかし榛名は、多分今すぐにでも移籍したいのだ。なんてったって、榛名は、考えを温める、ということをしない。思い立ったら吉日、じゃないけど、彼が口にする事は、今したいことなんだ。
長いつき合いのせいか、その辺の機微が分かってしまう秋丸は、やっぱりまたとばっちり喰らうのかな、と頭を抱えたい気分になった。どうしてお前はいつもそう唐突なんだ、と、胸ぐら掴んで前後に揺さぶってやりたい。それぐらいは、許されてしかるべきだろう。

「……で、タカヤくんはなんて言ってるの?」

さしあたって、榛名の大事な子の名前を出して、反応を伺ってみる。榛名はタカヤくんと離れることなんて考えてもないだろうけど、タカヤくんにだって仕事があるんだから、彼が了承しないと移籍の話なんて立ち消えだ。たとえ球団が許しても、タカヤくんが首を縦に振らないと、榛名はアメリカには渡らない。

「……タカヤには、まだ言ってない」
「え!? それ、マズイじゃん!」

驚いた! タカヤくんには最初に、それこそ思いついた時点で話してると思ってた。秋丸は、マジマジと榛名の顔を見つめた。まだ話してない理由が分からない。

「オレに言うより、タカヤくんに言うほうが先だろ。つーか、なんでまだ話してないの?」

秋丸が訊ねると、榛名は気まずそうに下を向いた。あれ、今ケンカしてたっけ? 秋丸は、一番最近会った時の二人の様子を思い出してみるが、いつもの通りの仲睦まじさしか記憶にない。
しかし、榛名の気まずそうな顔には覚えがあった。近年はそんな顔は見てなかったけど、復縁した当初はよく見た顔だ。……悩みの理由が、阿部隆也であるときの顔。彼が原因なので、本人には言いにくいとき、榛名は気まずそうに、言いにくそうに秋丸に話す。何だかんだ言っても腐れ縁だしねぇ、と秋丸が思う瞬間だった。

「まあ、聞いてやるから話してみ。タカヤくんとなんかあったとか?」
「いや、別に……、やっぱいい」

榛名は俯いた顔を一度あげて、そうして今度は窓の外を見た。それで、話す気はないんだな、と分かった。なんだろ、顔からするとわりと真剣そうな悩みみたいだけど。
秋丸は、すっかり覚めてしまったお茶を啜り、どうしたもんかな、呟いた。







帰宅した榛名を待っていたのは、元々迫力のあるタレ目を更に据わらせた阿部だった。ただし、口元は何かに耐えるように噛み締められている。彼のうすいくちびるが歪なへの字を描き、噛み締めている為に白くなっていた。それを見て榛名は、ああ、傷つけちまったな、と思った。
阿部は、普段から怒っているような顔つきだ、と言われるが、親しいものから見ればその限りではない。怒っているとき、阿部の口は、横一文字に噛み締められる。悔しい時には、くちびるの間から少しだけ歯がのぞく。こうしてへの字になっているときは、辛いことに耐えているときだ。榛名は、この顔を知っていた。
もう十年近くも昔、中学の頃に、初めて見た。あの時が一番酷かった気がする。復縁してからも、何度も見た。それは大体、榛名の心ない言動が原因だった。いつも反省してもう繰り返さないと誓うのに、何度もそんな顔をさせてしまう。そのたびに阿部は、仕方ないな、と最後に許すのだ。

「タカヤ……」
「お帰りなさい、元希さん。ちょっとそこに座んなさい」

はい、と榛名は大人しく従った。そこ、とは、リビングのソファではなく、食卓の向かい合わせの椅子だった。真剣な話をするときは、いつもここに坐る。向かい合って話す、というのが阿部の信念であるらしい。

「夕方、球団から電話がかかってきました。アンタがメジャーに移籍したがってるらしい、どうなってるんだ、って」

秋丸じゃないな。誰かに聞かれてて、それが球団側に伝わったのだろうか。榛名は、秋丸に話したときに、聞こえる範囲に誰か居たか、と記憶をさらった。多少の人通りはあったような気がするが、それが誰だったかまでは分からない。
それよりも、球団側から榛名自身に問い合わせるよりも、まず阿部に問い合わせがいったことが面白いよな、と思った。確かに榛名と阿部が一緒に住んでるのも、阿部が代理人まがいにあらゆる事務を処理しているのも周知のことだが、それにしてもまず当人に訊くべきじゃないのか。
そういえば秋丸にも、タカヤに話すことが先決、と言われたのだったか。確かに榛名にとって阿部隆也という青年は無二の存在であるのだけれど、周囲からも認められているとなると、それはそれで嬉しいような複雑なような。なんだろう、暗黙の了解? 決して、形のあるものでは無いのに。

「あー、うん、今日昼飯食いながら、秋丸にちょっとそーいう事を言った、けど」
「けど?」
「誰かに聞かれてる、とか思わなかったから」
「から?」
「タカヤに球団から連絡がいってた、とは知らなくて」
「で?」
「えーと………」

榛名は、言葉に詰まって目を逸らそうとし、失敗した。真剣な話をしているときに、目を逸らさせないのは、阿部の知られざる特技だった。目が強い、といえば言い回しとしてはおかしいかも知れないが、そうとしか言えない力のようなものを持っていた。
見つめられれば、見つめ返すしかない。腹の底まで見透かしそうな、大きなタレ目。打席に立った打者って、こんな気分だったのかな、と思う。不安になるような、心地良いような。見透かされるのは怖いけれど、理解されるのは快感でもある。
ぞくり、背筋が粟立つような不安だか快感だかを味わいながら、榛名は、どう言ったものか、と思案した。アイツに嘘はつかない、と決めた。だから、結局の所、本当のことを言うしかない。口が上手くない自分が、どう言えばちゃんと伝わるのだろうか。

「……いいですよ、もう」

ふ、と息を吐くような笑いに、榛名は目を見張った。阿部が、仕方ないなぁ、という様子で苦笑している。もっと食い下がると思っていたのに、もっとしぼられると思っていたのに、意外とあっさり引き下がった。

「いいですよ、オレは怒ってないし、アンタは話したくなかったら話さなくてもいいです」
「……なんだよ、それ」

目の前が暗くなるような錯覚。榛名は、お門違いにも声を荒げかけて、とどまった。諦められたのだろうか、意思の疎通を。
阿部は榛名の一番の理解者だけど、その理解は主に阿部の努力によって成り立っている、と榛名は考えている。だから、阿部に諦められてしまえば、破綻してしまう関係だのだ、と。
馬鹿かオレは、と頭の中に自分を罵る声がした。そうだ、タカヤに甘えておんぶにだっこの関係じゃ、長く続く訳無い。オレから、話さないと。
阿部は、既にこの話はこの話は終わりだ、と席を立とうとしていた。それを、腕を掴んで押しとどめた。

「話す。だから、聞いてくれ」

阿部は、別に構わないのに、といった表情をしたまま、再び席に着いた。

「オレは、……オレは」

オレは、なんです? 声に出さず、先を促してみせた阿部に、榛名は必死になって言葉を繋いだ。
いつも世話になりっぱなしでわるいと思っていること。いつか呆れて去られるんじゃないかと不安になる瞬間があること。一方で、我が侭言って困らせて、それでも許されるのが嬉しいこと。でも、この関係に何の裏打ちもないのがやはり不安なこと。

「不安、ですか」
「……うん。たまに、お前が女で、それで結婚できたら、とか思うけど、でもお前が女だったらよかったって思う訳じゃあなくて」
「まあ、オレが女だったら、そもそも出会って無かったですし」
「うん。で、アメリカだったら、男同士でも結婚できるかなー、って」

「アンタ、馬鹿ですか」

ああうん、馬鹿だってのは自分でも分かってるけど、と思った。でも、仕方ないじゃないか。オレは馬鹿で、貰うばっかで、なんもお前に返せないけど、でも離れたくないから、なんかの形で保証が欲しいんだ。……今回こそ、ホントに呆れられた、か?

「まったく、アンタは覚悟が足りないんだ」

阿部の声は、榛名の予想よりも遥かにあたたかかったが、酷く怒っているようでもあった。てっきり、冷たい声が返ってくると思ってたのに、意外とあたたかい。

「アンタは、オレをそうやって縛らないと、不安なんですか? 見くびってんじゃねーよ、オレはとっくに、覚悟してるんだ」
「覚悟?」
「アンタが移籍するってんなら、九州だろうが北海道だろうが海外だろうが、一緒に行くって。大体、確かなものが無いからってなんだっていうんです。オレは、この先ずっとなんの法的保証もなくても、アンタといるって覚悟してるんだ。…………男同士だって、後ろ指さされる覚悟だって」

阿部は、瞬きもしないで榛名を見つめている。大きな目は乾いていて、口調は淡々としていて、今し方ものすごい告白をしたとは思えないような、そんな平静さだった。彼自身の言うとおり、覚悟、の平静さだった。きっと、もう悩む段階も通り過ぎて、自分の中では決定したこと、として宣言しているだけなのだ、と感じさせる。
いつから阿部がそんな覚悟をしていたのか榛名は知らなかったし、そんな大きな覚悟があったことも知らなかった。顔が売れてるプロ野球選手にスキャンダルはマズイでしょ、なんていって、阿部は身を引いてしまうのではないか、と思っていた。だから、余計に不安だった。

「……オレも、覚悟する」

不安に思うことはないし、取り立てて気負うことでも無かった。ただ、覚悟一つで、あやふやなものも強固な繋がりに変わる。

阿部は、アンタはいつも鈍いんだ、と笑った。