「元希さん、野球ができてホントによかったですね」
「うん、オレもしみじみそう思う」
野球というスポーツは、冬は基本的にオフシーズンなのである。このあたり、冬が本番のサッカーとは真逆である。
そのへんの理由としては、冬は手指が悴むので、手でボールを扱う球技には向かない、と言うことがあるのだろうか。
その点サッカーは足なので、少なくとも一人を除いては突き指の心配がない。
しかし、榛名元希と阿部隆也は、ともに日本の野球人口の構成員であった。サッカーには縁遠い。
その2人が、ファミレスの窓際の席から外を見て、心底神の配剤に感謝したような口調で話している。ファミレスは一階部分が駐車場で、窓から見る景色は見下ろす角度だった。
その窓の外を、先ほどから、学生服に厚手の上着を着た人が横切っていた。それも、何かあったんですか、というような大集団が、だ。
「ホントによかったですね」
阿部はもう一度繰り返した。その言葉に、榛名はさも深刻そうに頷いてみせる。
1月の第三土曜日、そして翌日曜日。
何の日か、と問われれば、少なくとも榛名と同学年の人間にとっては、非常に重要な日であるはずだった。
すなわち、大学入試センター試験の、当日なのである。
阿部はある種の器用貧乏な面があって、勉強は出来る方だったし、家事その他に如才のなさを発揮する人間だった。
一方の榛名は、一芸に秀でるのもそこまで、と思うほどに、野球以外の、もっと言えば投げる以外の才能のない男だった。
幸いにも榛名は、その一芸をもって既に就職を決めていた。念願の、プロである。
これに関して、阿部は素直に喜びを表した。
つまり、彼が積年の思いを叶えたことに対する喜びでもあるが、入試という明らかに榛名向きでない試練に立ち向かわずに済んだ事に因る喜びもあった。
阿部は榛名よりも年下であるが、彼が勉強するとなると、高確率で面倒を見させられるからだ。
アンタ年下に教わって恥ずかしくないんですか、とは、阿部の弁である。
ホントに良かった。むしろ、助かった。
それは、榛名と阿部の双方の正直な気持ちであった。
「な、お前はどーすんの?」
ズズッと行儀悪くアイスティーを啜った榛名が、これまた行儀悪くストローを銜えたままで問いかけた。
なにがどうする問いかけであるのかは、言わない。言葉を端折るのは榛名の悪い癖である。
そして、その悪癖を助長したのは、他ならぬ阿部自身だった。阿部は、榛名のこういう話し方に慣れていて、その意味するところを汲むことができた。
タカヤには通じる。そう知っているからこそ、榛名はこの話し方を改めようとはしないのだ。理解される事への、甘えだろうか。
「オレは、フツーにセンター受けるつもりですけど」
授業中爆睡してて、内申悪いんですよ。阿部はそういって苦笑した。
運動部であるので、寝てしまうのは榛名にも分かる感覚だ。そもそも、榛名には授業を聞くという意志すらなかったのだが。
「ふーん、そっか…」
「なんで元希さんがそんなこと気にしてるんですか。勉強すんの、アンタじゃないだろ」
榛名は、至極つまらなさそうな顔をしている。同時に、不安そうな顔でもあった。
「別にアンタのが年上だからって、勉強教えてほしいだなんて言いませんよ」
「言われても無理だしな」
「んじゃなんでそんな顔してるんです?」
阿部はそういいながら、榛名が銜えていたストローを取り上げた。行儀が悪い。幼子にするように叱ってみせる。
榛名は素直に、うん、と頷いた。
「だって、来年タカヤが受験勉強するんだったら、あんまし会えねーかも、だろ」
「そうかもしれないですね。……アンタ、そんなこと心配してたんですか」
「いや、会えないのもそうだけど、受験大丈夫かな、って」
「……オレのこと心配するなんて、元希さんも成長してたんですね」
「いやだって、タカヤのことなら他人事じゃねーし、心配ぐらいは」
そういった榛名の顔が妙に神妙で、阿部は思わず吹き出してしまった。阿部の知る榛名元希という少年は(そう、出会った頃の、だ)、およそそういう気遣いとは無縁の傍若無人ぶりだったのだ。
しかし今目の前にいる榛名は、勉強のジャマしないように会わない方がいいのかな、などと心配している。
向かいでなにやらブツブツ言っている(「いやでも、顔見るくらいは……」とか「誕生日くらい…」とか)榛名を見ながら、阿部はふとしたことに気が付いた。
来年のこの時期も、一緒にいる前提で話している。
つまりそれが自然なことで、疑いを挟む余地がないことで、当たり前のことなのだ、と。
「来年のことを話すと鬼が笑う、っていうけど、悪くないですね」
「は?」
「まあ、今年はまだ始まったばかりだけど」
「はぁ?」
なんだよタカヤ、いいえ何でも。
阿部は笑って窓の外を見た。深刻な顔の受験生が通り過ぎるのを見て、来年の自分のことよりも、榛名がプロ入りを叶えて受験せずに済んだことを、信じてもいない神に感謝したい気分だった。