痣だらけの腕がくるまっていた布団からぽろりとこぼれた。できたての青、ちょっと時間が経った紫、もう少し経つと黒、治りかけの黄色。
斬新な配色の迷彩柄みたいなその腕を、そっと取って、布団の中になおす。腕の先についた体は、むずがるようにしてもぞもぞと動いたが、目を覚ますことなく再び深い眠りに落ちた。
……もし目を覚ましていれば、驚くような光景を見たかも知れない。
愛おしむように体に回された腕、閉じこめるように、守るように囲われたその中に眠る自分。
しかし、遂に目を覚まさなかった少年、阿部隆也は、終ぞ見ることはなかった。榛名元希に抱きしめられて眠る自分の姿を。
ここにひとつ、周知の事実がある。周知の事実であるにもかかわらず、「秘密」というカテゴリーに属する事柄である。つまりは、公然の秘密、というヤツである。
具体的にはどういう事なのかというと、このシニアのエース、何様オレサマ元希様こと榛名元希は、バッテリーを組んでいるひとつ年下の捕手、阿部隆也のことが好きだ、という事実である。
傍目にも、気に入ってるんだな、というのは分かるのだが、実際の所彼が隆也に寄せる好意の程と種類が少々常軌を逸しているのをみんなが知っているのは、彼自身の宣言に寄るところである。その時は、チームメイト一同、顎を外すほどに驚いた挙げ句に、是非とも思いとどまって下さいと説得を試みたのだが、オレサマ投手は聞く耳を持たなかった。チームメイトとしては、隆也少年の将来を心配しつつ見守るしかない。
カララ…、と軽い音を立てて、廊下と室内を隔てていた襖がスライドした。今回合宿を行っているこの民宿は、規模も小さなもので、戸田北シニアが貸し切っている。よって、開いた襖からのぞくのは当然知った顔なのである。
「……元希、お前またそんなことして………」
顔を出した三年ショートの3番くんは、その光景を見た瞬間にキュッと眉根をよせて、それは盛大に顔を顰めてみせた。正面の壁に元希がもたれていて、なにやら布のかたまりのようなものを抱きかかえている。……その白いかたまりのドレープを描く裾から、黒い髪の毛がのぞいていた。
隆也だ。ハードな練習に疲れてしまったのか、それともひとつ年下、という理由ですでに眠いのか、布団にくるまったままで元希に抱きかかえられるようにして眠っている。熟睡しているのか、周囲はそれほど静かでないのに、起きる気配がない。
元希は、大事そうに小さな体に腕を回し、普段の彼からは想像もつかないほどに優しい顔でその寝顔を見ている。ずり落ちそうな体を引き上げて、はだけた布団をかけ直して。そうして、ひどく優しく笑うのだった。
「なあ元希、お前やっぱり隆也のことが好きなワケ?」
「…なんだよ、悪いか?」
いや、悪いとかじゃなくてだな…、と言葉を飲み込んだ。そもそもお前ら男同士だろ、とも思うのだが、野球大事の元希が唯一執着を示すのが隆也だ、ということを考えると、男同士だというのは些末な問題のように思える。
隆也は可愛い後輩で、出来ればまっとうな人生を歩んで欲しいと思う。しかし元希だって友達で、その友達の恋の成就を願う気持ちもある訳で。しかしその相手というのが実は隆也なので……。
つまり、隆也のまっとうな将来を諦めるか、元希の初恋を諦めるか、の二者択一なのだ。そして問題は、隆也はそう言う意味では無いにしろ元希を好いていて、元希の押しの強さを考えると、いつか隆也が押し切られる可能性が高い、ということだ。
苦悩するその横で、満足げに眠る隆也の頭を撫でている元希は、こちらの葛藤なんて知らぬ気で、少々癇に障る。隆也も隆也で、このときは寝てばかりなので、己の状況もこっちの苦悩も知らないままで、気楽でイイよな、と思わないでもない。
「そーいや、なんで隆也が寝てるときしかそういうことをしないんだ?どうせなら起きてるときに優しくしてやりゃいいじゃん」
「……だってコイツ、まだガキじゃん」
元希が、なんでコイツこんなにちっさいんだろうな、って顔で言った。そういうオレと元希だって、隆也と一つしか変わらないガキな訳だけど、元希が言わんとしていることも分かる気がする。
つまり、隆也は中二にしてはまだまだ野球ばっかで、色恋なんてまだまだって感じなんだ。誰かを好きになるのも好きになられるのも想像の外、って状態だ。
じゃあ元希はなんだってこんな風に隆也を囲っているのか。
「だから、もうちょっと育つまで待とうかな、と思って」
元希くん、それは光源氏計画ですか。
いやまあ、育つのを待つのはいいんだけど、じゃあなんも今からそんなことせんでも。
「こうやって今からオレに慣らしといて、育ったときには逃げるなんて考えつかないようにしとくんだよ」
「はぁ。もしかしてオレらに対する牽制の意味もあったり……?」
「まあな。お前ら、隆也のこと可愛がりすぎだし」
榛名元希という男は、意外と策士のようだった。
そんな新事実なんて知りたくなかった、と思っても後の祭り。宝物を大事に大事にその腕で囲って育つのを待つその姿は、まだ幼い獲物を放して育つのを待つ狩人のようであり、丹精込めて育て上げた花が咲くのを待つ園芸家のようでもあり。
ただ、育った獲物を食べるにしろ、育てた花を愛でるにしろ、元希は隆也のことが好きだから無体はしないのだろう、と言うことだけは分かったので、もう放っておくことにしよう、と思った。
どうせもう、隆也は捕まってしまっているのだし。
合宿の夜、元希の恋の行方と、周囲の苦悩と。
平和なのは腕に囲われて眠る隆也だけで、この眠り姫というにはあまりに活発で手も口も早い少年は、元希の愛と執着を一身に受けながらただ眠るのだ。
知らぬは隆也ばかりなり。