暑い熱い夏が始まろうとしていた、春も終わりのある夕暮れのことだった。
練習中にかいた汗はすでに乾き、暖かいような温いような、そんな風がむき出しの腕を撫でて通りすぎてゆく。
暑くもなく寒くもない、そんな過ごしやすい季節である。
ふと足下に視線を落とすと、長く伸びた影が2つ、寄り添うような近さで地面にわだかまっていた。
長細く伸びて、まるで人間のシルエットではないような、そんな不気味さを併せ持つその影は、同時にひどく愛おしい時間のあらわれでもある。
影の、手が繋がっているのだ。
それは、ただ影が重なり合っている、というだけではなく、まさしく、影の主である2人が手を繋いでいる為にできた形だった。
繋がった手からは、じんわりと互いの熱が広がっていく。
解け合うような、分け合うようなその熱は、もうすっかり馴染んだもので、隣にあるのが自然だと思えるほどだった。
そうする内に、どんどん影は薄くなっていった。
同時に、周囲の闇も濃くなっていく。
ボンヤリとした輪郭は、溶け込んで今にも消えてしまいそうだった。
阿部は、顔をあげた。
三橋も、顔をあげた。
手は繋いだままで、目の前に広がるグラウンドを見ている。
周りには誰もいなくて、どんどん暗くなって、それでも取り残されるような不安よりも、2人でいる安心の方が先に立つ。
きゅ、と繋いだ手に力を込めた。
同じだけの強さで握りかえされる手が、心地良い。
「優勝、しよう」
三橋が、そう言った。
阿部は、その横顔を見て、思いの外強いその表情に少し驚いた。
2人が出会ってから、3回目の夏が近付いていた。
西浦高校の野球部は、強豪になった。
いや、それは少々ニュアンスが違うのかも知れない。
ただ、新設の、一年しか居なかった一昨年の夏大で、桐青を破って結構いいところまで勝ち進んだのだ。
そのときにはまぐれだのなんだのと言われたが、その声も、2年目には消えた。
昨年も、後一歩、と言うところまで勝ち進んだからだ。
普通、高校生というものは進級し、卒業するものなので、いくら強い学校でも、年度によって強さのばらつきがあるものだ。
例えば、チームの中心の三年が抜けた場合など、がらりとチームの色が変わったりすることすらある。
それが、西浦には無かった。
新設で、一年しか居なかったチームで勝ち上がり、二年になった彼らは、ますます上達し、三年になり、気心も知れて連携も完璧、という理想的な状態のチームになった。
もちろん、今は下級生だっているのだ。
新設で先輩が少ない、そして強い、為に、野球志望の新入生には注目の志望校候補だったのだ。
だから今では、10人しかいなかった初年が嘘のように、チーム内で紅白戦が出来るほどに人数がいた。
三橋廉、という少年は、西浦のエースだった。
彼はスピードも球威もないけれど、プロも顔負けのコントロールを持っていて、そして、駄目ピーだった。
阿部隆也、という少年は、西浦の捕手だった。
彼は体格こそ捕手としては小柄だが、頭も度胸もよく、そして何より捕手に向いた種類の性格の悪さを持っていた。
2人はバッテリーを組み、そして、開花した。
おかしな話だが、開花したとしか、言い様がない。
三橋はコントロールが強みの投手だから、その力を最大限に生かすには、配球の巧みな捕手が必要だった。
阿部は配球が巧みで、そしてコントロールのいい投手を必要としていた。
組木の凸と凹みたいに、パズルの隣り合ったピースみたいに、互いがピタリと嵌りあった。
彼らは、最高のバッテリーになった。
そうして二年が経ち、今は出会ってから、バッテリーになってから3年目だった。
オドオドしていた三橋は、相変わらず初対面にはオドオドしているが、チームメイトの同級生に対しては、それなりに自分の主張を伝えることが出来るようになったし、阿部を怖がることも無くなった。
阿部も、相変わらず三橋の世話を焼いているが、怒鳴ったり笑ったりが自然になり、出会った頃のようにすれ違い食い違ってグルグル悩むようなことは無くなっていた。
そして、いつからだったろうか。
練習が終わった後、2人で最後まで残って、手を繋いでグラウンドに向かうようになった。
練習前に行う、体感瞑想。
それを、練習後に2人だけで行う。
夕焼けに顔を赤く照らされて、或いは、すっかり暮れきった月の光に照らされて、2人で並んでグラウンドを見ていた。
ポツリポツリと言葉を交わし、三橋の右手を、阿部の左手を、大切に握る。
繋いだ手から、心の中まで伝わってきそうな距離で、とても優しく、幸せな時間だった。
それは、期限付きの、この夏で終わってしまう時間だった。
「優勝、しよう」
三橋が言った。
阿部はその横顔を見て、少し驚いたような顔をして、そして頷いた。
昔の三橋は卑屈で泣き虫で、こんなことは決して言えなかったのだ。
成長したな、とちょっと見当違いに思って、そして嬉しくなって頷いた。
「ああ。今年こそ、甲子園に行こう」
ぎゅ、と握った手に力を入れた。
2人だけで見るグラウンドは、日のある間の喧噪もなりを潜めて、ただ熱気の名残を静かに燻らせている。
高校生活の中で、一番長い時間を過ごした場所だ。ましてや阿部は、入学する前から通って、草を抜き、石ころを取り除き、均して、マウンドを作ったのだ。
その日々がこの夏で終わろうとしていることが、ひどく悲しかった。
三橋は、まっすぐ前を見ていった。
「甲子園、へ、行って、優勝、しよう」
彼の顔は、盛大に下がった眉のせいで少々情けない顔つきに見えるのだが、実はそれなりにつり上がった目をしていて、マウンドに立ったときなどは、精悍、と呼んで差し支えない表情をする。
その顔を見れるのは捕手の、阿部の特権で、そして阿部はその顔がとても好きだった。
今、三橋は、マウンドに立つような顔をしている。
視線の先には、阿部が作って、三橋の為に大切に守ってきたマウンドがある。
『優勝』
三橋は本当に強くなった。
阿部は、嬉しいような、寂しいような、そんな気分を味わっていた。
県大会で優勝して甲子園へ行く、だけではなくて、甲子園で優勝しようというのだ。
灯りのまばらな夜のグラウンドは、もう少し先が見えないほどに暗かった。
手を繋ぐ隣の人も、輪郭が分かる程度で、ただ、繋いだ手は確かに熱を伝えてくる。
「オレ、甲子園の、決勝のマウンドに立ちたい」
「……うん、立てるよ、お前なら。オレが…、オレと、オレたちと一緒に行こう」
「う、ん」
さ、帰ろうか、と阿部が手を引いた。
見えないが、穏やかに笑っているのが分かる。
2人は、手を繋いだままで部室の方に向かった。
もうみんな帰ったのだろう部室は、それでもきっと寂しくも余所余所しくもなくて、このチームで築きあげた暖かさでもって2人を迎えてくれるのだろう。
「決勝のマウンド、か。そういえば、お前があんなこと言うのって珍しいな。」
「そう、かな。だって、だって……」
「三橋?」
「だって、あの場所が、一番長く、一番最後まで、阿部くん、に、投げれる場所だから」
甲子園、決勝のマウンド。
そこは、一番高い場所にあるマウンドでも、日本一を決める最高の舞台でもなくて、そんな栄光なんかじゃなくて。
そこは、三橋にとっては、三年の自分たちが一番長く、一番最後まで野球を続けられる場所だった。
引退を控えた三年生が、最後まで、一番最後までみんなと一緒に野球ができる場所。
負けたら引退、の夏を、最後の夏を、一瞬でも長く。
三橋が決勝のマウンドを望む理由を知り、阿部は、自分がこの世で一番幸せな捕手だと確信した。
投手に尽くす、信頼で応える。
一瞬でも長く。