「元希さん、いー加減、起きてくださいよ!」
その声と同時に、バサッと掛布を勢いよく剥がされて、きっちり閉まっていた遮光カーテンも全開にされ、声と眩しさと、体に感じる振動で目が覚めた。
普通誰かを起こすなら、最初は声をかけて、起きなければ揺すってみて、という風になるはずなのに、清々しいくらいにその優しい手順を無視して、最初っから叩き起こす荒っぽさで扱われる。
もう慣れたんだけどなー、と思いながらも、やっぱりもうちょっと優しく起こして欲しいと呟いてしまう。
しかし、長年のつき合いで、自分が寝穢くてそうやすやすとは起きないことを知っているアイツは、決してそんな無駄な手間などはかけてくれないのだ、阿部隆也という男は。
「ほら、さっさと起きる!」
しっしっ、と犬を追い払うような仕草でベッドから追い出されて、ふわぁと大あくびを一つ、うんと伸びをして立ち上がった。
窓の外は、明けたばかりでまだ空の色も白っぽいのに、雲一つ見当たらなくて晴天の予感がする。
日が昇るに連れて青を濃くしていく空は大層キレイだけど、明け方のこんな空も悪くはない。
部屋の中に目を転じると、キレイに整えられて心地良い部屋で、タカヤが居て水を差しだしてくれている。
これを飲んで、顔を洗って戻ってきたら、今度はベッドの上に着替えが置いてあって、それに着替えて朝のランニングに出て、帰ってきたらシャワー、そして朝食の支度がしてある。
甘やかされてるなぁ。いつもそう思うし、一度言ってみたことがあった。
「アンタは野球以外は全ダメなんだから、雑事はオレがやったげますよ」
……身も蓋もない答えを返されて、ちょっと凹んだのと同時に、これからもこうして世話焼いてくれるのかと思うと嬉しくなったのを覚えている。
朝のランニング、から戻ってみれば、やっぱり朝食の準備がされていて、浴室へと続く洗面所には着替えとタオルが積んであって、至れり尽くせりってこのことだなぁって思った。
食事も、まあ野球で生計を立てる身になったオレのことを考えてか、恐らく非常に栄養のバランスがいいんだろうなぁとは思う。
まあ、強制的に節制させられてるわけだから、良いのはいいんだけど、唐揚げとかあんまり食べさせてもらえないのがちょっとアレなんだけど。
ランニングでかいた汗を流して、滴の垂れる髪をガシガシ拭きながらダイニングに入ると、ちょうどコーヒーの良い香りがして、テーブルの上には湯気を立てる朝食が。
朝は金って言うらしい、こういうボリュームのある朝食のことを。
それくらいにたくさん、それもとりどりに並べられていて、ホントに器用だなって感心する。
―――タカヤがオレの食事を作ってくれるようになって、まだ一年にはならないけど、もう半年は越える、といった頃合いだった。
そもそもはシニアの頃に色々あって絶縁してた(されてた?)んだけど、それがまた高校の時に色々あってどうにか復縁して、高校を卒業したオレは念願のプロになり、高校を卒業したタカヤは、野球をやめて理系の大学に進学した。
タカヤが野球をやめたことに関しては、オレにも原因ていうか、責任ていうかそういうものがあって、反省もしてるし、後悔もしている。
もう、あの細かくて覚えるのに苦労するような数々のサインも、睨むようなマスク越しの目も、球がはしってる時にマスクを上げて見せるあの顔も、二度と戻らないものになってしまった。
後悔、では、言い表せない。
でも、野球をやめてもタカヤはオレといてくれる。
これは野球だけで繋がってたシニアの頃からすると格段の進歩だと思う。
そんなことを考えながらみそ汁(豆腐とわかめと、ミョウガも入ってる)を啜っていたら、茶碗にご飯のおかわりをよそっていたタカヤが、五穀米山盛りの茶碗をズイッとこっちにつきだして、ちゃんと噛んで食べてくださいよ、なんて言うもんだから。
「子どもかよ、オレは」
「大差無いでしょう」
……反論したら、即答された。
オレって一体、タカヤの何なんだろう。
それでもまあ、朝食を平らげて、タカヤが大学に行くのを見送って、さてと、オレも行くかなってカバンを掴んで立ち上がった。
食器はすでにタカヤが片付けて行ったし、洗濯物はベランダで気持ちよくはためいている。オレが掴みあげたカバンは、昨日のウチにタカヤが用意しといてくれたアンダーとかタオルとかがすでに詰め込まれてて、後はスパイクとグラブだけだ。
なんだろう、このカンジ。
まだ実家にいて、それこそ日がな野球ばかりで、家事の手伝いなんて全くしなくて、野球以外は母親にまかせっきりだった頃よりも濃密に、世話を焼いてくれる手を感じる。
自分の家なのに、何がどこに仕舞ってあるのかも分からない。そしてそれを許すように、すべて上手く取り仕切ってくれるあの手。
甘やかされていると思う。とても、とても。
その甘やかす手が、母親のものではなくて、他の誰のものでもなくて、タカヤの手だというのが、その一点だけで他とは違う意味を持ってくる。
なぜなら―――
(オレは、タカヤのことがスキだからだ)
あの手がオレを甘やかしてくれる。
態度は素っ気ないし、相変わらず口は悪いし、言ってしまえば手も早い。
なのに全部先回りしてくれる、あの存在。
大切だし、代えられないと思う。
もう、間違えたりしないとも。
タカヤがオレにそうしてくれる分、オレは精一杯野球をやろう。
そう思う。
それはひどく幸せなことで、つい二年ほど前までは望むべくもないほどに冷え切った関係だったのだから、なおのこと大切にしようと思った。
なのに、一抹の不安が。
だから、幾ばくかの不安が。
その日のトレーニングを終えて家に帰ったら、めずらしいことにタカヤはまだ帰って無かった。
大学の授業がどんなもんかは知らないけど、わりと昼間っから遊んでるイメージがあるんだよな、大学生って。
って前に言ったら、一回生の間は般教を詰め込むからそんなヒマなんかないし、理系は回生が上がって専門が増えてからが大変なんだと言われたけど、そもそも般教ってなに? って聞き返したら凄い哀れっぽい目で見られてしまった。
なんでも般教ってのは『一般教養』のことらしい。
いくら元希さんが野球で身をたててるって言っても、あんまりバカだとインタビューとかで恥ずかしい思いをしますよって言われた。
なんだろ、やっぱバカにされてんのかな。
シャワー浴びたりしてしばらく待ってたけど、タカヤはなかなか帰ってこない。
壁に掛かってる時計をみて、携帯をみて、連絡もないし、腹は減ったしでどうしようかと途方にくれる。
電話してみても繋がらないし。
退屈だし腹は減ったし、冷蔵庫を漁ってみてもどうせ料理なんて出来ないし、暇をつぶそうにもそもそもどこに何があるのかも分からない。
光熱費とかの支払いもタカヤに丸投げしてるし、その関連で通帳とかも任せてるから、財布に手持ちが無いと、メシすら食いにいけない。
……ちょっと、愕然とした。
オレって、タカヤがいないと何にも出来ねぇじゃん。
いやもう、比喩なんかじゃなくて、真剣に。
もし今新聞の集金が来たりしても、「タカヤがいないから分からない」って言うしかないし、保険とかそう言うのも然り、だ。
宅急便が来ても、ハンコがどこにあるのか分からないし(最近のってサインでもいいんだっけ?それすら分からない)、ご近所さんに回覧板持ってこられても全然分からない。
どうしよう、オレってダメダメじゃん。
タカヤが聞いたら、何を今さら、って言われそうだけど、改めて気付いて愕然とした。
ホント、タカヤがいないと生きていけないな、オレって。
自分の家のはずなのに急に余所余所しく感じて、なんだか落ち着かなくなってきた。
ソファに座ったり立ったりして、時計をみてソワソワとする。
ふと、朝方感じた不安のことを思いだした。
何もかもタカヤが上手くやってくれて、何一つ不満はないはずなのに感じる不安。
そうしてオレは野球以外に何も出来なくて、タカヤがいないと生きていけないほどで。
生活面でも依存しているし、精神面でもそうだ。
生活面は家政婦雇ったら済む問題でも(それにしてもタカヤほどオレのこと分かってる人間はいないから、味付けにしても何にしても不満を感じると思う)、精神面はどうしようもない。
だってオレはタカヤのことだスキなのだ。
一緒にいたいと思うし、あの手に甘やかされるからこそ気持ちいいんだから。
代えがないたった一人にすべて任せっきりで、オレは何も出来なくて、アイツがいないときっと生きていけないほどに依存している。
……もしかしたら、これは復讐なのかもしれない。
オレは野球以外はダメ人間で、アイツ無しでは生きていけなくて、でもきっとタカヤはオレ無しでも生きていけるんだ。
そう思うと、朝の不安がチリリと音を立てて大きくなった気がした。
シニアの頃のことに対する復讐なのか、それともアイツが野球をやめたあのことに対する復讐なのか。
分からないけど、確かにオレはそうされても仕方ないようなことをアイツにしているから。
ガチャリ、音がして玄関の扉が開いた。
タカヤが、遅くなってしまって、と謝りながらスーパーの袋を片手に入ってくる。
別にいつもと変わらないその様子に、大丈夫、そんなことはない、と小さく呟いた。
でも。
でも、たとえそれが復讐だったとしても、かまわないんだ。
オレはタカヤから離れられなくても、ダメ人間でもかまわない。
それでアイツが傍にいてくれるんだったら、全然かまわない。
むしろ、願ったり叶ったりだ。
「元希さん、オレ遅くなっちゃったんですけど、もしかしてもう食べました?」
「まだ食ってねーよ。もう、腹減ったのなんのって!」
たとえ復讐だったとしても願ったり叶ったりのこれは、なんて甘やかなものだろうと思った。