「オレっ、投げ、たく……ない、よ!」

この世で一番、その台詞と縁のなさそうな人物から出た言葉に、誰もが目を瞠った。
三橋が、三大欲求とは、投げる・食べる・寝るの3つです! と言わんばかりに投げる事が大好きな三橋が、そんな台詞を口にするとは!

その場にいた誰もが、口輪筋を停止させ、上腕筋も大腿筋も、肋間筋までも停止させて、ひどく間抜けな、意味が理解できない、といった様相で三橋を凝視している。
肋間筋が動かないと言うことは、つまりは呼吸をしていない、と言う事なのだが、その息苦しさに気づけないほどに、その言葉の威力は凄まじかった。
だが、傍目には衝撃の大きさは分かるまい。
みんな一様に、アホの子のように、あるいは、「だるまさんが転んだ」で表情まで停止させてしまったように、どこもかしこもピクリとも動けずにいた。
だから、傍目には、野球部はまた何の遊びをしてるんだ、といったふうにしか見えない。
しかし、当事者たちの心中は、荒れ狂っていた。

呆然、の一言が相応しい。
そして、その後にやってきたのは驚愕で、悲鳴やら何やらが後に続き、最後に訪れたのは不安だった。

(三橋が、投げたくないって!!?)

普通の人間であれば、そりゃあ投げたくない日もあるだろう、で済むが、こと三橋に関して言えば、これはもう天変地異の前触れ、というよりは、天変地異そのものであると言うしかない。
三橋という少年は、それはそれは投げる事が好きで、投げれるなら他の事はどうでも良いとまで思っている節がある。
いや、実際に本人はそう思っていなくとも、三橋の投げることへの偏重ぶりは、他のあらゆることを疎かにしているように思えるほどだ。
実際、三橋には投げる以外に特技など無く、まさしく投げる事以外は疎かな、投げる事だけに偏重した球児なのである。

さて、このときの野球部員たちの心配の向かう先は、当然三橋であった。
どうしたんだ、体調が悪いのか、なんかヘンなモノでも食べたのか、いやおまえ実は三橋の偽物だろう。
いち早く我に返った篠岡マネジが、三橋の額に手を当てて熱を計り、それを機にして、呪縛が解けたかのように三橋を取り囲んで心配そうに「メシはちゃんと食ったのか?」や「昨日はちゃんと眠れた?」などと矢継ぎ早に質問を浴びせかけている。
相変わらず三橋の返答は容量を得ないものではあったが、三橋翻訳機(田島)を通して話を聞いて総合したところ、どうやら不調は無いらしい。
……となると、ますますもって不思議というか、心配というか。

「あ、…れ?」

そこで、栄口が変な声を上げた。
それは突然で、しかもごくごく小さな声だったのだけれど、なにか異質の響きを持ってその場に落ちた。

「どったの、栄口?」

「いや、なんか、ちょっと……」

上手くは言えないが、重要な事を見落としている気がする。
栄口はそう言った。
相変わらず三橋は、投げないと言っている以外は取り立てて不調を訴えるでもないし、なら一体何を見落としているのか。
分からないが、とても重要でひどく不安で、栄口は視線をせわしなく動かして、思い当たるモノを探ろうとした。
と、そこで気がついた。

「……阿部、だ」

阿部。
それは、この西浦高校の捕手の名前である。
当然、三橋とバッテリーを組む人物である。
彼は投手大事の人なので、三橋の体調には殊の外敏感だ。
その阿部が、先ほどから三橋を取り巻くこの騒ぎに加わっていない。

「阿部、大丈夫?」

人の輪の外側で、凍り付いたように動けないでいる阿部に、栄口が声をかけた。
不安は、三橋から阿部へと、向かう先を変えた。


阿部隆也は、捕手である。
彼の野球人生は、どういうワケか捕手として幕を開けたという、奇妙に珍しい経緯を持っている。
大抵は、野球を始めるときは投手に憧れていたり、最初は外野や内野から始めたりする。
なのに彼は、捕手から野球人生を始めて、今もそのポジションに着いている、という珍しいタイプだった。
その辺の事情は割愛するとしても、まあ捕手一筋の阿部は、投手に対して、恋人も斯くやと言うほどの細やかな気遣いを見せるし、投手がそれに応えて投げてくれるのが一番の幸せ、という、捕手の中の捕手のような性格をしていた。
…といっても、けっこう激しい性格なので、衝突もするし怒鳴りもするが、それはすべて愛ゆえ、なのである。

それだけ、投手にすべてを注ぐ阿部が、だ。
大切な投手に、「投げたくない」と言われたなら。
しかもそれを言ったのが三橋で、しかも阿部は前の投手の「投げない」で傷ついた事を引きずっているとしたら。

「阿部、大丈夫?」

もう一度、栄口が尋ねた。
紙みたいに真っ白な顔をして、うんともすんとも反応しない阿部。
彼は今、世界から光が無くなってしまったように、温度が無くなってしまったように、ひどく空虚な顔をしている。

「あべ、く…。オレっ」

三橋が、人垣を割るようにして一歩近付いた。
びくり、と三橋の声に反応して、阿部が恐る恐るといったふうに顔をあげる。
いつもの、自信たっぷりの不貞不貞しいまでの表情はそこに無くて、不安というよりは恐慌の一歩手前のような顔をしていた。

「あべくん、あの、ね…」

三橋が距離を詰めるのに比例するように、阿部も後ずさって行く。
普段の2人の様子とは真逆で、何もないときならば可笑しみをさそう光景なのに、ちっとも可笑しく感じないのは、ことの異常性、重要性の為だろうか。
三橋が一歩進めば、阿部はその分さがる。
一歩、一歩。
意を決したのか、非常に珍しい事に、三橋がおおきく距離を詰めた。
阿部は、背中を向けて駆け出そうとする。
その阿部の腕を、三橋がつかまえた。

「ダメ、だよ!」

「なにがだよ!?」

腕を掴まれてつんのめった阿部が、バ、っと振り向いて、ひどい顔をして掴まれた腕を振りほどこうとした。
しかし、三橋は離さない。
一見すると、何の修羅場だ、と思うところだが、周囲を囲む野球部員たちは、実際に修羅場だと感じていた。
だって、あの三橋と、あの阿部が!
このバッテリーが潰れたら、それこそ西浦はもう終わりだ。

「離せ三橋!」

「ダメだよ、だって、だって、阿部くん、はっ」

「あっ」

グイッと腕を引いた阿部が、その反動からか、そのままべたりとしりもちをついてしまった。
それでも三橋は掴んだ手を離さなくて、阿部は、とっさのこととは言え投手の腕をぞんざいに扱ってしまったことに、顔色を無くしてしまっている。

(ん?顔色……?)

「あのさぁ、もしかして、阿部……」

しりもちをついたままの阿部に、栄口がそろそろと近づいて、そっと手を差し出した。
そのまま、額に触れる。
熱い。

「ちょっとこれっ、阿部、熱があるよ!」

「へ?」

「だ、だから!今日、は、投げたく、ない…って」

ぽかんと、今度こそ本当に白痴のようにぽかんとした顔で、阿部が三橋を見て、栄口を見て、もう一度三橋のほうを見た。
おれ、ねつ? っと呟いて、その顔はいつもの険を置き忘れたかのように無防備だ。
ゆっくりと自分の額に手をあててみて、首をかしげてもう一度、ねつ?と呟いた。

「オレ、投げたい、けどっ、阿部くんが…ッ」

腕を掴んだまま、どもりながら三橋は必死に言葉を紡ぐ。

「阿部くんが、怪我、とか、ツライの、イヤだ…った、から」

だから、今日は阿部くんは帰ってゆっくり休んでください。
そう言う意味の言葉を、つっかえつっかえ、三橋は言う。
どうして阿部の体調不良に気付いたのか、誰も気付かなかったそれに気付いた理由は分からないけれども、「投げたくない」発言にもちゃんとワケがあって、それがこのバッテリーの関係を損なうものでなかったことに、誰もが安堵の息をついた。
野球部の命運がかかっている、というのもあるし、何より大切なチームメイトの事だから、仲良くやって欲しいし。

「三橋はよく気がついたねぇ」

栄口がそう言うのを聞き流しながら、阿部は掴まれたままの腕から三橋の熱を感じ取って、安心したように目を閉じた。