「あ゙ー、あ゙ー…」
「うっわ、お前どーしたん、その声!」
のど元に手をあてて、ひしゃげてかすれた声を出していた阿部に、例によって部屋に来ていた榛名が驚いたような声を上げた。
普段は語尾まではっきりと発音してよく通る声が、今は掠れて、濁点を付けたように不明瞭だ。
元希さん、と呼ぶ声も、喉が痛いのか顔を顰めながら発せられて、その顔が、絶縁していたときのものと重なって、榛名は少しイヤそうな顔をした。
彼はこの元後輩が自分の名前を呼ぶのを大層気に入っているので、それがこのように喉を痛めてそれが聞き取りにくくなったり、あまつさえ口にする度に顔を顰められたりすると、大層気分を害されるように感じるのだ。
「なんでそんな声になったんだよ」
喉を押さえる阿部の手を退けさせて、榛名は細くてのど仏の余り発達していない首筋に手をあてた。
少し、熱を持っている気がするのは、やはり喉が腫れているからだろうか。
痛みに顔を顰めながらも、いつもと違う自分の声がおかしいのか、しきりと声を出していた阿部が、そろそろと原因を話し出した。
風が吹くたびに、グラウンドは巻き上げられた砂埃でもうもうと煙った。
グラウンドの黒土も、水分を失いすぎて、こころなしか白っぽく見える。
ダイヤモンドを測るよりも、ラインを引くよりもベースを置くよりも、何よりもまずやらなければならない事があるのは明白だった。
「取り敢えず、水をまきましょう」
「はい!」
現在最も優先されるべきはつまり、散水して、この驚くほどの砂塵をなんとかすることだった。
「雨のあとにはスポンジ持って水抜きからすることもあるのに、今日みたいな日には逆に水をまくって、なんかヘンなかんじだよなー」
ホースを片手に、そんな事をぼやくのは水谷だった。
スプリンクラーで散水、というのが普通なのだろうが、正直な話、普通にホースで水をまいた方が速い。
ホースの先を指でつまんで、シャワーみたいに細かく飛び散る水滴を、万遍なく土の上に降らせる。
目に見えないほどの細かな水分が、即席の小さな虹をつくりだして、それが場違いなほどにうつくしい。
「ほら、急いでね!」
モモカンにそう言われるまで、ついうっかりと眺めてしまっていた。
しかし、散水したにもかかわらず、照りつける太陽はすぐに水分を奪っていってしまった。
ランニングして、体操、アップと過ぎ、さて肝心のノックの段になると、またしても乾いた砂が巻上がり、視界はモヤがかかったようになっていた。
これがただの霧のようなものであればいいのだが、その実ごく微細な砂の粒であるのだから始末が悪い。
吸い込むと喉がイガイガして咳き込むわ、目に入れば涙が出るほどに痛いわで、それはもう大変だった。
ダイヤモンドに入れる黒土というのは、普通の砂よりも目が細かいのだ。
その砂は、髪に絡まり、服の裾から進入し、または白い練習着に真っ黒な汚れを残していった。
さて、この砂の被害を一番に被るのは、いったい何処のポジションだろうか。
それは、言わずもがな、最も地面に近い位置で構えるポジション、すなわち捕手である。
阿部は、レガースの内に入り込んだ砂と格闘しつつ、風が巻き上げる砂塵をモロに顔面にくらいつつ、それでも一生懸命にボールを捕っていた。
たまに、顔の前に構えたミットが含んだ砂が、捕球した瞬間に布団をはたいたときのようにとんできて、普段はけして顔を逸らさない彼が今日は何度か顔を背けて、そのあとに目元をこすったりしている。
しかし、一番ひどかったのは、ランナー付きの想定ノックのときだった。
浜田団長率いる、6秒代前半ズがホームに滑り込んで来たときの盛大な砂埃と言ったら!
ホームベースのすぐ手前、右のバッターボックスは、それまでさんざんにスパイクで削られ、抉られ、均されて、粒子の均一な小麦粉のようになっていた。
そこをめがけてスライディングしてくるのだから、待ちかまえてる阿部はその濛々たる砂埃を一身に浴びるしかない。
ノッカーのモモカンは、さすがにその凄まじい砂埃から多少身を引き、ランナーの生死を見極めようと目をこらしているが、正直な話、視界はゼロなので、タイミングと、煙が晴れたあとの状況を付き合わせて、
「多分、アウト!」
と判定を下すのだった。
ちなみに、砂埃で、阿部とランナーが見えなくなっている間、にしうらーぜ一同でもって固唾を呑んで見守っているのだが、哀れなことに、砂塵の中から、
「げほげほ!」
だの、
「ぶわっ、砂が!」
だのと言った叫びが聞こえてくるのだ。
そして、しばらくして晴れた視界には、全身にココアパウダーを被ったような色合いになった阿部が。
一同合掌、捕手ってこんなところも大変なんだなって、ちょっと同情したりしている。
旦那の三橋だけは、あべくんおいしそう、なんて見当違いの事を考えていたりするのだけど、彼はどもりで言語障害気味なので、その辺のアレな想像は外側には漏れてこないのでまあ大事はないのだが。
さらに、アウトカウントを読むのも、送球先を指示するのも、大概が頭脳派捕手たる阿部の役目なので、喉が渇こうが声が嗄れようが、もともと大きい声を一層張り上げて指示を飛ばす。
しかし、こんな日はやっぱり、息をおおきく吸い込んだ瞬間に、
「うっ…ゲホゴホ!……げほ! ワ、ワンナウトー!」
といったように、砂を吸い込んでは盛大に咳き込む姿が見受けられるのだった。
そういう一日を過ごした阿部の声が、練習が終わる頃にはどうなっていたかは、推して測るべし、といったところか。
無惨に掠れて、いつもよりも少しばかり低く、所々途切れて聞こえる彼の声は、好意的に推測しても、遅れてきた変声期ですか、といった風になっていた。
あわれに思った花井キャプテンが、自販機でハチミツレモン(ホット)を奢ってくれ、ありがたいのだがこんな暑い日に飲みたくないと、ソッコーでカバンに仕舞ったら、暖かい方がいいんだ今飲めと、無理矢理にプルタブを開けて飲まされて、喉は多少はマシになったかな、いや、やっぱり声が出ねぇや、と夜道を自転車で帰ってきたのだった。
「……そんなわけで、今日のオレはこんな声なんです」
阿部は、喉が痛い、とたまに咳き込んでは話を中断しながら、ゆっくりと事情の説明を終えた。
所々、喉の不調で発音できない音があったが、榛名はそのたびに、分かってる、というように頷いていて、恐らくはちゃんと通じていたのだろう。
話している間中、榛名の手が阿部の喉に触れていて、手に伝わる声の振動を面白がっていた。
もしかしたら、触れた手から言葉を読みとっていたのだろうか。
骨電動の携帯電話みたいに。
傍目に見れば、首を絞めているように見えなくもないが、実際には力も入れず、榛名にしては優しく触れていたので、喉に圧迫感は感じなかったのだろう。
触れた手もそのままに話し終わって、それでも首に触れたままだった手に、阿部が手を重ねた。
「元希さん、いつまでそうしてるんですか?」
声を出すたびに、榛名の手のひらに、その振動が伝わってくる。
喉が痛まないように、注意深くゆっくりと、一音一音発音されていて、丁寧に発せられた名前が、掠れていても今度は不快に感じなかった。
榛名の手がするりと首をすべって、阿部の心臓の辺りに触れると、鼓動と共に、胸郭の動きが感じられた。
「元希さん」
掠れた声が、急になまめかしく感じたのを、榛名は少しだけ不思議に感じた。