ふんふん♪ と鼻歌混じりに三段のステップを昇り、勝手知ったるタカヤの家、と玄関を開けて入っていった。
榛名元希が阿部家に来るのは、そりゃもうホントにいつもの事すぎて、榛名だってチャイムを鳴らさないし、阿部だって迎えに出ても来ない。
アンタどんだけ通ってんですか、むしろそこはアンタの家ですか、と聞きたくなるぐらいに、通い慣れている。
そもそも、忙しい高校球児にそんなにヒマがあるのか、といえば、無論の事あるわけは無いのだが、最近の榛名は、阿部家に"帰宅"して、同家から"通学"しているので、ヒマという問題は余り関係ないのかもしれなかった。
本当に、そこはアンタの家ですか、だ。
なんで榛名が阿部家に半分住み着いたようになっているかというと、現在榛名の家は、母方の祖父の介護で母親が家を空けていてまともな食生活を遅れない為に、榛名は避難しているという訳だ。
あんまり滞在日数が多いので、阿部は現在、彼に合い鍵をつくろうかと思案中だったりする。
ちなみに彼は、才能・忍耐・努力、その他の器用さなどのすべてが野球につぎ込まれている為、炊事家事はからっきしである。
これじゃ当然一人暮らしは無理というものだ。
所変わって、阿部家の一階、居間のソファーとローテーブルの前にて。
阿部家の長男、阿部隆也は、付けっぱなしのテレビを見るでもなく、視線を手元に落としていた。
彼の手の中には、酷使しすぎて毛羽立った、糸の切れた硬球があった。
西浦高校では、これを補修するのは、阿部とマネジの篠岡の仕事だった。
というか、出来るのがその2人だけだからそうなったのだが、これがけっこう力がいるのだ。
最初は栄口もやっていたのが、一度派手に指を突き刺してからは辞めさせられている。
チクチク、だなんて可愛らしい音じゃなくて、ザクザクとけっこう激しい縫いっぷりだ。
真新しい赤い糸は、くたびれたボールの表面とミスマッチで、おかしな感じがする。
…と、彼の手元に影が差した。
「タカヤ、ボールの修理?」
ひょい、と覗く長身。
外気をまとわりつかせたままの榛名が居間に入ってきた。
決して利き手に持つ事のない荷物を下に置いて、つかれたー、とソファーの隣の席に身を沈めた。
「なー、腹減った。メシはぁ?」
「ちょっと待ってください、キリ良いところまでやるから」
「えー、オレもう、腹減って死にそう……」
「じゃあ死んでください」
「ひどっ!タカヤひどっ!!」
「ジョーダンですよ、それよか、先に汚れ物洗濯に出しといて下さいね」
はーい、と立ち上がる榛名。
なんせ夜の間に洗って貰うのだから、ここは口答えもせずに素直にしたがっている。
その後ろ姿を見送って、阿部は手早く針や糸を片付け始めた。
全部まとめて紙袋に入れて、食事を温めようと台所に立つ。
しばらく、と言うほどにも時間をかけずに、ペタペタと音がして榛名が居間に戻ってきた。
どこの球児も大概がそうであるように、榛名も疲労と眠気と空腹で、なんだかヤバイ顔になっている。
「タカヤー、メシ、まだ?」
「もーすぐですよ、ヒマだったらお箸とか並べてください」
「あーい。あ、そーだ」
右手に箸と箸置き、左手にコップを持ったままの榛名が、くるっと振り向いて、電子レンジからメインの大皿を取り出さんとしていた阿部の方を向いた。
「なんすか?」
「あのさぁ、来週練習試合があんだけど、それまでにユニフォームに背番号縫いつけてくんねぇ?」
…と、箸とコップを適当に並べて、荷物の所へ歩み寄り背番号を取り出す榛名。
もう彼の指定番号のように、1番を持っていた。
「いーですけど、なんでまた縫わなきゃならないんですか?」
だって、元希さんずっと1番じゃん。
阿部は尋ねた。
榛名は三年が引退した後、先輩の香具山から1番を受け取っていた。
そしてそれは、もう榛名自身が引退するまで、ずっと彼だけの物であるはずだ。
「それがさぁ、オレ身長が伸びて、ユニフォーム新調したんだよ」
もう一年も無いのに、この時期に新調ってものアレなんだけどよ、そう言った元希を、阿部は何か異様なものでも見るかのように凝視した。
タタッと駆け寄って、元希の横に並んでみる。
「あぁっ、ホントに伸びてる!!?」
「だろー」
「なんでまだ伸びるんですか!? そんだけありゃ、もう充分じゃん。オレに10センチくださいよ!!」
「いや、やれねーし」
ここ最近成長が止まって、捕手としては小柄の部類に入る阿部には、榛名の身長が羨ましくてならないらしい。
シニアで初めて出会って、ちっせぇなぁと言われたその日から、広がる事はあっても縮まる事はなかったその身長差。
今は、出会った頃よりは少し身長差が開いている気がする。
「なんかスゲー悔しい……。しかもオレ、こんなに毎日顔合わしててなんで気付かなかったんだろ……」
シュンとうなだれる阿部。と、高さがちょうど良いからとその頭に腕を乗っける榛名。
シニアの頃から榛名は、このひとつ下の後輩との身長差が気に入っていて、ちょうど良い高さに来る頭が気に入っていて、腕をかけたり、アゴを乗っけたりしていたのだが。
「ああもう!元希さんジャマ!腕どけてください!」
本日の阿部は身長の事で機嫌が悪いので、腕を邪険に振り払われてしまった。
「さっさとメシ食って寝ますよ!」
「おー、腹減った!」
せっかく温めた料理は、今の間に少々冷めてしまったようだけど、そんな事は空腹球児は気にしない。
食卓について、いただきますの声と同時に、驚くほどのスピードで食事を掻き込む2人だった。
ところで。
阿部は、毎日顔合わしてて気付かなかったと言っていたが、むしろ気付かないのは、毎日顔を合わしているからではなかろうか。
学校も違うのに、今日もなぜかひとつ屋根の下で眠る榛名と阿部。
そしてそれを疑問に思っていない榛名と阿部。
榛名が阿部家に寄生している事を知っている秋丸は、
「榛名って家事全滅だし、隆也くんて家事出来て世話好きだし、高校出ても一緒に住んだりしちゃうかもねー」
なんて言っていた。
加えて阿部には、
「一人暮らしする時は、榛名に住所教えたら住み着かれちゃうよ」
と忠告もしているのだが、阿部自身が榛名と一緒に暮らしている自分に疑問を持っていないらしいので、その忠告は無駄になりそうだった。
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男の子は三日会わなければその間にも成長しているので、目をこすってよく見なさい、というけれど、三日とあけずに顔を合わせているので、イマイチ変化が分からなかった、というお話。