もときさん、もときさん。
必死に呼びかける声がして、それが嬉しくてくすぐったくて、でもってちょっとうざったい。

頭半分低い、小生意気な年下キャッチは、いつも何かしら口うるさくて、オレは貶されてばっかで、誉められる事なんて全然無くて、でも言いたい事を言ってくるのがキモチイイと思ってる。
リハビリ最中の、野球部のみんなの、なにか言いたそうで、でも決して言わない、そういう扱いにはウンザリしていたし、オレは人のキモチとか推し量るのなんて出来ないから、言われるとむかつくけど、その方がイイ。
オレはタカヤに好かれているなんて思って無いけど、それでも、オレの球を捕ってくれるコイツがいるから、オレはまた野球が出来るんだ、と思っていた。







寒くて、空気の湿った日だった。
天気予報なんてオレは見ないけど、出がけに傘を持っていくように言われたから、多分この後はクダリザカなんだろうと思う。
思う、じゃなくて、実際にもそれを感じているのは、さっきからチクチクとイヤな感じのする膝の違和感だ。
寒かったり雨が降ったりすると古傷が痛む、って聞いたことがあるけど、それってホントだったのかな。
なんだか、膝がおかしくて、それは痛みッてほどじゃなくて、単なる違和感、なんだけど、オレはすでに投げる気を無くしてしまっていた。

まだ80球まで球数を残している。
公式戦どころか練習試合ですらない、シニア内の紅白戦。
一応は引退した三年が、受験前のはずなのにみんな集まってて、卒業生対新チーム、みたいな、追い出しも兼ねた最後の紅白戦らしい。
正直、秋から入ったオレは、3年とは期間が短かったせいであんまり思い入れも無いんだけど、この試合に意味があるとしたら、それは、今オレの正面のキャッチャーボックスに座っているのが、二年じゃなくてまだ一年のタカヤだってコトだろうか。
今まで練習試合にちょいちょい登板してた時には、キャッチャーは三年の人で、たまに同学年のヤツで、タカヤはブルペンでオレの球を捕る壁だった。
ブルペンで肩作ってマウンドに上がる時に、どうしてコイツはオレの正面じゃなくて、ベンチの方へ歩いていくんだろうって不思議に思うくらいだった。
三年の正捕手は、体はでかいけどオレの球に逃げ腰だから、投げにくくてイライラした。
それが、今日は試合中でもちゃんとオレの前に座っている。
何でもおためしバッテリーらしい。
オレが降りると、コイツも降りる。
オレのキャッチャーだと思うと、ひどく気分がいい。

なのに、三回終わって、打者は一巡半。
打たれたヒットはゼロで、取ったアウトは三振ばかりだけど、毎回のようにフォアボールを出して、オレは無駄に球数を使ってしまって、タカヤの眉はそのたびにきゅっと不機嫌に顰められていった。

「サイン通りに投げてくださいよ!」

そういうタカヤに、うっせぇ! と怒鳴ってしまう。
うるさい、それどころじゃない。
膝が、膝がおかしいんだ。
別に痛むワケじゃないけど、少し前に陥った絶望を思いだして、暗い気分に陥った。
あれから、まだ一年も経っていない。
あの、目の前が真っ暗になるような……

「元希さん、聞いてますか!?」

呼ばれて、掴まれた左腕を反射的に振りほどいて、ハッとした。
タカヤは、オレの膝の事は知らない。
聞きかじっているかもしれないけど、オレからは何も話していない。
こいつは、オレが80球で降りる事に対してはイヤな顔をする。
そもそも、オレにいい顔見せる事なんてほとんど無いくて、じゃあなんで組んでるんだって言われたら、多分オレのボールを、口には出さないけどどこかで認めているからなんだろう。
マスク越しの目が、絶対に捕ってやる、と言う。
自分でもどこに飛ぶか分からない悪球を、体で止める。
ワイルドピッチに対しては眉根を寄せ、構えたところに、例えばど真ん中のストレートが決まったとき、そしてそれをちゃんと捕れたとき、元々垂れた目尻をいっそう垂らして、ひどく嬉しそうに笑う。
そう思ってみると、オレとタカヤの間にあるのは投げて捕る事だけで、怒るのも笑うのも、野球ばっかで、他の顔を知らなかった。
練習中は他の誰よりも長い時間を一緒に過ごすけど、終わってしまえば学校も学年も違うオレたちは、本当に野球だけの繋がりなんだろう。
斜め下、しかめっ面のキャッチャーの顔を、見るとは無しに見ながら、オレはボンヤリと、とても後ろ向きな事を考えていた。
オレのボールにしか興味のないコイツは、オレが投げれなくなったら、途端に興味を失うんだろうか。
呼びかけても返事のない、眼の合わなくなった顧問を思い出した。
オレを見ないタカヤ、が、その姿にダブる。
鉛の塊を飲んだように、腹の中が重く冷えていく。

そんなことはゆるさない。

投げられなくなんてなりたくない。
よりいっそう、強く思った。
投げられないお前は必要ない、だなんて、言われたくなかった。
野球でしか繋がってないコイツに、投げられないオレは必要ないであろうコイツに、他の誰よりも。

「オレは、降りる」

だから、一言ずつ区切るように、噛んで含めるように言った。
タカヤの顔が歪むのが見えた。
信じられないような顔をして、球数を数えなおしている。
もう少ししたら、オレを怒鳴って、詰って、それでも無理なら懇願でもするのだろうか。
オレの事はキライでも、オレの投げる球の為なら、頭を下げるだろう。
タカヤが認める、オレの投球。
野球だけのオレたちを繋ぐ、唯一の。
ひどく誇らしくて、同じくらいに忌々しい。

顔を上げたタカヤは、予想通りに、怒って詰め寄って、最後には頭を下げた。
怒ったような悲しいような、屈辱に歪んだような顔で。

そんな顔するな。それでもオレは投げないんだから。

キャップを目深に被りなおして、ベンチに座って、膝に手を置いた。
オレと一緒に交代したタカヤは、どういうワケかすぐ隣に座っている。
投げられないようにはなりたくない。
うつむいたそのつむじを見下ろしながら、そう思った。




離れていくなんて、ゆるさない。
投げられないように、なりたくない。