「これから、みんな下の名前で呼び合う事にしよう」


朝練後の部室で、着替えている最中の九人に向かって、十人目はそんな言葉を投げかけた。
彼の名は水谷文貴。
それまで雑然としていた室内は、風のない日の水面みたいに静まりかえって、そうしてしばらくの間そのままだった。










お馬鹿なことをやらかすのは、大抵は水谷だった。
べつに、田島辺りもバカな事はやらかすのだが、その方向性が違う。
さて、本日の、"フミキの提案" は、今はみんな名字呼びなのを、名前呼びにしよう、というコトだった。
どうやら、先日対戦した桐青の、同学年はおろか学年を超えて名前呼びしている様に、なにがしかのうらやましさを感じたらしい。
水谷曰く、

「だって、名前呼びのが仲良さそーじゃん」

……だそうである。

さて、そんな水谷からの提案であったが、思わず着替えの手を止めた9人の反応はまちまちだった。

まずは、肯定派の田島。
「いいな!おもしろそう!」

そして、穏健派の栄口と西広。
「確かに、名前呼びの方が仲良さそうだよねー」

どっちでもいい、と沖・巣山。
「別にどっちでもいいけど、慣れないからちょっと気恥ずかしいよな」

面倒だと言うのは泉。
「今更呼び方変えんのか?」

どうして良いか分からないらしい三橋。
「え、えと、ね、……レンレン、は…、やめてほしい、です」
取り敢えず名前呼びはいいが、従兄弟にそうされるように"レンレン"と呼ばれるのは嫌らしい。

そして、断固反対派の花井。
「なんでだよ、今まで通り、名字でいいだろ!」

最後の一人は、それまで我関せず、と一人黙々と着替えていたが、話を振られて、ようやっと振り向いてこういった。

「別にいいんじゃねーの」

その答えが予想外で誰もが目をむいたが、最後の一人、阿部は、意外にも肯定派であるらしい。
そういえば、阿部の属していたシニアチームは、名前呼びが普通ようだ。
なるほど、名前を呼ばれる事に抵抗とかは無いらしい。

「オレはシニアで名前呼びだったから慣れてるけど、んなことしたら花井が泣いちゃうぜ?」

そういった阿部は、そこで花井の方を向いてニヤリと笑った。
え、なんでなんでー? と尋ねる田島や水谷の声を背に、確信犯的に人の悪い笑みを浮かべて、一言。

「なあ、梓ちゃん?」

なになに、花井って、あずさって名前なの!? とか、あ、そーいや、オレ阿部と三橋以外の下の名前わかんねぇ! とか、口々に言い合う面々の中で、一人花井は頭を抱えていた。

(こんな名前なんてキライだ!)

そんな花井を余所に、梓ちゃん、の一言でどういうわけか俄然盛り上がった部室内は、どうやら名前呼びに賛成する方向になったらしい。
悪ノリした阿部が、

「レン、悠一郎、孝介、9組体育だから急げよ。勇人、尚治、一利、辰太郎、また昼休みにな。梓、文貴、一限小テストだからさっさと行こーぜ」

と、わざとらしくもすらすらと全員の名前を口にしたところ、おぉ、阿部スゲー! 、いや、阿部じゃなくてタカヤだっけ、なんで全員分覚えてんの? などと大騒ぎになり。
阿部曰く、

「入部届けとか整理して名簿つくったのオレだから。あの頃は主将も決まってなかったし、オレは春休みからきてたしな」

……だそうである。
本当に、意外と悪ノリしている阿部は、素早くルーズリーフに全員分の名前を書いてそれを机の上に置き、じゃーな、と後ろ手に手を振ってさっさと出て行ってしまった。
出がけに、

「梓、文貴、急げよ!」

と駄目押しのように言ったのは、自分の名前をこよなく嫌う花井主将への嫌がらせだろうか。


その後、互いに呼んだことがないために知らなかった下の名前を確認しあって、じゃあ、今日から名前呼びなー! と手を振って各々自分の教室へと吸い込まれていった。