ぬけるような、と表現するに相応しい、雲ひとつない青空。
空気はまだ冷たいが、日差しがあるためにいくらか暖かい。
暦の上では春になり、しぶとく居座っていた冬の名残も、そろそろ消え失せようかというところ。
こんないい天気なのに、グラウンドには人っ子一人いない。
西浦高校一の練習量を誇る硬式野球部ですら、今日は練習をしていなかった。
年に何日かある、部活全禁の日。
今日は、卒業式だった。
さて、卒業式と言えば、クラスで別れを惜しみ、クラスは違えど仲の良かった友人と別れを惜しみ、そして所属していた部活の後輩に、なおいっそう盛大に送り出されるものなのだが、あいにくと昨年新設の野球部には、先輩というものが存在しない。
卒業式の一週間ほど前、部室の薄い壁をつつぬけて、隣のサッカー部が卒業生を送るサプライズを企画しているのを聞いて、来年は俺たち、なんかしてもらえるんかな、と思いながら、主将の花井は少しだけ着替えの手を止めた。
新設だった野球部にも、一年生が入ってきて"後輩"ができた。
県大で、昨年優勝の桐青を破るという快挙をはたし、注目を浴びた野球部だ。
それなりに集まった新入部員は、練習は厳しいにしろ、モモカンの工夫と手腕のおかげでそれらは楽しいので、脱落者を出すことなくやってきている。
「そういや……」
花井と同じく、壁越しのサッカー部の声を聞いていたらしい泉が、独り言のようになにか言った。
「なに?」
「梅原さんと梶山さん、今年卒業だよな。なんかした方が良くねぇ?」
なるほど、援団でさんざん世話になった二人は、浜田と違って留年していないから今年卒業するはずだ。
カンカン照りの中、雨の降る中、と、ひどい天候でもいつも応援してくれた、援団の中心格の二人。
団長の浜田は、来年一緒に卒業するとしても、彼らに礼のひとつも言わずに卒業させるなんてありえない。
いーね、なんかしよっか! と、あちこちから声があがる。
額を付き合わせて相談して、一年生達にも伝達して。
今まで、関係ないと思っていた卒業式に向けて、急激に意識が向いていった。
ひとつ年上の人が、高校を卒業する。
相談する輪の中で、阿部だけは、別の卒業生のことを考えていた。
その日の夜、帰り道の途中で。
阿部は、街灯のかすれた光の下に、よく知った人影を見つけた。
「元希さん……」
その左腕で、念願のプロ入りを決めた、シニアの頃の先輩。
高校の野球部を引退してからも減ることのなかった、いや、いっそう増えた練習量に、体は引き締まって力強さを感じさせる。
よ、と手を挙げる榛名の顔は、出会った頃と比べると別人のように落ち着いている。
やっぱりこの道だったな、といたずらっぽく笑う顔は、出会った頃のままに子供っぽい。
久しぶりと言うには少々頻繁に会っているが、榛名元希という人は、いつもこう、唐突なのだった。
帰り道で待ってたり、家の前で待ってたり、突然家に押し掛けて来たり。
ひどい時には、自室の扉を開けると、勝手にベッドの上で寝そべっていることもあった。
母親が見つけて招き入れたのだろうか。
今日も彼が待っていた道は、確かに阿部が毎日通る通学路だったが、すでに通り過ぎた後だったり、その日に限って違う道を通って帰ったりしていたらどうするつもりだったのだろう。
阿部は前に一度聞いてみたことがあるのだが、どうやらすれ違いになったことは一度としてないらしいから面白い。
いっそ、榛名の執念と言うべきだろうか。
機嫌がいい時の笑顔で、榛名が阿部に歩み寄ってきた。
コートの首元にマフラーをぐるぐる巻にして、やっぱり夜は冷えるよなー、なんていう榛名の、吐く息が白い。
中身がなんだかは分からない紙袋を持っている右手は、暖かそうな手袋に包まれていた。
夜になって急激に冷え込んでいる。
日中に日差しで暖められた空気が、雲が無いぶん、逃げてしまったのだろう。
放射冷却ですね、と言ったら、榛名は、なにそれ、と首をかしげた。
「寒くなった、ってことです。冷えるから、どっか入りましょうか」
「よくわかんねぇけど、とにかく寒いよな。タカヤんち、行ってもいい?」
そう言って、阿部の自転車の後ろに跨って、よろしくなー、と言った。
自転車の2ケツは、昔から阿部がこぐものと決まっていた。特に冬は、なおさらだ。
阿部は、仕方ないですね、なんて口では言いながら、笑って自転車をこぎ出した。
「タカヤー、お前、もちっとでかくなってくれねぇと、風が遮られねぇんだけど」
「うっさいですよ、筋肉だるま!」
軽口を言い合いながら、走る自転車。
二人で笑いながら、家路を辿った。
榛名が突然やってくるのも、そうして阿部の部屋に泊まっていくのも慣れっこになっている阿部家では、榛名はごく普通に夕飯を食べて、これまた普通に風呂を借りて、そうして今は阿部の部屋のベッドの上で長々と寝そべっていた。
トントンと軽い足音がして、風呂に入っていた阿部があがってくる。
阿部は、髪の毛を拭きながらベッドの縁に座って、元希さんでかいから、ベッドが窮屈そうだな、なんてことを考えていた。
「なータカヤ」
「なんスか?」
「それ開けてみ。多分サイズ合うと思うんだけど」
それ、の部分で、床に放り出してあった紙袋を指し示して、榛名は言った。
サイズ?と紙袋をのぞき込むと、そこにはひとそろいの制服が入っている。
「……なんスか、これ」
「ウチのガッコの制服」
「そんなん見りゃ分かりますよ。で、なんで持ってきたんですか?」
今の榛名にはきつそうなサイズの制服だが、彼が入学した当初に着ていたものだろうか。
高校に入ってから15センチは身長が伸びた榛名は、一度制服を作り直している。
「お前さー、それ着てオレの卒業式出ろよ」
「は?」
「だって、お前んトコ先輩いねぇから、卒業式の日とかヒマだろ?」
相変わらず人のベッドに我が物顔で寝そべったままで、そんなことを言う。
彼の言動には慣れている阿部も、これにはさすがに驚いて言葉を失ってしまった。
(サプライズって普通、卒業生がされるもんだろ。他校の二年がなんでそんなビックリな目にあってんだよ……)
「な、いいだろ?」
なーなー、と榛名。
寝ころんでいるために、阿部よりも下の位置から見上げてくる。
それが尻尾をパタパタ振っている大型犬に見えて、いつもはつい我が儘を許してしまう阿部だったが。
「ダメですよ、オレ自分トコの卒業式に行くから」
「えー! だってお前、先輩いねぇだろ」
「援団で世話になった人が卒業するんですよ。大体……」
そこで、阿部は一度言葉を切った。
体を捻って榛名を見ていたのを、体ごと向き直って、ちゃんと正面に向かい合った。
「大体、オレはアンタと同じ制服は着れないんです。もし行くとしても、その制服は着ないよ」
「………そっか」
途端にシュンとする榛名。
こういう、投げる球と同じで感情までもストレートなところが、阿部は好きだった。
つい、行ってあげますよと言いそうになる。
しかし。
「送り出してくれる後輩はちゃんといるでしょう?」
その言葉に、今度は榛名がむくりと起きあがって、阿部に対面して座った。
お互い同じ高さのところに座ると、どうしても目線の高さに差が生じる。
榛名と阿部の身長の差は、10センチほどだった。
「いるにはいるんだけど、なんかこう……」
「なんか、なんです?」
「こう、後輩っていうと、真っ先に浮かぶのはタカヤなんだよな」
あんまり先輩後輩っぽくないのに、なんでだろーな。
不思議そうに、気まずそうに、首をかしげる。
一人で何かを確認するようになんどか頷いて、言葉を続けた。
「オレ、タカヤに祝って欲しいんだよな。シニアの退団の時はアレだったから、今度はちゃんと卒業を祝って、送り出して欲しいんだ」
「………………。」
「でもって、タカヤが卒業の時には、キャンプ中でも遠征中でも、オープン戦でも、西浦に駆けつけるから、さ」
ダメか? とのぞき込んでくる、榛名。
(ずるいなぁ。もときさん、そんないいかた、ずるい)
「でも、オレ、西浦の卒業式行くってもう決まってるし……」
阿部が困ったように目をそらせば、のぞき込んでいた気配がフッと薄れた。
頭にクシャクシャと髪をかき混ぜられる感触がして、そっか、仕方ないな、と声が聞こえた。
残念そうな顔の榛名が、吹っ切るように頭を振っている。
「じゃあ、寝るか」
そう言った時の榛名は、もう普通の顔をしていた。
客用の布団を敷かないために、男が二人で寝るには狭いベッドで、身を寄せ合って眠る。
雑魚寝は慣れたもので、ベッドから落ちることも、寝苦しいこともない。
すぐに聞こえる榛名の寝息のなか、阿部はなかなか寝付けずにいた。
自分が榛名を送り出すというのは、本格的に住む場所が違ってくるということだろうか。
榛名は、阿部の卒業式には駆けつけると言っていたが、それもつまり、送り出される、ということだろう。
そう考えると、憂鬱で寝苦しくなった。
卒業式の日、武蔵野第一は、例年にない騒ぎになっていた。
元々はサッカーが有名な学校だが、今年注目を集めているのは彼らではない。
野球部の、エース。
先だってのドラフトで、見事プロ入りを決めた榛名元希が、この騒ぎの主役だった。
講堂から出てきた卒業生に、在校生や父兄が駆け寄る。
あまつさえ、テレビカメラまで入っている騒ぎに、基本的に人混みの嫌いな榛名は、早々に校舎の間をすり抜けて人気のないところに逃げ出していた。
(野球部には、後で顔を出そう)
同輩後輩とも言葉を交わしたいが、今はそれどころじゃなさそうだ、と、よく授業をサボって昼寝した裏庭の梅の木の下で寝ころんだ。
……と、土を踏む音がして、誰かが近づいてくる。
逃げるべきかな、面倒くさい。
そう思ったが、本当に面倒だったので無視してやろうかと思った、そのとき。
「元希さん、ご卒業おめでとうございます」
「っ、タカヤ!?」
ガバッと跳ね起きたその先にいたのは、学ランに少し息を弾ませた阿部だった。
弾んだ呼吸のためか、少し頬を紅潮させている。
「なん、で……、来れないって言って……」
「西浦の卒業式終わって、ソッコーで来たんですよ」
チャリで飛ばして、信号も全無視です。
そう言った阿部の、少しふてくされた顔が、嬉しくてたまらない。
榛名は、笑いながら阿部の手を掴んで、自分の方に引き寄せた。
「こんまま、帰っちまいたいなー」
「ダメですよ。秋丸さんはじめ野球部のみなさんにさんざん迷惑かけたんだから、ちゃんとお礼言わないと」
「……迷惑ってなに」
「自覚無いんですか」
「………無いことも、無い……」
よかった、自覚無いっていったら、秋丸さんに変わって殴ってやろうと思ってました。
阿部は普段の彼からするとビックリするくらいの笑顔でそう言ったが、彼の全開の笑顔は、どういうワケか周囲を不安に陥れるので、このときの榛名も少しばかり背筋に冷たい汗を感じてしまった。
立ち上がった榛名は、お前、終わるまで待っとけよー、と言いながら、前庭の方へ歩いていった。
阿部は少しばかり寂しさを感じたが、ため息をひとつついてそれを頭から追い払おうと、かぶりを振った。
……と、太陽が翳った。
顔を上げると、そこには去ったはずの榛名が立っている。
「言い忘れたんだけどな」
「……なんですか?」
「明日オレんち誰もいないから、晩飯タカヤんちに頼んでイイ?」
「いいから、さっさと野球部の人んとこに行ってください!」
今度こそ榛名が立ち去った後、自分の感じた憂鬱が馬鹿らしくなって、阿部は思わず吹き出した。
雲ひとつ無く晴れ渡った空に、もう一度、ご卒業おめでとうございます、と呟いた。
. . .
「なー、阿部は?」
「自己新を更新しそうなくらいにチャリを飛ばして、すっとんで行ったぞ」
「今日、武蔵野も卒業式だからね」
「ハルナ! アイツ卒業か!!」
「ドラフトでプロ入り、ってことは、武蔵野、すっげぇ騒ぎなんじゃねーの」
「つか、来年、ウチの卒業式に来そうだよね……」
「……阿部か」
「阿部だな」
「……凄い騒ぎになりそうだな」
今から胃が痛い花井キャプテンだった。
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卒業式、校門で待ってるとかは有りかと思っていたら、武蔵野の制服着て堂々と式に出席しろ、と言われて、さすがにそれはナシだろう、と思うタカヤ、というネタだったのですが……。
高校の卒業式って、在校生は基本自由参加ですよね?
私学って公立と比べたらマンモスだし、バレないのはバレないだろうけど。