俳句
寒椿「か」のつくものに勧工場 攝津幸彦
この方法を使うと俳句の大量生産が可能である。「あ」から始めて「ん」まで作れば結構な数になる。因果関係を断ち切るための仕掛けであり、取り合わせの練習になりそうだ。ただ全ての句が安っぽい句になってしまいそうである。明治の末にもてはやされた勧工場も、その商品の安っぽさから百貨店に代わっていったということだ。(2008・2・1)
『陸々集』
白菜がごろんと二つ考える 薮ノ内君代
数センチの積雪。気温が低いからなかなか雪が溶けない。子供の頃は雪が降るとよく雀落としで鳥を捕まえたものだ。ツグミ、ヒヨドリ、スズメなど。なんとか飼おうと思って餌をやるのだが、なかなか食べてくれなかった。食べようと思ったわけではない。今年は雪が降ってもヒヨドリの声がしない。他の鳥もあまり見ない気がする。(2008・1・18)
『風のなぎさ』
漂へる手袋のある運河かな 高野素十
こんなのありかよ、と思う。しかし月並みから抜け出すことがゴールであるならば、何であっても関係ない。(2008・1・16)
『昭和文学全集35昭和詩歌集』(小学館)
からだはどこかで言葉に触れている、でもいったいからだは言葉を求めているのでしょうか、それとも言葉から逃れようとしているのでしょうか? 谷川俊太郎栗
みんな言葉から逃れたくて、音楽をやったり、野球やったり、阪神を応援したり、俳句やったりしてるんだろう。(2007・12・18)
『コカコーラ・レッスン』(質問集続より)
いざさらば甘栗むかん雪夜かな 芥川龍之介
ちょっと冬らしくなってきたのだけれど、丹波地方はよく晴れていて雪は降りそうにない。車のタイヤは冬用にしたのにね。雪の句もたくさん作りたいのにね。クリスマスも近づいてきて、リクエストもあるので明日は久しぶりにケーキを焼く予定。(2007・12・16)
『芥川龍之介句集 我鬼全句』
小指からひとさし指へ冬の雷 藤田亜未
何かが小指から人差し指へ移っていったのか、移したのか。あるいはそれは冬の雷そのものなのか。いずれにしてもコンパクトにまとまった俳句。 明日は愛車を車検に出す。ついでにスタッドレスタイヤに履き替える予定。(2007・12・11)
『海鳴り』
冬の雨われら無蓋に生まれけり 仁藤さくら
甕と壺の違いは何か?という話になった。私はなんとなく口が大きいのが甕で小さくなったものが壺だと思っていた。そうするとある陶芸家が蓋のあるのが甕で無いのが壺だと言った。甕は水などを汲んでおくもので、上を向いているイメージで、それには蓋がある。壺はそうでなくてもよく、蓋もないと言うのだ。作り手の目線である。実際は口と、その本体のどこかの部分との比率で決まるらしい。 (2007・11・16)
『光の伽藍』
馬が亡びる床屋の鏡帰り花 進藤三千代
三田に住んで昨年亡くなった東山嘉事の追悼展に行ってきた。三田を中心に、彼のアトリエ、ギャラリー、カフェなど4ヶ所で展示されたものを見ていると、楽しくもあり悲しくもあり。ひとつ思ったことはこの人は生きていて楽しかったのだろうか、ということである。奥さんに愛され、周りの人に愛され、幸せそうではあるが、多くの作品を見れば見るほど、苦悩する嘉事さんが見えてきた。 (2007・11・14)
『玄鳥No.51』
草もみぢこの世のはてのおままごと 浅海真弓
先月より三田の「けやき」というギャラリーで句会を始めた。ギャラリーだけにものをつくる人も、そうでない人も集まり、楽しい句会となった。私を除く全員が句会が初めてというメンバーであり、すごく新鮮である。
浅海さんは陶芸家であり、不思議な絵を描く人で、句もまた不思議。 (2007・11・13)
「けやき句会」より
冬浅し部長が泣いてどうするの 塩見恵介
もう長い間泣いていない。映画を見ても本を読んでも泣いたことがない。でも最近スポーツやドラマのちょっとしたところで思わず涙が出そうになることがある。ああ、号泣してみたい。 (2007・11・8)
『泉こぽ』
胡桃割るプエルト・リコがいま朝に 塩見恵介
小学校の裏を流れる谷川の岸に一本の胡桃の木があった。秋になると当たり前のように胡桃をたくさん実らせて、やがてはそれらを川へ落すのである。落ちた胡桃の外側は腐って黒くなり、その中から小さめの、硬い胡桃が出てくるわけである。子供のころその胡桃を拾って、食べたたものである。もっともそんなことをしていたあのころも、やはり地球の裏側のプエルト・リコでは朝をむかえていたのか。ちなみに時差は13時間。 (2007・10・17)
『泉こぽ』
アフリカに人は始まる盆踊り 寺田良治
友人のアメリカ人は盆踊りを"Bon Dance"と呼ぶ。当たり前のことなのだが、初めて聞いた時には盆踊りとダンスの間にはずいぶん距離があるように思えた。この句は更に遠いとも言えるアフリカへと飛んでいるのだが、すごく盆踊りと近い気がする。踊り始めれば全て同じところ、つまり人間の始まりへ戻れるのだろうか。わが町のデカンショ祭は15、16日に催される。 (2007・8・15)
『ぷらんくとん』
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