製造工程



*堺の標準的な和包丁の造り方です

素材

地金--炭素量0.1%以下の極軟鋼

刃金--炭素量0.8%以上の炭素鋼


鍛造工程

1) 刃金切り   包丁の形、寸法に応じた大きさに鋼を切り取る

2) 仮り付け   地金の上に刃金をのせ、約1000℃に加熱、鎚打ちを加え鍛接する

3) 半 形    鍛接したものを再加熱し鎚打ちにて大体の形を作り切り落とす

4) 中子取り   柄の中に入る部分を作る

5) 先延ばし   全体を所定の形態に打ち延ばす(焼き鈍し、又は焼き均しをして常温迄冷却する)

・・・・・・・・・・・以上、熱間工程

6) 荒打ち    表面の酸化膜を除去したものをハンマーで叩き刃金面を平滑にする

7) 裏梳き    刃金面を研削する

8) 均し打ち   平滑な鎚で叩き、裏の曲面を作り又、捩れ等を調整する

9) 切断整形   ゲージに合わせ、切断し周囲を整形する

10) 仕上げ    周囲をグラインダー、ヤスリ等で削り仕上げる。所定の刻印を打つ

11) 熱処理    800℃位に加熱した上、水で急冷し焼入れをする。用途に応じた温度で焼き戻しをする(歪み直しをして鍛造工程終了)


刃付け工程

1) 荒研ぎ    回転水砥石で刃の部分を薄くする

2) 本研ぎ    回転水砥石で全体を研磨する(各工程の間に歪み直しをし、絶えず真っすぐにする)

3) 仕上げ研ぎ    バフで全体を磨き化粧を施した後、仕上げ砥石で刃をつける(仕上げには.ぼかし.改良.かすみ.等の種類がある)

4) 柄付け    銘切りをして完成(主に問屋がする)


以上が堺打刃物の製造工程の概略です。細分すればもっと多くの工程があります。

 



堺刃物の歴史


堺の町でいつ頃から刃物が作られたか?といえば、堺の町が出来た頃でしょう。
人々の住む集落には大抵、鍛冶屋があるものですが、大方はその地域の需要を賄う為だけの数 (地域に1.2軒程度)で足りたはずです。
多くの職人を擁し産地を形成し他の地域にまで供給するにはそれなりの理由が要ります。

堺の立地条件として 消費地が近く交通の便が良い、ということが挙げられます。
堺が町を形成した室町期は京都に次ぐ都市であり、陸路は官道1号と云われる竹ノ内街道を始め、伊勢.熊野.紀州.高野.等の諸道が通っていました。
また海路は南蛮貿易以前から開けていた、国内有数の港町であります。
 
そして原材料の供給が容易であり加工技術がある、という点も条件のひとつと言えます。
室町時代、堺の守護大名は 周防・長門・石見 等を領有する大内氏であり山陰地方の鉄鋼材料の入手に恵まれていました。
又古くから、現堺市の東の郊外には 丹南鋳物師、河内鋳物師 が居り、室町期(応永1394−)に加賀の国から移住した刀鍛冶 文殊四郎一派が山の上鍛冶の祖として包丁類を作り始めました。  堺刃物のはじまりは概略上の様になりますが、現在の刃物鍛冶のルーツはつぎの3つがあります。

1.鉄砲

 天文12年(1543)種子島に漂着した船のポルトガル人より、2挺の鉄砲を領主の種子島時堯が買い入れ、それを八板金兵衛が模作したのが国産銃の始まりです。
さて、堺鉄砲の始まりには二説あります。
 一つは種子島に鉄砲が入った情報を入手した 紀州根来寺杉坊が、津田監物を遣わし一挺を入手し、根来に持ち帰ったそれを芝辻清右衛門が模造し、堺で製造を始めたと云う説。
もう一つは、堺の商人 橘屋又三郎が種子島に行き、砲術を習得し鉄砲を持ち帰り、生産を始めたと云うものです。
いずれにせよ、実物を見れば量産出来るだけの、鉄工技術と設備が当時の堺に在ったと云うことです。
 時は戦国時代でもあり新兵器の普及は早く、種子島に伝来した時(1543年)から6年後の1549年には、
薩摩の島津氏が合戦に使用し、1570年頃 石山本願寺に於いて根来衆は3000挺を持っていた記録があります。
江戸時代、最盛期には31軒あった堺の鉄砲鍛冶屋敷も、享和元年(1801)には22軒、文政3年(1820)15軒と減少し明治初期には終焉を迎えました。その後の鉄砲鍛冶は、刃物鍛冶その他の産業(自転車等)に転じたのでした。

2.煙草包丁

 これの起こりにも二説あります。
天正年間(1573−1592)に、剃刀鍛冶の本手長兵衛が始めたと云う説と、元刀鍛冶であった梅ヶ枝七郎右衛門(1661没)が始めたと云う説です。
どちらとも決めがたいのですが、天正から万治の時代に始まったようではあります。
 煙草の伝来が鉄砲と同じ天文12年頃であり、貿易港の堺、長崎辺りを経て輸入されたものと思われます。
慶長10年(1605)には、長崎において煙草の葉が栽培され、喫煙人口が増大しました。
それと共に煙草の葉を刻む包丁も大量に必要となり、鉄工産業の発達した堺で作り始めたと思われます。
 堺煙草包丁は元禄時代から発達し、元禄12年(1699)には鍛冶仲間は30軒との記録があります。
堺製煙草包丁の評判が良く、偽物が出回る様になり、その取り締まりを訴えた結果、享保15年(1730)煙草包丁鍛冶仲間株31軒を制定し、煙草包丁を幕府の専売品とし「堺極」の刻印を入れる様にしました。
この事が全国に堺刃物を流通させる源となったのでした。
 嘉永4年(1851)煙草包丁鍛冶仲間株は36軒を最盛期とし、明治末期まで煙草包丁鍛冶は存続するが、機械化と共に消滅。
大方の職人は料理包丁に転身したのでした。

3.山ノ上鍛冶(刀)
 現在の堺刃物の本流です。室町時代に加賀の国から移住した刀工、文殊四郎光正(文明10年〈1478〉在銘刀あり)を祖とした包丁鍛冶集団のことです。現在の堺市宿屋町東、大町東辺りを古くは山ノ上と云い、ここで料理包丁、剃刀、小刀、鋏、鎌、大工道具、等を作っていました。




種類と用途



1.和包丁

軟らかい地金に鋼を付けた物が主。全鋼の物もあります。
◎ 薄刃包丁→主として野菜類に用います。切る、きざむ、剥く、割る、そぐ、等の使い方をします。
◎ 出刃包丁→主として魚、鳥、の下ごしらえに用います。魚の三枚下ろし、鳥の解体等、骨のあるものを切ったり叩いたりします。
◎ 刺身包丁→骨の無い上身、極く細い小骨のある魚等の刺し身を作る場合に用います。
  又、小魚の三枚下ろし、牛肉、鳥の笹身等を切る場合にも使用されます。
◎ 汎用包丁→文化型、三徳型等のことで薄刃、刺身に用いますが出刃の用途には適しません。
◎ 特殊包丁→一目的専用の刃物で主として業務用。鱧の骨きり、鰻裂き、寿司切り、鮪切り、けん剥き等があります。

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2.洋包丁

全体が鋼又はステンレスで出来ています。
◎ 牛刀 →肉切り用で18cm〜36cm位の長さがあります。
◎ ペティナイフ→牛刀型の小形(12〜15cm)のもので皮剥きや細工に用います。
◎ 特殊洋包丁→冷凍切り、チーズ切り、サーモンスライス等があげられます。
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3.中華包丁

幅広の両刃包丁
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4.その他

◎ 料理用鋏、鰹節削り、皮剥き、栗皮剥き鋏、パン切り等






堺刃物の現状

ここでは現在の業界の状況を紹介します

まず業界の組織ですが、堺刃物は昔から分業していて業種毎に協同組合があります。

鍛冶屋 堺刃物工業協同組合 32
研ぎ屋 堺刃物協同組合 68
問屋 堺利器卸協同組合 64
堺利器協同組合 12
堺刃物木柄組合

以上の5組合で組織する堺刃物商工業協同組合連合会が、業界を代表して活動しています。


現在の主な事業

●伝統的工芸品産業振興事業
堺打刃物刃は、昭和57年に通産省より伝統的工芸品の指定を受けました。
伝統的工芸品の指定要件は以下の通り。

○100年以上の歴史をもち一定の地域で産地を形成していること。
○製造過程の主要部分が手工業的、 伝統的技術又は技法によって製造された物。
○伝統的に使用されてきた原材料を用いる。
○主として日常生活の用に供される物。

以上の要件を全て満たし、堺打刃物の振興事業として次のような事をしています。

A.伝統工芸士認定事業

これは通産大臣が認定した伝産協会の事業であり、
伝統的工芸品の製造に直接従事し、実務経験が12年以上の者が受験出来ます。
試験は実技と知識試験があり、合格すれば伝統工芸士の称号があたえられます。
現在、堺打刃物伝統工芸士は30名です。

B,伝統的工芸品の表示事業

指定伝統的工芸品であることを証明する証紙(伝産シールと云う)を製品に貼付する事業で、
検査に合格した製品のみに与えられる証紙です。

C,後継者育成事業

堺打刃物の伝統的な技術を伝承することを主軸に、伝統工芸士が講師となり、
若年層を対象に主として実技を指導しています。


その他、堺刃物伝統産業会館(堺HAMONOミュージアム)を活用し、広く皆様に
堺刃物のことを知っていただきたいと願っております。



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