佐伯屋
プレジデントの憂鬱
第1回・平成15年5月25日
会長、聖地に降り立つ
「サッカーファンの皆さん、こんばんは。本日お送りしますのは、92サッカー・ヨーロッパ選手権大会のグループリーグB組の第1戦、イングランド対スコットランド戦でございます。解説は加護修さんです。よろしくお願いします。」
「よろしくどうぞ・・・。」
「それにしても加護さん、昨日の開幕ゲームとなったディフェンディング・チャンピオン、オランダ対ユーゴスラビア戦は、大雨の中しかも激しい点の取り合いとなりましたが、今日は一転して、昼間のマンチェスターのオールドトラフォード・スタジアムは快晴に恵まれました・・・」

  ヨーロッパの島国イギリスから冷たいブラウン管を通して極東アジアの島国日本にこの模様が伝えられたのは丁度深夜である。プロ・サッカーJリーグ開幕を1年先に控え、またアジアの各大会での日本代表の好調ぶりで、日本ではサッカーに俄然注目が集まりつつあったが、本場ヨーロッパから発信される情報はまだまだ少ない時代。日本の古くからの真のサッカーファンは寝ぼけ眼をこすって、テレビにかじりつき、熱い夜を過ごしていた。

 だが世の中には例外的なファンもいた。例外的なファンといっても二人だけだが、彼らは何と、情報の発信地イングランドは「赤い悪魔」ことマンチェスター・ユナイテッドの聖地、オールドトラフォードスタジアムの、しかもVIP席にいたのである。
「どいつだ?」
「いえ、まだ出てきていません。」

 試合前のアップのために、可動式のビニールの屋根のゲートからイングランド代表の面々が続々と軽い駆け足で緑の芝のピッチに姿を現した。試合30分前のアップというのに、3万5000人収容の客席はすでに超満員と化しており、観客の大きな声援が重低音となってスタジアムをこだましていた。

「おお、リネカーに、プラットに、ガスコインだ・・・。まだまだいるぞ!」
 イングランド代表のファンにとってはお馴染みのメンツに、ケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースを彷彿とさせる白髪に黒縁の眼鏡、そして大きな大きな太鼓腹を抱える老紳士は興奮を抑えきれずに立ち上がり、トランペットが欲しい黒人の少年の如く瞳を輝かせていた。
 しかし隣に座る、これまた眼鏡の(こちらは丸いレンズに縁なしだが)頭が禿げ上がった男が、腕と足を組んだまま、不敵な笑みを浮かべ口を開いた。
「会長、いくら何でも彼らは獲れませんよ。10億円以上は下りますまい。勿論、あくまで「現在」の話であって、将来はわかりませんが。しかし、今日、私が会長に観ていただきたい選手は、間違いなくリネカー、プラット、ガスコインなど現在のスター選手よりも器は上だと断言しますよ。」
 ところが、有名選手達の準備運動を観るのに夢中の「会長」を見て、「話を聞いていないな」と、男は半ば呆れた。
「ほう、金子がそこまで言うなら楽しみだ。して、それは誰だ?」
「おかしいな。おっ、出てきました。」
「あいつが・・・?ずいぶん小さいな。」
 たった一人だけ遅れて出てくる選手がいた。状況に気付いたのか、一目散に先輩選手達が集まる輪の中に入っていった。

 この日本から来た例外的なファン二人、実はサッカーチームの関係者なのである。まるでカーネルサンダースの置物のような体形と黒ぶち眼鏡をかけた紳士の名を、鈴木紀一郎といった。彼は一サッカーファンというには存在が大きすぎた。というのも、鈴木紀一郎は、全世界のサッカーファンが憧れるサッカーチームの会長なのだ。しかも、選手を育てては売り、その金を強化費用に充て、2部降格を争っているようなヨーロッパ各国のリーグにありがちな地方弱小チームの会長ではない。アズーリ神戸という93年から開幕するJリーグに参入を決めている、潤沢な資金で有力選手をかき集めることのできる金持ちビッグクラブの会長なのである。その会長が一体何しにわざわざイギリスにやってきたのか。それはつまり、93年の開幕を睨んで、チームの目玉となる有力選手を物色するために、92ヨーロッパ選手権大会の舞台を訪れたのだ。

「おい、坊主、もっとリラックスしろや・・・。試合はまだ始まっていないんだぞ」
「もう、悪戯はやめてくださいよ。スチュアートさん」
 長身選手に髪型をくしゃくしゃにされた少年のような選手は、手串で髪を直していた。
「おお、直しておけ、直しておけ。テレビには映るだろうが、今日はお前の出番はないだろうからな。」
 スチュアートと呼ばれた選手は、ガハハハと豪快に笑って円陣に加わっていった。

「サッカーは、足下の技術のスポーツ。背の高さは関係ありません。ですが、ああ見えて身長は173センチ。日本人なら平均ぐらいでしょう。周りがデカすぎるんですよ。しかもイングランドのグリーム・スタイラー監督は長身で当たりの強い選手が好みで、それが大型傾向に拍車をかけています。」
「それは確かにそうだが。あれは、まるで少年じゃないか。」
「ええ、少年ですよ・・・」
 金子は黒く薄い形状の鞄から青色のファイルを取り出した。書類が何重にも挟まっている。お世辞にもあまり綺麗な整理の仕方とは言えない。しかし各選手の顔写真に、契約情報や生年月日、プレースタイルなど何から何までワープロによって書かれた金子の大切な商売道具である。
「ありました。1974年生まれですから、まだ18歳と3カ月。」
「何・・・?」
 会長、鈴木の顔は急に険しくなった。
「だが、金子よ。18歳の子供がこの激しい当たりに耐えられるのか?」
「ええ。Jリーグでなら大丈夫でしょう。」
「Jリーグのことではなく、この試合でだ。」
 だが、鈴木の心配もこの後、杞憂になることはまだ知らなかった。

〈次回へ続く〉

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