佐伯屋
意味なし芳一
第5回・平成14年2月2日
アイドルとは何か。佐伯屋流『アイドル論』前編

「お前が言うな!」
  ところで、道徳を語るというのは実に気恥ずかしいものである。
  以前、テレビ朝日の『探偵ナイトスクープ』で、私と同年齢の学生(男)が風俗の乱れたコギャルやオバハンに向かって道徳を宣いたいという依頼があった。関西圏では常に視聴率20%代を維持する番組だけに記憶されている方もいるかもしれない。依頼者を含む若者二人が大阪・心斎橋アメリカ村のコギャルやスーパーの買い物袋さげているオバハンに対して意気揚々と論争を挑むのだが、彼らには全く説得力がなかった。コギャルには若者二人のファッションのダサさを指摘されて不毛な悪口の応酬となり、オバハンにはのらりくらりとかわされ全然相手にされない。
  もっとも、彼らの言うことは頭では誰でも理解はできるはずなのだ。コギャル、オバハン達も「育ててもらった親に感謝しろ」とか「もっと上品に振る舞え」とか、よくよく考えれば頷けるとは思うのだが、彼らが言うと説得力が無くなってしまう。なぜか。ディベート技術の問題ではないだろう。口下手でも、たった一言でも、言う人が言えば一人どころか何千何万の人々を動かすことはある。となると、やはり彼らが道徳を宣うだけの資格に欠けていたということではないか。私だって、コイツらに道徳語りをされれば「お前が言うな!」と言い返すだろう。
  道徳を語って説得力を得るには「お前が言うな!」と言い返されないだけの生活を送っていなければならない。しかし、そんな聖人君子は今も昔もいるはずがない。聖人君子しか道徳を言う資格がないとすれば、子供への躾のような教育などできないことになってしまう。だから、一般人が道徳を語るなら、せめて自分の不道徳さを自覚して、建前として口から出てくる道徳と、本音として心にしまうべき不道徳との間の葛藤に悩みながら、語らなければならないのである。
 よって今回は自らの不道徳さを自覚するために、あえて下品なネタでお送りしたい。

アイドルとは偶像である
  アイドルとは何か。気張った考えは何も必要ない。作家、評論家、ジャーナリストなどと同様、名乗ればなれる。資格はいらない。芸能事務所に属しなくても、マスコミに紹介されなくとも、顔は山田花子でもいい。「私、アイドルやってます」と言えば。ただ、それでは食べていけないから芸能事務所に属し、マスコミに紹介されなければならないだけのことだ。顔も山田花子よりは良かった方が断然良い。しかし、これではなぜ「アイドル」という言葉を使うかという説明にはならない。
  英語のidolには「偶像」「崇拝される者」の二つの訳が当てられていて、芸能人のアイドルタレントの方は普通に考えるなら後者の方だが、「偶像」と言うのもあながち間違いではあるまい。
  以前、フジテレビの『ハンマープライス』で誰か名前は忘れたがあるアイドルタレントの唇の鋳型で作ったグミキャンディを数10万で落札した男が、その後、職場で「何て無駄なことに金を使っているのだ」と叱責を受け、終いには苛められたという。そして、そのアイドルファンの男はそれを理由に泣く泣く「ハンプラ」の再オークションにかけて手放した。
  キリスト教やイスラム教において、偶像崇拝は真の信仰ではないとして排撃されてきた。それはアイドルファンも同じなのだ。小学生くらいの少年少女の例えばモーニング娘。ファンなら周囲の大人達も可愛いものだと温かい目で見てくれる。中学から大学生ぐらいまでのアイドルファンでもオタクでなければ共通の話題として場を盛り上げるのによい。ノリの良い学校のクラブなどでは自己紹介の時に自分の好きなアイドルを言うのは必須である。しかし、ヤフーオークションでグッズの収集に血道をあげているようなオタクともなれば世間の風当たりは冷たい。会社では若い女性社員達は給湯室などで「キモチワルー」と囁いていることだろう。上司も「他にやるべきことはいくらでもあるだろう」と思っている。世間一般から見れば、オタク的アイドルファンはまさに排撃すべき偶像崇拝なのである。
  アイドルとは広義には芸能人だけに限らず、八百屋でも魚屋でも人々の崇拝を集めていればアイドルになりうるが、ここでは一般的な女性芸能人に絞って述べていくことにしたい。

恋愛は本来たかが文化である。
  世間一般の人は狂信的なアイドルファンに対してこう思っている。「どうして彼女をつくらないんだ?」と。しかし、これはアイドルファンの心理をつくづくわかっていない強者の発言である。
  世の中では誰もが自由恋愛をして結婚し、家族をつくるはずだと疑いなく思っている。しかし恋愛は人間の本能(教えなくとも予め備わっている能力)ではない。あくまでSEXという種の保存に必要な生殖行為と性欲処理そして自己存在確認に行き着くまでの儀式として人間が作り上げた文化である。恋愛文化の成立以前は今の価値観で言うところの強姦が当然だったのではないだろうか。そこは自分で自分を守るしかない弱肉強食の世界であり、腕力の強い男しか女にありつけない。そこで大多数の弱者達は腕力に頼らない方法で女にありつく方法を考えた。それが恋愛や婚姻といった文化だったのだ。
  人間には文化の共有という本能はあっても、恋愛という本能はない。その証拠に、かつて日本では婚姻は多くの場合、自由恋愛ではなく家が決めていた。しかし、それで不都合があったかと言えばそうでもない。恋愛抜きでも生殖行為は成立し家族は繁栄する。なぜなら、同じ愛情でも恋人に対する愛(性愛)と子供が産まれてからの愛(家族愛)では向いている方向が全然違うからだ。恋愛時代のSEXはたまにしか会えないこともあり新鮮だが、結婚して常にいっしょで相手のだらしない部分を見てしまえば性愛は萎えてしまう。30代のセックスレスの夫婦が増えていると雑誌などで危機感が煽られているが、それで普通ではないのか。でも性愛が萎えたからといって関係を終わらせることはない。なぜなら家族愛という別の愛情が芽生えているからだ。ただ性愛から家族愛へと上手く移行できればいいのだが、中にはそうでない人もいて、我慢できず浮気、不倫に走り家族を崩壊させることもある。それは性愛が突出し、家族愛が欠如しているからだ。自由恋愛の有無は幸福な家族生活とは何の関係もない。だから恋愛は本来たかが文化なのだ。なのにマスメディアでの恋愛のクローズアップのされ方はケタ違いである。ポップスも小説もテレビ番組も映画も漫画も出てくる物ほとんど全てが恋愛賛歌だ。脅迫と言っても過言ではない。

正統の恋愛、異端の偶像崇拝
  とはいっても、今や誰もが恋愛文化を前提とし、その中へ入っていって生きざるを得ない。恋愛信仰は圧倒的勢力である。しかし、どこの集団でもそうだが勝ち組と負け組がいる。恋愛文化においてはコミュニケーションスキルに優れた者が勝者である。コミュニケーションスキルといっても話術だけではなく、見た目(ルックス)も性格も経済力も含まれる。つまり、その人の全体的な表現力こそがコミュニケーションスキルになりうるのだ。そして勝者は恋愛文化を享受した上、SEXも手に入れることが出来る。しかし勝者がいれば敗者もいるのは世の必然である。
  「彼女」のつくれない恋愛文化の敗者すなわち弱者はどこへ行くか。弱者はあくまで代償行為であるが金を払ってキャバクラやデートクラブで恋愛を、ソープランドでSEXを手に入れ、弱者の中でもそこまでの金の無い者はAVやエロ本を見て自慰行為(オナニー)にふける。アイドルもまた数多ある風俗産業の中の一つである。アイドルは人を擬似だが恋愛文化の参加者にさせ、オナペット(もはや死語か?)にもなる。しかもキャバクラ嬢、ソープ嬢、AV女優などより世間の評価は高いから、アイドル業は風俗産業の最高峰である。あらゆる風俗産業は恋愛文化の弱者のためになくてはならないセーフティネットなのである。
  世間一般の方は恋愛文化を自明のものとして誤解しているのだ。狂信的なアイドルファン達が「彼女をつくらない」のではなく、「彼女をつくれない」から正統の恋愛を離れて異端の偶像崇拝へと行くのである。
  次回は、清純派アイドルの真相、アイドルとアーティストの分岐点、年齢サバ読みの是非、出し惜しみするアイドル、脱アイドルのすすめなど(全て仮題)、具体論に入っていきたい。

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