私的震災記録Part3

重苦しい内容で、すんまへんなぁ(-_-;
もう少し辛抱しとくんなはれ。

翌18日からは被災箇所の苦情処理で現場回り、救援物資の受け入れ、避難所の学校の宿直などの業務を順繰りにこなす一方、倒壊した家屋の公費解体の受付が始まると、そちらの手伝いも開始しました。

困ったのが、隣の建物が倒れかかっていて自宅が壊れるかも知れないので、なんとかしてくれという苦情。傾いて今でも倒れそうなことは分かるのですが、相手は取り壊しはまだ先にしたいと言うし、仲介役としてはどうしようもありません。

苦情の電話窓口は担当が替わると不信感を増すことになるので、応対した相手は同じ職員が最後まで付き合います。その時は被災者も殺気立っていたので、やり取りもとげとげしかったのですが、これはねばり強く説得(というか、引き延ばし作戦でしかなかったですが)することで納まることもよくありました。

全国からボランティアもたくさん来てくれて、ボランティアの待機所というのがあって、毎朝ミーティングの後それぞれの持ち場へ散ってボランティア活動をこなしていました。取り壊しの引っ越しの手伝いとか、屋根のシート掛けとか、公が扱うべき作業以外のことは何でもこなしていたようです。

震災復興はもちろん経費もかかりますが、基本的には人手という原始的な作業にかかってきます。これを行政だけでこなすことはとてもできないわけで、ボランティアというのは何事にも代え難い支援と言えると思います。

その後、5月末頃までは公費解体の受付で繁忙を極めましたが、仮設住宅も増設され公共施設の復旧も進み、次第に災害対策本部も縮小されていきます。
今となってはいつ災対本部が閉じられたのか記憶になくなりましたが、ボランティアも潮を引くようにそれぞれ地元に帰っていき、グランドフロアにあった本部や支援物資も整理され、最後に残った庁舎のひび割れが修復されて外見は震災の面影が消えていきました。

私が担当した被災マンションの建て替えも、居住者のトラブルもなく円満に新しく建て替えられました。現在1件だけまだ係争中のマンションがあって、マンションなどの共有物件の建て替えの難しさを痛感しています。

こんな未曾有の自然災害に遭遇して、人の醜さや暖かみを実感したのも事実です。究極の事態に巡り会うと、本音が出るんですね。
特に行政に対しては文句を言って当たり前という風潮がありますから、風当たりは強いかったです。

去年はトルコと台湾で同じ規模の地震が起きましたが、いつどこで起きてもおかしくない状況では、いかに普段から非常時の対応ができるかが問われていると思います。
特に人口と交通インフラの集中する首都圏でこのような大震災が起きると、阪神大震災どころの被害ではないでしょう。

そんなこんなの私的震災記録でした。
今でもカミさんに「地震後に真っ先に飛んでいったのが、自分の部屋やないの!」とたしなめられるのが辛いです(-_-;

もう生きているうちにあのような大地震を経験することはないと思いますが、地震だけでなく災害時の対策というのは今回のY2Kと同様、平常時から気に留めておかなくてはならないでしょうね。

長いモノローグでしたが、おつき合いありがとうございました。

Home