第5回インド仏跡参拝 

インド仏跡巡拝の旅 釈尊の七大聖地を訪ねて   2007(H19)33日~11日 
 旅で触れた出来事は参拝者の数だけあると存じますが、私の見聞の一部を記した記録です。
 誤りや不適切な内容があれば御校正ください。                   中原慈良記

19911月、19931月、19941月、19972月の参拝に続き、5度目のインド参拝。
8大仏跡のうち、サンカーシャを除く、ルンビニ、ブッダガヤ、サールナート、クシナガラ(以上4大仏跡)と、霊鷲山、ヴァイシャリー、祇園精舎の7大仏跡を参拝。カピラ城を含め8つの仏跡を参拝と解釈。
参拝者 浅井證善先生(団長)、矢田部信恵子、石堂法瑞、川﨑一洋、歸山朋子、富田向真、細川顕、
      吉永直美、諌山真紹、石本憲正、一鉄創、小籔実明、鈴木良寛、長田健吾、米本智昭、中原慈良
ガイド:柴野雅彦 〒105-0013東京都港区浜松町2-3-23フクダビル2F ()トラベルサライ
現地ガイド:P.K.Sharma シャルマさん(Japanese Interpreter)
バス運転手:プラカッシュ(バラナシー在住) バス・アシスタント:クマール 


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11時、関西空港出発ロビー集合。浅井先生より、一同に参拝である旨の挨拶。

ガイドの柴野氏より、31日より実施のテロ防止対策(液体手荷物100ml以下、透明ビニール袋封入)の説明。出国手続きにあたっては、液体、喫煙用ライター1(チャッカマン型は目的が煙草用と見なせないので不可)など、各人各様に係員に交渉。この日の換金レート1ドル約119円。

空港でインド参拝団の最初の食事。13時離陸予定の飛行機は14時予定に遅延。出国手続き後の売店で機内持込可と聞いて購入したお茶が搭乗ゲート係員からは機内持込不可とされるなど、3月からのテロ防止対策に係る情報混乱。1438分インド航空AI315便離陸。機内食。隣席はインドの男性と結婚した日本女性の両親が、初めてインドを訪れ(国際便も初めての様子)、初めて相手の両親に会うとのこと。インド人男性が、食事、飲料、新聞、雑誌、映画の日本語音声など、義父母を気づかっている姿に心温まる。

1820分、経由地香港に着陸。機内清掃。ここで乗り込んできたインド人乗客の姿に、めざましい発展を遂げ続けるインドの国力を実感。日本時間1945分離陸。機内食。

インド時間2145分(日本時間2515分、時差修正3時間30分)インド首都デリー国際空港着陸。ガイドのシャルマさん合流。バスでは、マリーゴールドの花輪でお出迎え。添乗員・ガイドより、今回の旅行に際しての注意等。1ルピー2.9円(1Rs3円)、1万円分3450Rs。ポーター荷物はまとめて払っているのでサンキューでよい。ベッドチップは10Rs/人だが忘れてもいい。部屋に何か頼んだりした際は、10(仏跡巡拝)~20(都市部、ベナレス・デリー)Rs。生水はもとよりホテルのポットの水も飲まない。湯沸しするならミネラルウォーターを。3/4のホテルでは部屋に無料のミネラルウォーターあり。食事中も含め置き引きに注意。国内航空では、電池はすべて懐中電灯やカメラなどから抜いて、一箇所に固めずバラバラにしてスーツケースに入れる。ハサミやナイフは手荷物に、液体は一切不可。ライターは柴野さんに全部預ける。国際電話は、ホテルは高く、空港が安い。

特に翌日の注意事項として、34日(3月の最初の満月)のインド・ネパールではカーストに関係なく祝うホーリー祭(色の祭)のため、女の子は出歩かないし、観光客にも色水をかけるいたずら(水ヨーヨーなど)があるから、きれいな服を着ないようにとのこと。色水をかける意味は、今まで私のした間違いを(この色によって見えなくしたので)忘れてくださいという意味。ただし、頭、顔、衣服に関係なくかけられる上、近年化学染料の色水でなかなか色が落ちないので、白い負摺などはしまっておくこと。なお、満月の祭に対し、新月の祭、毘沙門天の祭などいろいろあるとのこと。

考うるに、ホーリー祭は、アジア農作地帯において泥水を掛け合って豊穣を祈る祭、乾季から雨季へ生命にあふれる新しい年の始まりを祝う祭、カーストの垣根を取り払って行い祭特有の無礼講というシステム、クリシュナ神(生誕地マトゥラー)の説話、水だけでなく火で供物等を燃やす儀礼など、いくつかの要素が複合した祭と思われる。

ニューデリー(New Delhi)、ワサントコンチネンタルホテル(JAYPEE VASANT CONTINENTAL)泊。ホテルにて、浅井先生、経木塔婆を準備。釈尊、釈尊十大弟子、そして釈尊の一族、また弘法大師をはじめとする日本の僧、さらに参拝者にかかる先祖や有縁の者への供養のため。塔婆は各仏跡地でご供養の上、帰国後に高野山奥の院でお礼参りの上、流すことに。現地時間午前2時就寝。


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6時起床。朝食。7時半ホテル出発。前日のサラダ(を洗った水)か、既に体調不良者3名。
デリー空港(DELHI)からラクノー(LUCKNOW UPウッタラプラデーシュ州都)へ向かうIC601便搭乗。855分離陸予定だが、搭乗自体が9時半に。機内の雑誌にはクリシュナ神の色粉の祭の記事。乗客の顔や頭や服にも色がついている。10時半、アクシデントのため飛行機を乗り換える。飛行機の外にはトランク1つが落ちており、かつてのインド旅行で同行者の荷物が一緒に届かなかったトラブルの生じた理由を垣間見た感あり。一行の荷物でないことに安堵。1140分離陸。機内食。機内で、川﨑さんより、インド密教経軌に説くところの、釈尊と胎蔵・金剛界の大日如来との関係などについて聴聞修学。ラクノー1220分着(950分着の予定から2時間半遅れ)。外気温30度位。バスでタージマハルホテルへ。

色水をかける無礼講のホーリー祭のため、道端のチャイ屋ですら店を閉め、バイクに2人・3人乗りしている若者は色まみれ、子供も白牛も色・色・色。祇園精舎・舎衛城参拝予定であったが、飛行機遅延とホーリー祭で危ないため、翌日に日延べ(玉突きでルンビニ参拝も明後日に延期)。1315分、タージマハルホテルに着くも、ホテルのゲートも門扉をしめている有様。

ホテルで昼食。ダル豆、オクラほか何種類ものカレーをちょっとずつためす。ホテル用で辛さは抑えてある模様。マンゴージュースお接待。デザートは相当甘い。1415分出発。
スラバスティまで約4時間の行程。1550分~16時トイレ休憩(あと100km)。1720分、この時期に咲くキタワの木の赤い花。道の左右には、白くまっすぐのびる外来種のユーカリ。

車中では、ユーカリの話から、インド人が大切にする木2種=菩提樹、ニングローブ(ガジュマル)。そして合歓の木に似たニーム(インド栴檀)は歯ブラシや石鹸になる話。そしてダルカレーに使うダル豆には黄色・黒色があり、黄色のイエローダルはインド人の主食。また、菜食主義が多い話。インドの菜食主義では土の上のものしか食べない。ヒンドゥーのバラモンなど上位のカーストの者は卵も食べないが、地域によって魚を食べる人もいる話。

さらにインドの習俗につき、葬儀の後、ヒンドゥーでは遺骨をガンジスに流すが、イスラムでは土葬、拝火教(ゾロアスター教)ムンバイでは鳥葬など様々。

なお、ジャイナ教(教祖マハービーラ)には白衣派、無衣(空衣=物質としての衣でなく、空がそのまま衣の意)派があり、彼らは苦行を行い、マスクをつけ、はさみを使わず髪も手で抜き、土の中のものは食べず、食事は11回という(ただしバターは使う)。このようにジャイナ教の人は不殺生のため農業できないのでビジネス人が多く、比較的裕福なのだとか。ガイドの話に補足して、浅井先生がジャイナ教と仏教の違いについて、仏教では人は平等とするが、ジャイナ教では業因によるので人に差別あっていいと説く点、ジャイナ教では苦行にあけくれるが、仏教では優先順位を自利利他に置く点といった事例を語る。ただし、大事なのは、いろんな教えがある世の中において他の宗教を排して優位を語ることでなく、各自が何を実践するかということであることを明かす。

1750分夕陽、18時頃日没。朝日は白かったが、夕日はオレンジ。皆、阿弥陀如来の世界を想起。
1817分ロータスニッコウホテル着。以前宿泊したマヤホテルは改装して良くなったが、バルランプールに位置するので祇園精舎から遠い。よって、近いこのホテルに。なお、夕食時の飲料にビールがあるも(ビール200Rs、ジュース100Rs)、浅井先生(団長)より明日以降の仏跡参拝期間はアルコール禁止の命あり。
スラバスティ(Sravasti)、ロータスニッコウホテル(Hotel Lotus Nikko)


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5時半起床。6時出発。祇園精舎のあるこの地は、かつてのコーサラ国の都跡、舎衛城(シュラーヴァスティー)。スダッタ長者屋敷跡の手前左の井戸(デーヴァダッタが落ちたと伝える説、釈尊の子を身籠ったと嘘をついたチンチャーが落ちたと伝える説)を過ぎ、スダッタ長者屋敷跡の見学。入り口がないので「黄金の倉」と伝える部屋を壁の上から俯瞰。西の空に月、日の出。犬が寄ってくるが狂犬病の危険あるので触らないようにとのこと。

やってきた子供が、兄の太鼓にあわせて三帰依(帰依三宝)の歌を歌う。「ブッダン()・サラナン・ガッチャーミー、ダンマン()・サラナン・ガッチャーミー、サンガン()・サラナン・ガッチャーミー(Buddham Saranam Gacchami, Dhammam~~,Sangham~~)」。この子たちが仏教徒というわけではなく、おそらくはイスラム教。浄土関係の信者さんがこの歌を歌うとよく布施してくれたから、ここで三帰依の歌を歌っているとのこと。

屋敷跡の北側に隣接してアングリマーラ(指鬘外道)の遺跡あり。バスで移動。舎衛城の南門(小山の切れ目)でバスを降り、東側の牛頭天王(八坂神社祭神)の遺跡を見る。

アングリマーラ(コーサラ国パセーナディ王の司祭バラモンの子)は、一説にはその容貌や能力に嫉妬・邪念を持った師に陥れられるまま、操られるまま、その命にしたがって千人の指を集めようと殺害をくりかえし、それらの指で華鬘を作ったので指鬘外道と称されたが、千人目に出会った釈尊の教導によって出家した話は有名。その教導の場面は、追いかけても追いつけぬ(立ち止まらぬ)釈尊を、立ち止まったアングリマーラが呼び止めると、釈尊は「私は止まっている、あなたが止まっていない」と返事をしたという。釈尊のその言葉が、歩みを示すものでなく心の状態を示すものと理解しえたアングリマーラは釈尊に帰依したのだと伝える。

しかし、出家して修行が進んだからといっても、入信以前の業ゆえに、アングリマーラは托鉢の際に、石を投げつけられ、法衣を裂かれ、頭から血が流れるなどの難をこうむった。こうしたアングリマーラに、釈尊は、「耐えなさい。そなたが地獄で数年、数百年、数千年にわたって受けなければならない業の果報を、現世において受けるのです。」(中部第86『アングリマーラ経』第6節)と励ましたと伝える。「かつてなした悪業を、善によってつつむならば、かれはこの世を輝かす、雲を離れた月の如くに」(ダンマパダ173)と伝えるとおり、アングリマーラは、たゆまぬ精進の結果、阿羅漢果を得て涅槃に入った。(訳文箇所は片山一良『NHK宗教の時間「ダンマパダ」をよむ』180頁)

 昨今の天災・人災による被災者や犯罪被害者への配慮などの観点からすれば、こうした言葉に問題がないわけではないのであろうが、この言葉は修行者であるアングリマーラに向けられた言葉である。アングリマーラについて記す経典を精読したわけではないが、一心に修行するアングリマーラにとっては、体の痛み、心の痛みに苦しみつつも、釈尊の上記の言葉はあきらめをうながす言葉ではなかったと思える。すなわち、懺悔の必要性、釈尊からいただいたいたわりへの感謝、釈尊に今生で指導を直接受けることを得られた幸せ、将来地獄で受けなくてはならなかったはずの業苦を少しずつでも解決できている(業を残さない)ことの喜びによって、勇気づけられたのではなかったであろうか。

7時前、祇園精舎(スダッタ長者寄進。舎衛国祇樹給狐独園、『阿弥陀経』『盂蘭盆経』等の説処)到着。
入口を入って左に、目連尊者の遺跡。少し歩くと阿難尊者の菩提樹、さらに少し進み井戸で手を洗い、向かい側の釈尊が居ました香殿にてご供養。

8時、ホテルへ向け出発(東へ)。左手にスリランカ寺院、右側に日本人が「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり(『平家物語』)」を偲んで寄進した梵鐘あり(ただし、釈尊当時にこうした形の梵鐘は無し)。

ホテルで朝食。インディカ米の粥、チャパティ、シナモン入りのミルクティほか。4回生の学生たちは卒業後に専修学院に入学とのこと。仏跡地参拝中心にして、浅井先生・川崎さんをはじめとする学問的知識に富む今回の参拝が、彼らの心に何をもたらすかわくわくする。また富田さんは、帰国後に高野山高等学校の教え子のために、釈尊の生涯や仏跡地にかかる教材を作成するとのことで、見聞に意欲的であり皆で協力する。

9時過、ホテルから祇園精舎方向へ出発。右側に、釈尊が摩耶夫人への説法のため天上へのぼられたと伝える所を拝見。(別説には祇園精舎から昇られたと伝える。その説法の後、三道宝階を降りてこられた地が八大仏跡のひとつサンカーシャ。)

9時半、バルランプール。フルーツバザールではバナナ、オレンジなどを売っている。以後、街々には同様のフルーツの屋台があり、地域により、サトウキビを搾るジュース屋台、ザクロなど特色あり。10分後、ラプクティ河(祇園精舎の後ろを流れる)を渡る。小麦の草原。10時半、オレンジ(3Rs/個)やバナナ(5Rs/個)を購入。車窓にダル豆畑。1250分カピラ城跡近くの休憩所でトイレ休憩。

カピラ城の比定地には、インド領ピプラワ説、ネパール領テラウラコッタ説があるが、カピラ城跡がインド・ネパール国境の間近であることからわかるように、両者間の距離は10km程度の範囲内。ピプラワから1891年出土した石棺、舎利容器はカルカッタ博物館に収蔵。その後20世紀にさらに深いところからソープストーン製の舎利容器が発見され、デリー国立博物館に収蔵。またピプラワからはカピラヴァストゥの印章が多数出土とのこと。

ピプラワのカピラ城跡にて、土足を脱いでストゥーパに登り、ご供養。特に、この地を治め、釈尊や優れた仏弟子を輩出するも、滅亡した釈迦族のご供養を行う。以前の参拝記でも浅井先生が釈尊の一族を供養された話を載せておられるが、今回は各仏跡地のご供養において、皆で釈尊の一族の供養をさせていただくことができ、私たちの心にも喜びが生じた。私たちは自らの苦ばかりにとらわれ、釈尊はじめ弘法大師にお願いするばかりであるが、釈尊への感謝の真心をもって釈迦族へのご供養を行いえることができたのは、ひとえに先達の教えがあってこそである。

ちなみに釈迦族は、『ダンマパダ』等によるとヒマラヤの南のオッカーカ王を祖先にいただくアーリヤ人の部族と伝え、さつまいも主食から穀物の栽培に成功したことにより繁栄した(釈尊の父王の名は浄「飯」王)。その一族の誇りは、強大なコーサラ・マガタ両国の間にあっても保たれていたが、力関係ではコーサラ国の属国という状況であった。

このため、釈尊に深く帰依したコーサラ国王パセーナディ(波斯匿はしのく)王が、釈迦族に対し釈尊の血族(王族)を妃に求めた際に、釈迦族マハーナーマンと召使(ヴァーサバカッティヤー)の間に生まれた娘を王族(カッティヤ)の娘であると偽って嫁に出した。パセーナディ王との間に生まれたヴィドゥーダバ(毘瑠璃)は、母の故郷カピラ城を訪ねた際に自らの出自を知り、釈迦族に軽蔑されたことから、後に父王から王位を奪い、釈迦族を滅ぼすことになる(釈尊の姿によってしても4度目には侵攻をとめることが出来なかった故事=仏の顔も三度)。

なお、このパセーナディ王の甥がマガタ国アジャセ(阿闍世)王であり、アジャセ王もまた父王ビンビサーラ王から王位を奪っている。(後にマガタ国はコーサラ国を滅ぼす。)

1348分バスへ戻り、車中で昼食の弁当。庭には犬とカラス。1420分出発。釈尊が雨期の安居を過ごされたというガンワリヤ遺跡を見学。14時半出発。道沿いのマンゴー樹には黄色い花。1505分通行税。重ねて1533分橋の通行税のため停車。1620分出発。昔はカピラ城からルンビニへは、北上してすぐに国境(ノーウェル?)を超えたが、今は西へ迂回するコースでベイリヤの町を経由するので1時間ほど長くかかる。

1643分国境越え。柴野・シャルマさんは出入国手続きに。歩いて越えることもできるそうであるが、我々はバスで国境を越える。境界における乞食者は減ったように見える。

同じルピーでもインドルピーとネパールルピーでは価値が違い、現在インドルピー100Rsがネパールルピー160Rs相当。一見豊かに見えるネパールは、観光資源があっても、海外の援助なくして国がなりたたない貧しさで、一方のインドは、見た目には貧しく見えても自給自足できている。国境の町はおもしろいはずだということで何人かが買い物に出るが、以前ほどの活気はなく、物が少ない。

現在のネパールは、国王とマオイスト(毛沢東主義)との対立により、テロもあって治安悪く観光が激減しているとのこと。かつてはここでジュースをまとめ買いしたが、柴野さん、ここでのまとめ買いは割高と判断。175分出入国手続き終了。1日の行程につき、ネパール時間への時計あわせしない。

ルンビニへ向け北上。途中右へいくと摩耶夫人の故郷(テンピ?城跡 ラーマ・グラーマ・ストゥーパ、立正大学が調査)とのこと。道端の用水路に鶴。
ルンビニ(Lumbini)法華ホテル(Hkke Hotel)到着。園内に孔雀。ルンビニの法華ホテルは、日本の法華クラブが倒産したため、インドの会社の傘下になったが、いくらか日本語を解することのできる現地スタッフなどサービスは従前どおり。庭には孔雀を放し飼い。マッサージは1時間12ドル。夜は鶴の声。


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5時半起床、65分ホテル出発。10分後、円形の外周道路でバスを下り、人力車にてマヤ堂のある中央区画入口へ(サライで一括して依頼、片道10Rs/人)。カメラ持ち込みは11ドル。

ルンビニ、マヤ堂参拝。堂内は発掘現場をそのまま残す形で寺院を建てており、以前の参拝の折に安置されていたマヤ夫人と釈尊誕生像3組のうち、最古とされる1組のみをまつる。下のガラスケース内の石は、釈尊の歩いた足跡とガイド説明(発掘報告解説書では生まれた位置を示すマーカーストーン)。向かって左側の回廊にてご供養。

産湯の池で記念撮影。産湯の池の傍の菩提樹には、五色のタルチョが多数はためいている。無憂樹の赤い花が咲いている。インドのカリン樹に実がなっている。

8時。帰る道すがら屋台で買い物。モーニングビジネスの験かつぎで、利益が薄利でも最初の客に物を売るというので、何人かが値切交渉を楽しみつつ買い物。細川さんは頼まれたというティンシャ(チベット密教の法具で独特の澄んだ響きのする鳴り物)を川﨑さんの値段交渉術の協力を得て購入(500Rs300Rsの意志表示の交渉結果、400Rsで商談成立)。帰りは人力車に乗らず歩く。勧められるままに人力車に乗った者は、降りようとすると50Rsを要求され、争いの心を生じないよう20Rs渡して降ろしてもらったとのこと。

ホテルに帰り、朝食(和食。ひじき、豆腐など)。出発前、以前の参拝の折に負摺に押した八大仏跡の朱印(仏跡各地のホテルが協力して置いていた。実際には1つ不明で7。)を押そうとしたが、朱印のミゾは詰まり判読すらできず、また朱肉も置いていない有様につき断念。また、1994年の参拝時に記念植樹した無憂樹は、植え替えてまとめてしまっているので、どれがどれかわからないとのこと。リピーターがあるとは思っていなかったかな?

出発前に浅井先生より皆へ、今回の参拝においては、仏跡地であるかどうかにかかわらず、インドの石や土を持って帰ってはならないこと、既に落ち葉となった菩提樹の葉などは持ち帰っても構わないことの指示あり。これは出入国時の検疫という制度上の問題ではなく、修行上の誤ちをおかさないようにとの事前の注意。仏の許しなくして、土や石を持ち帰ることはできないのである。同様の事例は、日本においても、大峯山など幾つも例がある。

9時ホテル出発。車中で供物のおさがりを皆で頂戴す。9時半過、国境の町到着。再入国手続きはすぐにおわるとのことで、停車したバス内で待つ。フリーゾーンが無い程に、トラックで渋滞しているため危険でもある。インド側の町に500mlのマンゴー・りんごジュース無し。1010分出発。パスポート返却時の話として、日本人のパスポートは10万円程度で売れるとのこと。理由は、欧米人にとってタイ人と日本人の顔の見分けはできないし、日本人のパスポートならビザ無し渡航ができる国が飛躍的に増えるからだそうだ。かつて職務でビザ申請にかかる学生サポートとして某国大使館を訪れた際に、ビザ無し渡航できない国籍の人の現状を見て、日本の戦後復興に尽力された先人の努力に感謝したことを思い出す。

1122分、トイレ休憩。休憩場所の手前はチーク木であるが、奥はインド営林署による住宅建材用の沙羅樹林。釈尊の涅槃図において「沙羅双樹」を描く際に2本描いているものをよく見かけるが、2本の沙羅樹を指すという説と、沙羅樹は最初に手を加えるとまっすぐに伸びるがそうしないとすぐ双股になるので1本でも沙羅双樹と呼称するという説がある。

バス車中で聞くところ、現代のインドの宗教状態は80%ヒンドゥー教徒、13%イスラム教徒、7%シーク教・キリスト教徒など。新仏教徒(ネオブディズムとして区別)は少数であるが、2006年には法律家アンベードカルの集団改宗から50周年を迎えた(彼らの挨拶は「ジャイ・ビーム(和訳例.ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル氏に勝利を)」)。なお、インドは法律で必ず何%かの下層階級の者を就学・就労させるように定めている(それに対する批判も生じている)。

また、今、インドではビハール州に新幹線を通す計画あるとのことだが、牛(聖獣)の往来対策はどうなるものやら、発着時間は守れるのだろうかと考える。

ちなみに、以前の参拝時にもおまわりさんが一番悪いことをするというガイドであったが、今回も、おまわりさんが一番金持ちで、免許証見せろから口実作って200Rsをかせぐといったガイド話。

車窓から見える川辺には、△形の色とりどりの小さな供養塔が見える。柴野さんは天寿を全うできなかった子供たちのための記念塔(散骨のため墓はない)といい、シャルマさんは子供のための祈願や神への感謝のために立てた塔で毎年自分の立てたものへ参りにいくとのこと。

1212分、ゴラクプール郊外。牛乳搾って缶に入れて、自転車や手で運ぶ人たち。水牛の乳もあればお接待したいと浅井先生。右手に有名なヒンドゥー寺院あり、門前商店街はにぎわっている。駅・バスターミナル・空軍基地の前を経由。バナナなどまとめて購入。一人あたりバナナ3本、オレンジ2個をサライより接待。浅井先生は訶梨帝母のためにザクロを購入。1256分出発。再び沙羅造成林。雑木を取る人、牛乳缶を運ぶ人。道路整備状態は以前と比べ良好だが、車同士のクラクションはあいかわらずけたたましい。学校の子供が手を振る。

椰子の木の幹に切り込みを入れ椰子酒をとる壷をぶらさげている(成長点の葉の下すぐにぶら下げ、成長とともにじょじょに上に切り込みもあがる)が、朝はよく目にする壷だが、午後は時々見かける程度であることから、壷の回収は午前中かと思う。

クシナガラに着き、14時過、涅槃堂前を経由してホテルにて昼食。牛乳でつくった丸い菓子を蜂蜜と砂糖水に漬けたグラムジャムなど相当甘いデザート。15時ホテル出発。5分程で、涅槃堂前に到着。園内には沙羅の木。涅槃堂でご供養。ご供養後、錦布をめくって、金箔に覆われた涅槃像を拝する。涅槃像の台座には阿難尊者、最後の弟子スバドラ、チュンダの姿が刻まれている。涅槃堂を出て後ろの阿難尊者の仏塔をめぐり、背後の遺構を拝見。細川さんが異国の僧から袈裟を頂いたとのこと。

園外に出ると、夫婦と子供が楽器を用いて「三帰依」の歌を歌う。柴野さんの話では祇園精舎など各地で、参拝者から布施をもらう目的で三帰依の歌を歌っているが、その最初は、この夫婦ではないかと思うとのこと。

1609分、最後の説法地。小堂の中にグプタ朝の触地印の釈尊像。像の周囲をめぐる。ご供養。

1640分バスで少し移動。荼毘塚を参拝。西門から園内に入り、東から供養。ご供養の後、浅井先生が説法。仏前でのご供養に際し、前とか後とか、場所には差がないということなど。1714分出発。

バスで1分、すぐホテル。19時食事。リクエストにこたえて水牛の乳がでるがホテルのためか薄い感じ。また甘い乳粥も。料理は中華系で餃子にジャスミン茶。ショウガの千切りと紫玉ネギのスライスと大根の刻みをあわせたサラダをそのままあるいは塩・コショウで食す。

柴野さんは、現地の人が食べる料理を無理に食べてもらう旅行の仕方ではなくなってきていること、その結果、世界中どこへいっても中華料理系になって、「現地のものを体験する」という機会がへることを寂しそうに話。実際、今回の行程でも、インドの食堂・レストラン独特のスパイスと油の混じった臭いも、激辛い料理も、カルダモン等の香辛料の効いたチャイも飲んでいない。異郷の食文化は、体力、気力が充実していないと呑まれてしまうこともあり、そうそう何度もインドに来ることのできない人にとっては、本来の目的(私たちでいえば参拝)に支障がでる要素は極力回避する方が安全であり楽であるが、異郷の文化を理解し、尊重することにおいて食事は大きな意味を持つ。どちらが正しいという訳ではないとわかっていても考えてしまう。

なお、インドで猫が嫌われるのは、福徳をもたらすガネーシャ神(象頭の姿)の眷属がネズミだからとか。
クシナガラ(Kushinagar) ロイヤルレジデンシーホテル(The Royal Pesidency)


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午前4時半起床。朝食。昨夜同宿のタイ人一行は4時半から食事。粥に加え、ナンに似たアールパラータ(アール=じゃがいもが入っているパンで手間がかかるとのこと。大根=ムーリを使うとムーリパラータ)が出る。538分出発。外は月、東の地平線がほんのり赤く染まる。

今日からは、UP(ウッタラプラデーシュ)州からビハール州へ入り、ヴァイシャリー、ラジギール、ブッダガヤ、サールナートへ参拝していく。ビハール州は新州知事が田舎へも電気・道路を通すためがんばっているとのこと。

10年前はオレンジの灯で、朝夕は家からたつ煙でもやがかかっていた記憶があり、日本でも霧立つ中でオレンジ色の街灯を見かけるとインドを思い出していたが、UP州においても道中の白灯は煌々とし、停電もみかけなくなり、火より電気への移行が進んでいるように見える。もちろん牛糞燃料もあるにはあるが。

6時、飼い象が通りかかりバス停車。サライからバナナ。私も朝のホテルのバナナを直接差し出す。象の舌が柔らかくムニュっと出てきてバナナを持っていく際、手には思いのほか温かかで柔らかな象の舌の感触。この辺で飼われている象は家畜が主流で、ジャイプールなどでは観光用が主流とのこと。トラックのクラクションに、飼い主を背に乗せて立ち去る象。まもなく、UP州・ビハール州の境が近くなり、通行税。

618分、日の出。赤から次第に強くなる光。後席の川﨑さんが、愛染明王の熾盛日輪、金剛光菩薩のテージャスtejas、降三世のスーリヤなど、太陽・日輪信仰の用語例を示す。出発後、車窓からは朝もやの中、火で暖を取る人の姿。ふたたび通行税。地域ごとだから仕方ない。ビハール州に入ってしばらくして717分に州税納付所で納税。7時半出発。

車窓からは、ヒンドゥーの供養塔。色粉をつけた立方体を3段重ねた小塔、これはUP州、ビハール州にしかない点で社会学的にめずらしいという(寺が少ない中で、自分たちで作ったものか)。

車窓からは子供の遊びにケンケンパに似た図形を地面に書いているのを見かける。また、子供が私たちのバスへむけて手を振る様子から、かつて私たちも子供の頃に走る汽車の車窓に手を振って、乗客が手を振りかえしてくれることが嬉しかったこと、その汽車がもたらすあこがれなどを思い出した。それにしても裸足で平気なのだろうか。

ビハール州の近代化により電線が増えた感あり。ダル豆、からし菜、小麦が、よく育っている。道路工事現場あたりでは小枝や根など燃えるものを拾う人々。8時半、ガーグラ川(ネパールから流れてきており、毎年洪水)にかかる橋を通過。見渡す限りの麦畑。

9時半過、チャキアという町で早めの昼食(ヴァイシャリーまであと2時間程度)。食堂はきれいだが、壁には大きな白ヤモリ。香草と大根等のスープ、ダルカレー、ざくろ。停電で防虫装置働かず、ハエがザクロに。1042分出発。シャルマさんよりインドカレーキャンディー、柴野さんよりムーンガダル(MOONG DAL 塩味の豆菓子 7Rs)のお接待。上下2車線ずつのハイウェイ工事は、人力でなく重機を使っている。

ヴァイシャリーを間近に、柴野さんより、この地で釈尊が「ヴァイシャリーは美しい」とおっしゃった話、王侯たちより先に供養の申し出をしたアンバパーリー遊女の供養を受けた釈尊の平等の精神、猿王奉蜜や第2結集の地であることの説明を受け、13時過、ヴァイシャリー参拝。池側にバス停車後、仏舎利出土の遺跡のドームで参拝。ドームは以前の参拝で中に入った記憶があるが、今は入れない。また、各地の仏跡地は総じて公園化がすすんでいる。ご供養。ご供養の後、舎利出土跡を拝見。ここから出土した仏舎利はパトナ博物館に収蔵とのこと。14時出発。

147分、ヴァイシャリーのストゥーパに到着。ストゥーパはアショカ王時代84千のうちのひとつ。ストゥーパは発掘するまでは中ほどまで埋まっていたとのことで、その跡も残っている。ストゥーパの傍ら(南側)には、ストゥーパに向いて立つアショカ王柱。この獅子柱頭のアショカ王柱に奉勅文は無いが、昔のまま現在まで立つ2本のうちの1本とのこと。アショカ王には百柱奉勅、磨崖奉勅などあり。

ここで、パトナ博物館で昨年からヴァイシャリー出土のまっ白い舎利の公開を始めたと聞き、拝見すべく、急ぎパトナへ向かう。14時半出発。車内でシャルマさんが紅茶・ガラムマサラ・沈香などの販売。

パトナには、ガンジス河、マハトマガンジー橋、クムラハール(第3結集、アショカ王柱)などあるが、今回は省略。行き交うバスは屋根に人を乗せており、気持ちよさそうにも見えるが、運賃は一緒のうえ、振り落とされないようしっかりにぎっていないといけないし、電線にも気をつけなくてはならないとのこと。柴野さんが、インドの環境問題について、従来の素焼き碗、麻、土壁、椰子の葉、手で水洗いするトイレといった完全リサイクル社会から、トイレットペーパー、プラスチックなどのゴミ社会になってきたことを語る。

1645分、パトナ博物館着。ヴァイシャリー出土の仏舎利の展示は昨年から、仏舎利拝観料500Rs(入館料250Rsを含む。写真撮影できないが、写真をくれる。)につき、学生分の入館料は篤信者からのお接待を充てる。柴野さんは、5時の閉館を前に早々に帰り支度をしていた館員たちを待たせ、館長に仏舎利拝観を交渉。入り口真上にあたる2階のブッダレリック(ブッダ遺跡)展示室前でしばらく待つ。柴野さんが交渉の上(特別費用を相当求められた模様)、最終的に館長の了解を取り付けた。しかし、ゲート・チケット販売・展示室館員がそれぞれに鍵を持つとのことで3つの鍵が開いて入場できるまでに更に時間がかかる。先月当館から500万クローネ(1500万円)相当のブロンズが17対盗まれた(犯人はつかまり、盗品は回収)ので、よけいに厳しいとのこと。

17時過、特別室にてヴァイシャリー出土の仏舎利と舎利容器を拝観。それぞれ正面で合掌礼拝。修行位により差はあるが、皆一様に釈尊の遺された大慈悲心を自らの心で感じ取ろうとする。パンフレットは11部ずつのはずが、館員からは8人分位しか渡されず、要求したが応じてくれなかったとのこと。帰国後カラーコピーで配布。1725分出発。

19時過、車窓から星が見える。低い位置に北極星、その右に北斗七星が地から生え、左にカシオペア。日本より南であることを再認識。同じく北天に気づいた川﨑さんと星供養の話。1922分休憩。ドライブインで野菜のパコラ(野菜天ぷら、普通は芋、辛ケチャップ。)、チャイ。使いまわすコーヒーカップで出されたことから、カースト制が崩れていっていることのあらわれかと驚く。しかし、柴野さんは、カーストの話とは別に、飲み終わって土に戻すチャイ用素焼き碗の方が、衛生面からもリサイクル社会から見ても適当との意見。ドライブイン食堂における水の質や洗い方を考えるとうなづける。1947分出発。

21時過、ラジギール(ラージギル)の法華ホテル着。ルンビニの法華ホテルと同様に日本人スタッフは全員引き払ったとのこと。マッサージは1時間12ドル。ホテルの部屋は、トイレのドアノブが壊れて閉められないが、ホテルマンを呼ぶと「ノープロブレム」扉を閉めなきゃ問題ないよと言って帰ろうとする。おいおい客にとっては問題だろと、交渉を試みるが当方の語学力がなく断念。午前2時頃就寝。ラジギール(Rajgirラージギル)インドホッケホテル(INDO-HOKKE HOTEL)


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5時起床、寝坊者を待ち542分出発。城壁跡のそばを通り、釈尊当時マガダ国の都であった王舎城(ラージャグリハ)へ。王舎城内の霊鷲山(りょうじゅせん、耆闍崛山ぎじゃくっせん、グリドゥラクータ)は、法華経、般若経などの説処、観無量寿経などの場面となる。553分、霊鷲山の参道入口到着。

以前警護してくれた6本指の警官は引退されたとのこと。ビンビサーラ王の道は、3~4年前に修復してなだらかな道になり、香堂までゆっくり歩いて20分程度とのこと。頂上近くで日の出、遠い山の峰より昇る朝日を拝する。日本語で霊山橋と書かれた小橋をわたると頂上はすぐ間近。舎利弗の窟・阿難尊者の窟をすぎると、北側の山へ向かう小道の入り口。北側の頂きには、アショカ王の記念すべき第1塔が立っているのが見える。かつての参拝の折には、南側の尾根の日本山妙法寺までロープウェイ(リフト)で登り、そこから徒歩でアショカ第1塔へ参拝し、霊鷲山のこの道に戻ってきたことを思い出す。

霊鷲山の頂上テラスには鷲の形の岩。本来は山自体が鷲の形と称したのであろうが、テラス頂上の中央に突き出した岩の上の部分も鷲の形に見えるということで、写真を撮る。頂上テラスで釈尊の居ましたという香堂は、麓方向(南西側)にせり出した部分の先。香堂に向かって座し、ご供養。ご供養の後、お供物の五穀をまく(鳥獣供養)。参道や香堂周辺における霊鷲山のゴミ問題の現状を憂い、浅井先生が、ボランティア清掃を決意。

756分、麓へ帰着。歸山さんは10ドルで10冊の絵葉書や地図。初めてのインドとは思えぬ交渉上手。その成果に便乗して我々も10007冊で購入。その後、バス内でシャルマさんが売人から頼まれて定価120Rsで車内販売。掛け値売買に慣れない日本人とはいえ、半値以下とは、インドの商売は奥が深い。

8時、ジーバカ(祇婆)のマンゴー園跡拝見(数分)。88分、ビンビサーラ王の牢獄跡を拝見。観無量寿経の断片を思い出しつつ、中腹の霊鷲山を遠望(数分)。(アジャセ(阿闍世)王の出生にまつわる因縁、教団代表とならんとする提婆達多とアジャセ王の関係、アジャセ王による父ビンビサーラ王の幽閉、ヴァイデーヒー(韋提希いだいけ)夫人が蜂蜜バターを身に塗ってビンビサーラ王の命をつないだ王舎城の悲劇の話、霊鷲山の釈尊に受法を求め、釈尊が目犍連や富楼那を遣わした話、父子の争いに直面した夫人の苦悩と懺悔など。)

バスに乗り、王舎城の城壁跡脇を通り、温泉精舎(以前の参拝ではここから登って、七葉窟前のテラスでご供養した。その参道でジャイナ教の裸形の行者にも会った。)前を左折し、ホテルへ。ホテル正門あたりから見える向かいの山の中腹には七葉窟(第1結集地)が見える。ホテル着、朝食。

918分、ホテル出発。20分ほどで、ラジギール・ナーランダの有名なお菓子カジャ(「食べていけ」の意味)の屋台前を通過。インド全般で、民族を代表する服(ドーティ=腰布、サリー、パンジャブスーツ=成人前の女性、白いサリー=未亡人のサリー)は少なくなっているとのこと(田舎では比較的残っている)。

ここからの行程は物売りや乞食が多いため、いらないという意志を明確に示す説明あり。お約束通り、「ババー」は「バクシー(お恵みください)」の縮めた形であり、「婆ぁ」ではないとの話あり。ちなみに「爺ぃ」は「~先生」「~さん」の意味。

950分、ナーランダ大学見学。アショカの木(無憂樹とは別の木とのこと)。「ナーランダ」の名は「ナーラ=蓮(知恵・知識の象徴)の地」の意味で、その知識・知恵・神通力で有名な舎利弗・目犍連にならって、ナーランダにはサーリプトラ(舎利弗)村、モッガラーナ(目犍連)村があるとのこと。5,7,9世紀のそれぞれに積み重ねられたナーランダ大学の遺構の説明からは、玄奘三蔵の大唐西域記に記載されている様子がうかがえる。教師が学生に語る講堂、学生の寝室、井戸、下水溝、法輪、舎利弗のストゥーパなどを見学。1037分出発。学究意欲の高い今回の参拝団のため、ガイドがインド人価格でナーランダ冊子を120Rs5冊代理購入して希望者は購入。

玄奘三蔵記念館を見学。おりしも、フランス人カメラマンが外でカイトにカメラを載せて上空からの作品制作中。この記念館は、中国とインドが仲の良い時に完成していたが、中印の仲が悪くなり、最近になって一般公開がはじまった。3日前から入館料50Rsを取るようになったという。

玄奘三蔵の像が出迎え、足元の水槽は蓮らしい。蓮の花が咲く頃には蓮の花の中を歩く姿が浮かぶことと思う。1999年にYuhua palace(玄奘三蔵遷化の地。中国陝西省西安から約150km銅川市玉華村近く玉華宮跡・玉華山(玉山))から発見された仏跡石のレプリカを拝見。また心願をこめて書く妙法蓮華血経あり。浅井先生が、天台の南岳慧思が毒殺されかけた際の逸話などを紹介。

帰国後のインターネット情報では、1956年に周恩来がインドを訪問した時、中国天津大悲院に残る玄奘の舎利(頭蓋)1粒をインドに分け、インド総理ニホルはナーランダ寺修復と玄奘学院の件を約束。玄奘三蔵の舎利は水晶で作った鉢に置き、鉢を高さ40センチの金の仏塔に入れたという。その後、玄奘記念館は1984年に完成したが、中印の国境争いがあったため、2007212日になって中国外相の李肇星を迎え一般向け開所式典を行った。

11時出発。さきほどの屋台街で、参拝団で預かったお接待でカジャを山ほど購入。パイ生地を揚げて蜂蜜かけたもの。40個位×2袋を購入100Rs。ちなみにシャルマさんが購入している時、乞食の少女がねだる。シャルマさんがカジャをやるが、子供はお金がほしかったのかカジャをポロポロくずして落としては足元の犬に食わせている。その少女がもう一度シャルマさんにねだると、シャルマさんはその子のカジャを持つ手をはたき、カジャは足元に落ちて犬の口に。少女の手には、お金もカジャも入ることなし。泣くでもなく両者は無言。表層的には子どもに対して酷いのではと見るのが日本人なのかもしれないが、シャルマさんは、ナーランダ大学構内で陽射しのもと草刈をしていた下層カーストの爺さんと二三言会話し、顔見知りではなさそうであったが、ふいにお金を手渡すなど、上位カーストとしての布施行を行っていた。頂いた菓子を食べるでもなくお金を乞うた態度によるものだろうか。

1135分、竹林精舎着。道の反対にはアジャセ王建立のストゥーパ。竹林精舎内の細く密集して沸きあがるような群竹は、竹林精舎に竹が無かった50年前にネパールから持ってきて植えたものとのこと。南方の竹バンブーとも種類は違うとのこと。入口正面にはタイ寺院による建物。入口左手の丘は釈尊がいつもいらしたところというが、イスラム教徒の墓(土葬)があるため発掘調査はできないとのこと。入口入って左手の奥の池は1950年代発掘。(王舎城は、教団形成初期におけるカッサパ三兄弟の帰依の話、アジャセ王が施薬院の名医ジーバカの勧めもあって仏教に改宗した話、象から釈尊が礼拝された話などを伝える。)

竹林精舎を出たところで、偶然、柴野さんがこの町一番の名マッサージ師に会う。ここで柴野さんから、昨夜ホテルで受けたマッサージが効かなかった話を浅井先生がしていたことを聞き及んだマッサージ師は、「インドのマッサージ師の名誉にかけて私がする」と申し出、バスとホテルにて浅井先生の肩をマッサージ。12時前ホテル帰着。昼食には蕎麦、日本茶。

1243分ホテル出発。ブッダガヤへ向かう。「常在霊鷲山」の門を越え、王舎城を取り囲む5つの山の南門に向かう。左手の山の頂上の寺(以前仏教だったが今はジャイナ教)を見つつ、道路左側に古代の轍の跡がある説明を受け(以前の参拝では下車)、南門の城壁で写真撮影。王舎城を後にする。

13時過から徐行でのろのろ運転。その理由は、お祭り。男たちが交通整理する中、女たちはサリーで着飾り、頭上に水がめを載せて歩んでいる。水がめの口には葉(マンゴー?)、その上に素焼きの皿、その皿にモミらしきもの。14時、川原の砂地には穴が掘られており、そこへ向かっている様子。雨季のはじまりの水・豊作の祭りであろう。その後15分ほどのところでまた同様の祭り。1450分トイレ休憩は麦畑。バスはエアコンが壊れたもよう。すれていない子が寄ってくる。物乞いではなく、日本人の顔がめずらしいらしい。出発時には「タター」と言って手を振る。

15時頃、バス内でお菓子カジャをバスで配る。町でアシスタントは下車、エアコンファン購入のため。このあたりではインド人もミルク粥や、ライスをミルクで煮込んだ菓子(キール)を食べるとのこと。

前正覚山への途中の家々は、以前来た際には土づくりであったがレンガづくりとなっており、格段に整備された感あり。ただし、現在前正覚山の麓に韓国の病院を作るなどしているため行っている岩を削っての道路拡張整備工事の労働者たちは、最低賃金80Rs/日となっていても、紹介者から仲介料を搾取されるとのこと。

以前参拝した際は、この土地は、住民が遊び半分でバスへ投石するようなところでバス運転手が嫌がったが、バスが故障したと知るや応援してくれるなど、純真な面を持つ人たちであったことを回想。

1550分、前正覚山中腹にバス着。留影窟(チベット寺院)まで歩いて登る(霊鷲山参道の半分以下)。ヒンドゥー寺院に参拝した人は帰りに、ドルやルピーをさらに低い貨幣パイサーやクッキーに両替・交換して広くたくさんの人に布施をする慣習があるため、ここでもバスを下りるやいなや両替屋(手数料収入を得る)が参拝人に寄り添い、肘を支え登る手助けをしようとする。ただし、インドにおいては全ての者へ布施する覚悟が必要。それができなければ、貰えた者と貰えなかった者で争いが起こるからだという。
両替屋が立ち入れない寺院区画から望む光景は、尼蓮禅河、左方にはかすむブッダガヤ大塔あり。
留影窟前でご供養。留影窟内拝。

ご供養後の帰り道、行きに吉永さんを支えた両替屋の若者が吉永さんと私に言い寄るが対応しない。「行きに約束した」とか「あなたにはお金ある」とか言うので、「(両替屋の)あなたは彼らに布施できる」と返事をすると「私は貧乏で布施できない、あなたはできる」と繰り返し、両替しないなら私にペンでもなんでもくれとの要求あるが無視。バスに戻ってから、子供たちの様子を目にした吉永さんの強い希望で、柴野さんに両替と布施を依頼。それを見て、もうけ損ねた両替屋の若者がものすごい怒りの形相でバスに向かってわめいている。1625分、布施をもらえると聞きつけて集まってきた者や、反応をほしくて手を振る子どもを後に出発。

17時、尼蓮禅河の橋(スジャータ村の橋ではない)を渡り、174分、象頭山(GAYA山、6年間の苦行の修行地のひとつとも、拝火教で後に釈尊に帰依したカッサパ三兄弟の末弟のいた所とも伝える)の東麓に着。400段強の階段を登った中腹の青いところに仏足跡があるとの説明。また山頂にはヒンドゥー寺院が見える(ドゥルガー女神サービトリ?)。

1712分出発。この辺では、牛糞燃料は麦わらをまぜこみ、1つ5Rs位(燃やすと蚊がよらない効用あり)。17時半、スジャータ村へ渡る橋の前を通過し、大塔前を通って、1740分ホテル着。トイレ休憩。1745分出発。大塔の金剛宝座区画へ入るための許可を得るためブッダガヤの管理事務所へ向かう。ホテルからパンジャイ氏も同行。

1750分、ブッダガヤの管理事務所に行く。現在世界遺産のブッダガヤを管理するマハーボーディソサエティ(http://www.mahabodhi.com/
大菩提会
Mahqbodhi Mahqvihqra  Bodhgaya Temple Management Committee のヤダブ氏(Dr.Kalicharan Singh Yadav ヒンドゥー教徒とのこと)と面談し、お布施を納める。ブッダガヤ大塔の金剛宝座の区画は、昨年は朝8時と夜8時のわずかの時間のみは自由に参拝できたが、今は終日扉を閉めていて申請して許可された者のみが入ることができ、どうやら許可には管理しているマハーボーディソサエティの許可が必要で、それには多額のお布施が必要という仕組みらしい。事務所内には南方系の仏像がまつられている。

5分ほどで事務所を出て、バスで大塔の入り口近くへ。ブッダガヤは世界遺産で、観光地の管理体制がすすんだものであろう、乞食はほとんどおらず、物売りはいるがしつこく言い寄ってくることもない。また区画に入ると一帯が土足禁止、入り口で靴を脱ぎ、カメラ持込は20Rs。区画内での物売りはない。大塔正面階段を下り左手の仏足石礼拝、大塔を右回りに回りこんで金剛宝座へ。入り口のケースで囲われた仏足石2つを各人礼拝して金剛宝座区画へ入り、ご供養。柴野さんの話だと、私達の参拝が予想外に長いとマハーボーディソサエティの者がいらだっていたそうである。

私達の参拝後、私達が出るために開けた扉から人びとが金剛宝座区画内へ殺到。マハーボーディソサエティの者もやむなく入れている。このことに対し、浅井先生と柴野さんは「よかったですね」という言葉を発した。私たちの参拝で扉が開き、長い読経で開き続けていたからこそ、参拝後に回りの人びとが入ることができた事実を、素直に喜ぶ言葉に、自らの思慮の足りなさを知り、仏のものの見方に組みなおされる自らの心を知る。すなわち、私たちは現在の管理者である者に布施をして鍵を開けてもらったことで入場の権利を得たものと、どこかで勘違いしているが、そうではない。釈尊の慈悲は誰彼区別なくふり向けられているのである。

供養後に大塔を右回りにまわろうとして停電、しかしすぐに復旧。電力事情も格段によくなった。大塔内では順次参拝の人が入れ替わるため、数名ずつ個々にご供養。

なお、金剛宝座にかかる天蓋について、1994年の浅井先生の旅行記には、最近金剛宝座に登った日本の新興宗教の教祖を引きずり下ろす事件があり、そうしたことの防止のために天蓋が設けられたとのガイドの話を掲載しており、今回も同様の話を聞いた。ただし、その天蓋は1991年の参拝時の写真にも写っており、1993年の旅行記でのガイドの話では、スリランカ国王を迎えるのに黄金の天蓋をかけて準備をしている話を掲載している。このことから、その教祖が起こした事件の数々は同じ日本人として恥ずべきことであり、宗教者や宗団がややもすれば陥る慢心や独善として肝に銘じておくべきであるが、天蓋の話にかかわらせて思い出し嘲笑しようとすること自体を反省。

19時過ぎにバス出発。何人か喉の調子がおかしい。1917分ホテル着。
ホテルは大浴場あり。また学生たちは大塔の夜間ライトアップと街に散策に出かける。治安は大丈夫と思いつつ念のためパスポートを留守組で預かる。 ブッダガヤ(Bodhgaya)、スジャータホテル(Hotel Sujata)


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5時半起床、6時出発でジープ(5ドアRV、最大9人)に分乗して尼蓮禅河を渡り、右折してしばらく川辺を進み、陸側に入り、620分、苦行林に着く。苦行林の推定地に諸説あるうちのひとつ。車を降りて、釈尊の像を拝し、境内へ。釈尊が悟りを得るため、ここでの苦行を止め、ガジュマルの木の下でスジャータから乳粥供養を受け、前正覚山、金剛宝座へ移られたことの説明。

車でスジャータ寺院に向かう途中、吉祥草を浅井先生が求める。吉祥草は、害虫や毒蛇がよらないので座にするというが、現地では日蝕の時に、食べ物に葉をさしておくのだという(日蝕の最中はものを食べない。その間、食物を害されないための守りか?)。

吉祥草の採取を見に下車したところで、スジャータ村の子供チョット・コーマール君と知り合う。日本人のナカムラキミコ先生の学校(道すがら「宝満堂学校」の字を見た記憶あるが、いくつか学校があるようで不明)に通っているとのことで、名前を聞くとメモに名前と村名等を記入(myname chhotu kumar  villag BakRour  Post BakRour  Pin 82U231)。英語のスペルミスはあるようだがご愛嬌で、文字が書けることを褒めたくて「Good♪」と言うと、ほこらしげな目の輝き。教育こそ大切と思う。

車で集落を抜け、寺院へ。寺院はヒンドゥーであるが、区画にはニングローブの木があり、その前後にインド式、ビルマ式の小祠。コーマール君も追いついて来る。乞食の爺さんは白内障気味の目で、憐れみを請う表情と声色で来るが、コーマール君と乞食が二・三言会話したら、鋭い目つきに変わり、コーマール君に鋭い言葉を発し、ふたたび目の光を隠した表情で私たちへ物乞いを再開。その姿に、乞食の演技のすごさを知る。

売人は、放鳥50Rsをすすめる。また、学校への寄付を求められ、今までの記帳額面を見ると100Rsとか記載あるので、少しでもと思い50Rsを寄付。このやりとりを見たコーマール君が一変。ボールペンをくれとか私に物乞いをはじめる。その顔つきや目には、先ほどまでの誇らしさはない。その豹変ぶりに戸惑いつつ、与えることで物乞いにしてはならないと思って断る。後でシャルマさんから浅井先生への話として、寄付金は男たちの飲み代になり、近隣の他の学校には回らないなどの問題があるとの説明。ただし、現場で説明すると、彼らはガイドを商売敵として敵視するため事後の説明になったとのこと。このからくりを知るコーマール君の心に、私は要求すべき対象となったようだ。「餓鬼(の心)になったんじゃね」の同行者の言葉に、餓鬼の心を起こさせた自らを深く反省。7時出発。

車で尼蓮禅河の橋のところまで戻り、岡側へ数分。77分、スジャータの家があったという跡に立つストゥーパの北側へ到着。上には菩提樹が立つ。考古学者が発掘した断層を見つつ、その遺構の上に往時を想像して再現されたストゥーパへ登る。朝もやの中、東北東方向に浮かぶ山を前正覚山との説明があったが昨日、象頭山から大塔へ向かう道で見た山の形と違うような気がする。南南西方向にはブッダガヤ大塔が見える。さきほど訪れたスジャータ村の寺院は東南方向。ここで川﨑さん放鳥、浅井先生も父母のため放鳥(放生)。1かご200Rs。放した鳥は、ストゥーパの菩提樹にとまり、また捕まえられるそうだ。ちなみに明日のガンジスでは魚バケツ1100Rs程度。ついつい彼らの労働の費用対効果を考えてしまう。

ここでも学校への寄付を求められる。寄付のお金は自分たちが鉛筆などに変えて子供たちに渡すから大丈夫とのことであるが、今しがたの例もあり疑えばどこまでも疑惑が生まれて苦しくなるので、今はしないことに。それでも、帰国してから(情報を集めた上で)の送金方法を打診すると、お金の送金はインドでは泥棒が多いので駄目と即答。Webサイト入の寄附申込書であったが、やはり現地を知る信用できる人を通じるなどの方法でないと無理だと改めて認識。734分出発。8時前、ホテル帰着、朝食、荷物だし。

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40分、バス出発、数分。ブッダガヤ大塔に参拝。入口手前で川﨑さんは花の供物を購入(5Rs)し、大塔にて釈尊へお供え。大塔左側の外ではスリランカの僧侶が説法。金剛宝座傍の仏足石を礼拝。ケースに納められており、触れることはできなくなったが、勝手に拓本をとることも防げるということか。その仏足石のケース上にお供えしてある薄紅色の蓮華は甘い香り、川﨑さんがウトパラ(青蓮華)と説明。

金剛宝座の区画は鍵がかかっているが、各々菩提樹に触れる。ブッダガヤは、紀元前3世紀アショーカ王が釈尊の降魔成道の地として整備したもので、現在のブッダガヤの菩提樹の所からは、かつての菩提樹の根の株の部分が発見されたとのこと。現在のブッダガヤの菩提樹は、釈尊当時の菩提樹の孫にあたるとのこと。アショーカ王の王子マヘンドラがブッダガヤの菩提樹(の子にあたる)3本を教えとともにスリランカへ植え、その子に当たる菩提樹(釈尊の菩提樹の孫)が約100年前にこの地に植えられのである。なおスリランカでは2300年を経た現在もマヘンドラの植えた菩提樹が残っているとのこと。

大塔側面には釈尊の歩みを表す蓮華台の彫刻が、歩幅間隔で並ぶ。大塔内参拝。帰りに入口の書籍販売所(bookstore)で世界遺産ブッダガヤ(250ドル、35ドルなど)に係るガイドブックを購入。チベット仏教の本などいろいろ置いてある。バス出発時にバスの窓ごしに菩提樹の葉を加工して葉脈だけにしたものを購入。100枚あるというがとても足りなさそうなので、浅井先生が偽物と指摘する仏足石拓本をあわせて購入し、偽物の作例として浅井先生へ差し上げる。

9時半ブッダガヤを出発。940分、ホテルでトイレ休憩の後、950分、ベナレスへ向けて出発。計画では、学生に経験させるため列車に乗る予定であったが、バスでアジアハイウェイを移動しても同じくらいの所要時間、しかも列車は昨日3時間遅れの運行、ついでにバスはベナレスの会社に戻るのでそこまで契約したほうが運転手が喜ぶとのことで、計画を変更。ちなみに、ガヤ(GAYA)空港からは、タイやブータン(世界初の禁煙国)へ国際便も出ているとのこと。

1241分、ササランという町にて露天のブドウを購入(35Rs)。自然渋滞で13時過、町を抜ける。時折道路工事中でゆっくりとなるが、高速道路を快調に移動。13時、チェーン店のドライブインA1plazaにて昼食。弁当(チキン、ゆで卵、サンドイッチ、マンゴージュース、じゃが芋、フルーツケーキ)に、ドライブインのロッティ(ナンよりやや固い)、ダルカレー、そしてさきほど購入のブドウ。残り物は店員が敷地境界の有刺鉄線まで行き、向こう側の子供たちへ。1420分出発。1518分通行税、1618分検札、16時半シヴァ神の有名な寺院や大学のある町を通り、17時、バラナシーの土産物屋に到着。織物実演を拝見。買い物。バラナシー(ベナレス)とは「バルナ(水天) +アッシー=バルナシー(二つの川の間の町)」。18時半出発、ホテルまで2分。浅井先生、からしなの芥子(がいし)購入を依頼。

各村々の辻には、祠があり、神様を祀っている。シヴァ神、ガネーシャ神、ハヌマン神、等等。祈る人たちの願いも様々であろう。かつての参拝で、私たちは単なる社会見学といった認識で、ヒンドゥー寺院を詣でたりもしたが、仏弟子(釈尊の弟子)・弘法大師の弟子であるとの自覚を常にもっていないと呑みこまれてしまうインドの力強さ、そして自らの弱さを知る。

19時半食事、トラベルサライではホテル宿泊の最後は「旅のデザート」と位置づけ(デザート次第で思い出の質が良くなる)、毎回最後の宿泊ホテル夕食の飲み物をサライのおごりとしているが、今回は翌日にサールナート参拝を控えているためアルコールはご法度。ジュースサービスとしてラッシー(ヨーグルトジュース)とフレッシュジュース。ベナレス(Varanasi)、ラディソンホテル(Radisson Hotel)


310(
445分起床、515分集合、出発。
5時半、ガンジス河見学のため、未明のガートから舟に乗る。川に流す灯明を売りに子供が来るが、サライで一括準備のため購入せず。未明の川面に舟の影と灯明の明かりがいくつも浮かぶ光景の中、私達も舟に乗る。灯明を川に流す供養。610分、日の出。放生の魚を浅井先生、矢田部先生、慈良など順次求めて放流。値段は舟の左右に売り子が来たら安くなる。洗濯する人、沐浴する人。瑠美子さんの宿で今回も呼んでみる。船はターンして乗船したガートを越え、火葬場の風上にて上陸。路地を抜け、人力車でバスへ。

755分、ホテルへ戻り、朝食。私は朝から腹調不良。パンとオレンジのみにする。今までの経験から腹中の菌の繁殖と弱った胃腸を休めるには、食べないのが一番治りが早いと判断。

820分出発、サールナート迎仏の塔を拝見の後、サールナート(釈尊初転法輪)鹿野苑のスリランカ寺院参拝。ご供養。参拝後、オレンジ色のパリッタを結んでもらう。
10時過、博物館見学。現在はカメラ厳禁。袖の下を使って目をつむってもらうことも今はできないし、直接触れないようになっている展示もある。入口すぐに展示の有名なアショカ王の獅子柱につき、土産物屋は4方の動物の順番を適当に彫っているので、今回確認したところ次のとおり(だったと思う。日本国内なら東大寺にも獅子柱が摸してあるのでそれで再確認かな)。皆さんのお土産品はいかがかと思う。
  象
虎   水牛
  馬
また奥の展示室で、一番美しいとされる結跏趺坐の釈尊像拝見。下部には法輪と5人比丘、婦女子を刻す。その婦女子を制作者の家族とする説、スジャータとする説あり。二グローダの赤い色=子を授かる祈りにつき、スジャータは、祈りに行って釈尊に出会い粥供養して子供を授かったと伝える。インドの習俗にあわせた説話解釈。現在、八相図は海外とのこと。博物館の隣、ダメーク塔のある鹿野苑のサールナート遺跡見学。

バスで移動。芥子を頼んでいたサチコの店(数珠屋、インド人の夫と日本人の妻)へ。
1140分ホテルに帰り、荷物出しをして1335分出発。1414分空港着。16時搭乗。1622分、空路9W724便でデリーへ。機内食。1818分デリー着。デリー市内への往復の時間はないので夕食は取りやめ、空港で待つことに。1945分出国手続き。21時過ぎ手荷物検査。出発が遅れ、2345分搭乗。インド航空AI314便で現地時間011分離陸。帰国の途に。機中泊


3月11(
4時半、香港着陸。1時間ほどで離陸。日本時間1247分(インド時間917分)、関西国際空港着。入国税関の後、1315分、解散式。家路に。

帰国後、奥の院はじめ各所に御礼参り。


写経
参拝者には浅井先生が事前に写経を勧めており、今回は浅井先生、歸山氏、細川氏(50巻余)、私など多数持参し、仏跡にお供へ。釈尊の身体を、その肉体=色身と、釈尊の説かれた法=法身(ダルマカーヤ)に分ける考えがあるが、個々の経典は、釈尊の法身の凝縮した姿といえる。誤解を恐れずに言えば、写経は法身を写すともいえ、法曼荼羅書写ともいえよう。

写経は、現在は奉納する事例が多いが、それだけではなく歴史的にみれば、経典の受持・仏法の流布に密接に関わっている。般若経典・法華経等の「経典受持」、簡略に言えば、仏舎利を納める仏塔に直接参ることができない者でも、法華経を受持し、経典を祀る廟塔を建って供養すれば、仏が現れ、仏の加護を得、救われるという。この信仰は、経典を大切に持つ者にとって、仏が常に一緒におられるという喜びを生じる。これは経典のみではなく、法身偈にもいえると、帰国後に浅井先生より教示あり。

高野山で唱える法身偈には「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」があるが、宗派や経論によって訳文は異なっており、その始原は、釈尊の弟子(五比丘の一人アッサジ)が舎利弗に釈尊の教えとして縁起の法を説いた縁生偈(縁起偈・舎利弗法身偈)であり、その偈を聞いた舎利弗は目犍蓮とともに釈尊に帰依した話で有名である。また法身偈を書いた紙も舎利(に匹敵するもの)として仏塔に納められたという。(また研究者は、大乗仏教のグプタ朝~パーラ朝には仏像に法身偈を刻んで、仏像もまた縁起によって生じる空性と認識した上で、その形にとらわれる(偶像崇拝)ことなく、仏の心を表す相としての仏像を作成した説を述べる。)

仏跡地清掃
浅井先生が、霊鷲山のゴミ問題の現状を憂い、ボランティア清掃を決意。
インドの線香や数珠などの土産物のパッケージがナイロンになったが、売人たちはその及ぼす影響について教育も受けておらず理解もしておらず、インドのみならず日本等海外の供物のパッケージなどを、その場その場に捨てている。仮に教育・理解を啓発したとしても、日本国内の状況(個々人が「ちょっと位」と捨て、あるいは「見つからなければ」と不法投棄)を考えると、難しい。そこで、まず一旦綺麗にするということ、そして日本人が清掃という体を使って行動を示すということ、綺麗にした状態を継続することに価値を見い出す仏教徒がいることを示すことが大切。エベレスト登山家が登頂成功から清掃登山に目的を変えた例は有名。

釈尊の聖地を聖地として清浄のままに後世に伝えていくため、報恩謝徳の行動をはじめたいという、浅井先生の熱意に柴野さんも賛同。日本人の清掃参拝団ならびに現地の人を雇って(その結果、ゴミが捨ててあれば雇用の創出につながるので捨てる者もでるかもしれないが、まず行動を開始)、サライの儲け薄利にて協力することに。その第1回は20081月から3月のいずれかを予定。

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