直線上に配置
フレーム

アスンタ
ーグレゴリオの妻−

表題: アスンタ−グレゴリオの妻−
   −『資料ラテンアメリカ』第36号−
著者: R・バルデラマ、C・エスカランテ
訳者: 青木 芳夫
発行日:2003年8月2日

家族の死
 私がもう乙女になり、血の病気になりはじめた頃[初潮]、姉のフリヤナがルンドゥバンバ村の男と結婚した。彼は、結婚すると、姉を自分の村に連れていった。そこで姉は、夫のそばで、畑を耕したり家畜の世話をしたりして暮らしていた。結婚して5年が過ぎたとき、その村では次から次へと人が熱病のために死んでいるというニュ−スが私たちのところに伝わってきた。姉ももう死んでいた。姉にはそのとき3人の子供がいたが、子供もまた同じ悪疫のために死んだ。これを知ると、私の父は、ルンドゥバンバへ行って、[死後]8日目の衣類の洗浄に加わった。父は2週間して戻ってきたが、帰宅して2日目に発熱した。こうしてペスト熱がやってきた。この悪疫にかかると、胃が焼け、頭が我慢できないくらいに痛くなった。そして、人々は死んでいった。父の熱病に祖母が感染した。祖母は、胃が焼けるようになって2日目に死んだ。それ以上、持ちこたえられなかった。祖母が死んで、熱病は兄のフワニクに飛火した。彼はすでに若者だった。兄はたった4日間しか熱病に持ちこたえられなかった。フワニクは、「頭が燃えている」と叫びながら、狂い死にした。
 もっとも長く熱病と闘ったのは父であり、お腹が焼けるようになってから6日目に死んだ。我が家におけるこの出来事のせいで、1週間もたたないうちに、村人たちはみんな、「伝染病だ」といいながら、家から逃げていった。
 村人たちは畑に行って暮らした。牧草地に行ってしまった村人もあった。我が家はクニパタにあった。そこはもうサンヘロニモ村のはずれにあり、パタパタ農園に通じる道のふもとにあった。我が家にペスト熱が発生したことを村中の人が知ってしまうと、もうだれもこの道を通ろうとはしなかった。みんな、恐がったのだ。他にもこのペストで死んだ人があったことを思い出す。我が家から感染したことは確かだ。しかし、予防接種のせいだ、と人々は言った。確かに、我が家にペストが発生し、人々が死にはじめたときには、クスコから予防接種をする人がやってきてはいた。しかし、予防接種を受けた人にも熱病が発生し、多くの人が死んだ。接種を受けた人が死ぬのを見ると、もはやだれも受けようとはしなかった。だれも受けたがらなくなったので、受けさせるために警官がやってきて、人々を囚人のようにむりやり捕まえた。これを見ると、みんなは接種者の手から高地へと逃げ出した。

農園で働く
 父も兄も熱病のために死んだので、ドミニコ会派のパタパタ農園に働きに行ける者はいなくなった。私たちは、3トポのトウモロコシ畑と2トポの小麦畑をそこから借りていたのだった。小麦畑は天水畑であり、農園の高地にあった。そこで4年毎に小麦を耕作し、残りの年には休閑にしていた。これらの耕地のために、農園の土地で耕作していた小作人はみんな約束をしなければならなかった。約束とは、トウモロコシ畑1トポ当たり、毎月6日間農園のために無償で労働し、毎年1ヵ月間のポンゴ[農園主の邸宅で貧農が提供する私賦役]−トウモロコシ畑1トポ当たり−を提供することだった。小麦畑を利用していたならば、毎月1トポ当たり3日間の無償労働と毎年1ヵ月のポンゴを約束させられた。小麦畑のためにポンゴとなることは簡単だった。農園では20頭以上の犬のための食事を、2人のポンゴが−12時までの午前中か午後の間に−用意するだけであった。そのためには3交替制であった。ここの犬は、神父たちのように、1日に3度食事する習慣だったからである。こうして、農園では、すべてのためにポンゴがいた。農園内でポンゴが余っていたら、クスコの修道院へ派遣して、神父たちの世話をさせた。ここのサントドミンゴ修道院にはたくさんの小作人がポンゴとしてやってきた。ある者は、神父全員の衣類を洗濯する洗濯係だった。またある者は台所の手伝いや掃除係であった。修道院にポンゴとしてやってきた者は、1ヵ月の滞在のためにベッドをもってやってきたし、来なかった者も修道院に派遣されたがった。ここでは食事も提供され、労働もそれほどきつくなく、農園のような監督による監視もなかったからである。
 小作人とはそういうものであった。農園のための労働ばかりであり、自分の畑を耕作する日などなかった。そのかわり、農園に働きに行くためには、毎日管理人がやってきて、働きに行く場所や鍬や鋤の刃を置く場所を告げた。これは、人々がどうしても働きに行かねばならないように仕向けるためであった。監督が鍬や鋤の刃を置いておいたにもかかわらず働きに行かなかった場合には、労働した日数から2ないし3日が差し引かれた。しかも、管理人の管理日誌で失った日数とは別であった。つまり、3トポの土地のために3週間働かなければならないとすれば、4、5週間働く結果となった。働いた日数でも帳簿の上では失われたことになっていたからであり、毎月、1年中、農園で働いて過ごさなければならなくなる理由であった。
 これらの神父たちも同じようにしたものであった。なんという恨めしい時代だったのだろう。こうして、農園のために働かねばならない日数が増えはじめ、管理人もまた人夫を派遣せよと迫りはじめた。管理人がやってきて私の母に人夫を出すように毒づくたびに、母は泣きだし、私たちもまた、母を取り巻いて泣きだすのだった。
 私たちは5人兄妹だった。ペストで死んだ兄と、4人の娘だった。私は三女だった。そしてみんな女だったので、農園には人夫として働きに行くことはできなかった。そこで母は、修道院に行き、修道院長と話し、母と姉が農園で働けるように頼んでみた。管理人が女性を働かせることに同意しなかったからである。院長はこう言って受け入れた。
 「あなたは女性だし、人夫としては働きに行けないから、1トポはあきらめなさい。そ
して娘さんは料理女として修道院に来て、あなたは農園で働きなさい。」
 母は、泣きながら帰ってきた。「トウモロコシ畑は、1トポ取り上げられてしまった。」
 1週間がすぎ、姉のフスティ−ナは、神父たちの農園に料理女として入らなければならなくなった。母と私たちは、農園に行かなければならなくなり、こうして苦しみの日々が始まった。私たちは約束のために農園に行かねばならなかったし、自分たちの畑や家畜も見なければならなかった。もう、どうにもやっていけなくなった。母は気が狂って、気難しくなり、私たちのすることには何も満足しなくなり、私たちを叩くようになった。私たちの髪はもう髪ではなくなった。私たちが母の満足のゆくようにやれないときには、髪の毛を捕まれては壁に叩きつけられたからである。

牛の乳を絞る
こうして、母は、乳牛のポンゴになった。乳牛のポンゴは2人いて、毎日、ヒョウタンに80頭以上の乳牛の乳絞りをしなければならなかった。絞った牛乳の一部は修道院用に残し、残りはクスコの得意先に配達した。帰ってくるのはもう夜だった。母は女性だったので、ヒョウタンに牛乳を絞るだけにして、他の者がクスコに持ってくればよい、と言われた。毎朝、早くから、急いで乳絞りを始めた。乳絞りだけで疲れ切って、背中が疲れのために割れるように痛み、私も母を手伝った。そのうえ、霜の季節になっていたので、乳牛の乳首はひび割れて出血していた。確かに、そうした傷が痛かったのだろう。ときどき、意地の悪い乳牛はジャンプし、ほとんど牛乳で一杯になっていたヒョウタンを蹴った。母は、地面の牛乳を見ると、私をバケツでぶった。少し痛かっただけだったが、頭から血が流れているのを見て、私は、気が狂ったように叫びだし、私が叫んでいるのを聞き付けたのか、一人の神父が走ってきた。そして地面の白い牛乳を見ると、母に言った。
 「ああ、性悪な女、馬鹿、何をしてくれたんだ!」
 監督もやってきた。このキリスト教徒は私の母をしっかり懲らしめた。
 「犬め、馬鹿!これは弁償してもらうからな。罰として9日間の労働。さあ!」
 そして、帳簿に書き留めた。こうして、母は、働いた9日間を無駄にした。なぜだか知らないが、小さいときから、私はちょっとした切傷でも、血が止まらなくなった。そして、私が叫び続けていたとき、母は憤りでカッカして、私を地面に打ち倒した。私の口は牛の糞で一杯になった。
 「もっと叫んだら!」と、言った。
 なんとか、私は逃げ出した。しかし、かわいそうな母は、私が振り返ったときには、大泣きしながら乳絞りを続けていた。神様、お許しください。その日、私は、母親をこの苦しみのなかに置き去りにしたまま、クスコへと逃げてしまった。きっと、こう考えたのだろう。「今、私が家に帰ったら、どうされてしまうだろう。」
 すぐさま、私は畑に行って、隅に大きくなっていたソラマメを集めた。そして畑から収穫した一包みのソラマメを背負って、クスコへと歩きだした。ちょうど、ソラマメを売りに、商売に来る人のようだった。

クスコに出る
 こうして、このような状態のまま、私ははじめてクスコにやってきた。あのような苦しみから逃れ、ここならましだろう、と考えた。
 クスコに着くと、中央市場でソラマメを売った。悪いことに、売ったあと、どうしたらよいのか、どこへ行こうか、分からなかった。日が暗くなってきて、泣きそうになった。しかし、ここで、きっと聖霊のお導きによるのだろう、一人の婦人と出会った。彼女は、私を家に連れていって、女中にした。その婦人は、ウルコスから1日の距離にあるリュリュチャ村の教師だった。クスコに1ヵ月滞在したあと、私たちはそこへ行った。その学校で私は、その教師の世話をしたり、料理したり、3人の子供のお守りをした。
 しかし、この女教師のもとでも、苦しみは続いた。学校は高地にあった。寒さと積雪、そしてほとんど毎日降る雹のために、私の手足はひび割れはじめ、血が流れた。この女教師は非常にけちで、気難しかった。私のすることには少しも満足しなかった。まる一日中子供たちをおんぶしているように望んだ。無垢な天使たちはわがままではなかったが、おんぶされているのに慣れていて、そのため何度もつねっては泣かせた。そのときだけ、女教師が子供たちをあやすのだった。
 この婦人は、まるでお店のように、学校の中になんでも持っていた。コカ、砂糖、ロウソク、灯油、トウガラシ、タバコ。他の村からも人々が食料と交換しにやってきた。ジャガイモや[凍結乾燥ジャガイモの]チュ−ニュやモラヤを少量の塩や砂糖やコカと交換した。けっして売らなかった。お店に持っていたものはすべて、交換するためだった。こうして、彼女一人が村中の生産物を100%集めた。そして自分の生徒たちに、30ないし40頭のリャマでウルコスの駅まで運ばせた。そこからクスコへと運んだのである。
 彼女の家は倉庫のようであった。この女教師は商売上手だった。子供たちにちゃんと読み書きを教えていたのか、思い出せない。商売にかかりきりだったからであり、畑は自分の生徒たちや、たくさんいたアイハ−ド[名付け子]たちに耕作させていた。この女教師はその村に10年以上もいたので、村人の大半がアイハ−ドだった。これらのアイハ−ドやその他の村人の中から学校の運営者を女教師が選んだ。この運営者は、女教師の代理として学期の間中いなければならなかった。運営者になることは、学校のカルゴ〔本来は宗教儀礼上の役職〕を果たすようなものだった。これらの運営者たちはまた、村人全員から1家族当たり−端から端まで順番に−3週間ごとに1頭の羊を提供させるようにさせられた。その代金として2ソルと3束のコカが支払われただけだった。この肉のうち、ほんの一部が食べられ、残りは干し肉にしてクスコへと送られた。
 以上のようなことを、この婦人の学校にいたときに、私は見た。学期が終わると、終了の日に、私たちはウルコスの駅へとやってきた。生徒全員が、肉やジャガイモや羊毛を背負って同行した。この荷物全部と一緒に、私たちはクスコに着いた。彼女の家で2週間がたったとき、ある日、私は太いスパゲッティを買いにやらされた。しかし、店の女主人は細いスパゲッティをくれた。そのスパゲッティを持って帰ったら、女教師は私の両耳を引っ張って、どなった。
 「うすのろのインディオ女め!この耳は聞こえないのか。太いスパゲッティと言ったん
 だ!」
 そして泣きながら、痛みのために耳も聞こえないまま、店へと戻った。スパゲッティを替えてもらうためだった。店の女主人は、私に言ってくれた。
 「ねえ、娘さん。きっとおまえの女主人はぶったんだろう。よかったら、ついていって
 あげよう。」
 そのとき、今まで酔っていたかのようだったが、店の女主人の話を聞いて、我に帰った。女教師はよこしまで、私を虐待し、殴ったうえに、支払ってもくれない。そのうえ、旦那さんも悪魔で、女教師の留守の間に3度も私を犯そうとした。その瞬間、スパゲッティもみんな持って、他の女主人の家へ行ってしまった。
 今度の家で、ようやく私自身のための人生が始まった。この婦人はマリア・ペレスといい、本当によい人だった。サンブラスで、ある神父の家の3番目の中庭に暮らしていた。私がしなければならないことはみんな、親切に指示してくれた。大声を上げることも、侮蔑することもけっしてなかった。よくしてくれたので、私もまた自分からあれこれと世話してあげた。料理に、家の掃除、みんなの衣類の洗濯までも。11人以上もいたのだ。子供は女ばかりで、9人だった。9人のうちの長女はサンセバスティアンで教師をしていた。この長女のおかげで、私は文字を習った。長女の住むサンセバスティアンに眠りについていったときに、その夜、彼女は私に教えてくれた。今でも、読む文字の意味を理解することはできないにしても、目に入るものはまだ一字づつ読むことができる。
 我が家から失踪してからもう2年以上がたとうとしていたある日、母が、まだみんなが寝ている間に、早朝に姿を現わした。私だけが起きていた。中庭を掃除しようと準備しているところだった。そのとき、犬が吠えはじめた。何が起こったのか、見に、外に出た。母と姉のフスティ−ナだった。私を見ると、二人は満足顔になり、泣きながら抱きついてきた。
 「恩知らずめ、自分の母親が好きでないのかい」と、私に言った。
 私は言い返した。
 「ここのほうがいい。」
 母と姉は、座り込んで、女主人が起きてくるのを待った。そして、朝食がもう冷えてしまった頃に、女主人が出てきた。私は告げた。
 「母と姉です。」
 女主人は、母に言った。
 「ずっとあなたにお目にかかりたいと思っていました。娘さんは、私の家でも1年以上
 になります。苦しめたりしていませんし、この家では私の娘のようにしています。足り
 ないものはありませんし、支払ってもいます。」
 女主人が母に言ってくれたことのすべてに、私は満足だった。母も姉も、私がここで苦しんでいないことを理解して帰っていってくれたからである。去るときに、子供たちはたくさんのパンとかなりの砂糖を持たせてくれた。私に払ってくれた給金は毎月15ソルだった。私は135ソル貯めていた。この給金の中から、私は母に100ソルを渡した。このお金で、数ヵ月後、私たちの叔母にあたる母親を埋葬するためにお金が必要だった叔父から1頭の役牛を購入した。その時以来、母と姉は、クスコに来たときには必ず私のもとを訪れるようになった。
 この家では私によくしてくれたが、昼も夜も、元気なロバのように働かなければならなかった。料理したり、洗濯したり、家の整頓をしたり、夜には深夜までアイロン掛けをしたりした。フウフウしながら。炭火のアイロンだったから。子供たちだけは、私のアイロン掛けにも料理したりしたものにも満足しなかった。
 この家では、食事は制限されていたが、足りないことはなかった。衣類にも困らなかった。子供たちが古くなった衣類をくれたからであり、私も繕っては最後まで使った。

最初の夫エウセビオと暮らす
 この家で女中として5年がたったとき、サンクリスト−バルのコルプス〔聖体祭〕の8日目の祭りで夫のエウセビオ・クリワマンと知り合った。彼とは14年間暮らし、7人の子供をもうけた。3人が男で、4人が女だった。そのうち、7ヵ月で生まれた娘のカタリ−ナだけが生きている。
 夫のエウセビオと暮らしはじめたとき、私はすでに、サンフアンの祭りでリュリュチャの学校にいた時以来、男と一緒になるとはどういうものか、知っていた。6月に、羊を祝うために、大きな祭りがある。サンフアンの前夜祭では、すべての持主が、笛と太鼓の鳴り物入りで、焚火をした。こうして、お酒を飲んで、その夜は羊を祝った。翌日、早朝に、まだ酔いが残ったまま、持主たちは、雄も雌も、子羊を捕まえては、1対ずつ並ばせて抱きつかせた。持主たちは呪術により香を吹き掛け、アイハ−ドたちは潅水をしてつがいの羊にコップでお酒を飲ませた。これが羊の結婚であり、サンフアンの日に行なわれた。
 学校で働いていたので、知り合いになっていた学校の副校長に連れられてこの祭りに出掛けた。ここでは羊の持主はみんな一晩中家畜囲いのところで一緒に踊ったり飲んだりしたので、私にもたくさんの酒をむりやり飲み干させた。このずるかしこい副校長はどんな呪いをかけて私にお酒を飲ませたのだろう。私はたちまち酔い潰れてしまった。手や足は死んだようになり、動かせなくなり、口もまた縛られて、話せなかった。もうだいぶん夜も更けて、みんな酔っ払って歌っていた。そして私の面倒を見てくれる人もいなかったので、ほかの家畜囲いの小屋へと、まるでジャガイモ袋のように担がれていった。そこで私は犯され、男とはどんなものかを知った。それは、私が血の病にかかりはじめてから2年以上がたったときのことだった。
 はじめて出血したとき、私は驚き、泣きだした。というのは、分別がつくようになって以来、私は、血を見ると怒り叫び声を上げるコヤ〔アルティプラーノ出身の先住民女性〕のようである。そしてその時は痛むこともなく、なんでもないのに出血を見たので、私は驚いてしまい、どうしたらよいのか、わからなかった。出産するのだ、と考えたくらいだ。というのは、その数ヵ月前に畑にいたときに、抜け目のないチョロが私を茂みの中に引っ張りこもうとして、「おいで」と言ったからだ。
 私は、そのとき、たぶん妊娠したのだろうと考えた。妹が母から出てきたとき、二人とも血まみれだったからである。出血が3日も続いたのに、感づいてもらえないので、私は泣きながら母に告げた。
 「このように出血しているんだけれど」と、言った。
 母は、私が話したことにも気を留めず、それはメンスだと言っただけだった。姉の女友達に質問して、私は、メンスというのは何のことか、知った。
 マリア婦人の家にいたときに、私は妊娠した。7ヵ月になるまで私のお腹は知られなかった。追い出されるに違いないと思った私はいつもショ−ルをかけ、帯でしめつけていたからである。しかし、食欲がなくなり、お腹が目立ってくると、ある夜、衣類のアイロン掛けをしていたとき、この婦人は近付いてきて、言った。
 「ねえ。」
 彼女は帯を見付けた。そこで、だれの子なのか、どうしたのか、と私に問いただしはじめた。私は泣きだしただけだった。こうして4日間というもの、私に質問しつづけた。
 「だれの子なんだい?だれの子なんだい?話しなさい!」
 私は一言も口を割らなかった。4日間一言も話さなかったので、この婦人は泣きながら疑い始めた。
 「言いたくないということは、やっぱり夫の子かい?」
 そこで、4日目に私は告げた。彼らはエウセビオを呼びにやらせた。家にやってきたとき、婦人は言った。
 「ずる賢い奴、私の家をこけにしてくれたね。妊娠しているよ。おまえは結婚しなけれ
 ばならない。そうでなければ、監獄にやるよ。」
 エウセビオは、言った。
 「はい、結婚します。」
 こうして、2ヵ月がたったが、私はその家にいつづけた。しかし、ある夜、みんなが結婚式に出掛けているときに、陣痛が来た。私一人が留守番をしていた。夜はアイロン掛けをする衣類がないときはなかったので、アイロン掛けの最中だった。その時、痛みが始まった。最初、こう思った。
 「いつもの痛みだろう。」
 しかし、そうではなく、痛みはだんだん強くなり、私は床につっぷした。痛みで身がよじれた。その夜は、家には人っ子一人いなかった。飼犬が、痛みの始まる前に、遠吠えしていただけだった。だから、それは悪い前兆だったのだろう。その夜、私はといえば、あの世に行ってしまいそうに、痛みのために身がよじれた。しかし、聖霊のおかげで、赤ん坊が生まれてきた。まるで体に刺さった針がとれたようだった。哀れな天使は私の足の間で泣き声を上げ、出血のために窒息してしまいそうだった。7度の出産のうちでも、それは最悪だった。きっと、その夜に私の罪の一部を償ったのだろう。私は起き上がることもならず、身体中が石のように重く、痛んだ。臍の緒を切るべきものもなく、そこで力一杯捕まえて、リュウゼツランを引き抜くように引っ張った。まさにこうしようとしたとき、きっと私の叫び声を聞き付けたのだろう。最初の中庭の門番だったアンタ出身の女性が入ってきた。彼女が私を助けてくれて、マテ茶を飲ませてくれた。
 私の最初の出産はこのようなものだった。ようやくあの私の夫が2日目にやってきて、サンタアナにあった自分の部屋に背負っていってくれた。そこで私たちは暮らし始めた。 夫は、行商をしており、村村に商品を運び歩いていた。針、ボタン、糸、包丁、自分が作ったタイヤ製のサンダル。彼が旅をし、私は部屋に残った。こうして、最初のうちはみんな順調だった。
 息子のマリアニ−トが1才を迎えようとしていたとき、ひどい咳になり、死んでしまった。私は自分一人で息子を埋葬しなければならなかった。夫は商品を持ってヤナウカの道を旅していた。息子の埋葬の1週間後に帰ってきた。あの時から、夫はすっかり変わってしまった。旅先の村々で知り合った女たちにそそのかされたのだ。夫は酔っ払って、私を殴るようになった。私が天使を殺したのだ、と言った。その時から、私たちの人生はもはや以前と同じではなくなった。夫は旅を続け、私もまた洗濯女として知られるようになった。こうして私は自分の飯代を稼ぐようになった。夫は1銭もくれなかったし、自分が稼いだお金を見せてもくれなかった。
 そうこうするうち、私は2度目の出産をした。今度の赤ん坊は女だった。今度も、1才になる前に死んでしまった。きっとガスがたまったのだろう。泣き止まなかった。そこで私は病院に連れていった。マンサニ−ヤ茶に溶かして飲ませるように6錠の薬をもらった。しかし、効き目がなかった。それどころか、薬がなくなると、泣きながら死んでいった。だから、私はこう考えたほどだった。
 「毒をもらったのかしら?」と。
 その赤ん坊が死んだときも、夫は一緒にはいなかった。旅先にあり、アヤビリ辺りで商品を仕入れていた。その時以来、もう夫のようではなく、客人のようだった。帰ってきても、すぐ商売に行ってしまった。こうして、私は、夫が旅している間、独りぼっちにされた。私は、サンタアナの坂道の食堂に料理女として雇われた。夫は一人では旅せず、行商の連れがいた。この飲み屋にいろんな噂が届くようになった。夫も友達も女好きだとか、行く先々の村で酔っ払っているとか。そのため、旅から帰ってくるたびに、夫は私を見張り、最悪の敵のように叩くのだった。そして1度は、パウカルタンプの道中から帰ってきたとき、こう告げられた。
 「おまえの夫が角で酔っ払っているぞ。」
 私はすぐに部屋に行ってみた。部屋に着いたとき、夫も友達も酔っ払って歌っていた。そして私を見たとき、まるで毒でも見たかのようだった。夫は私をにらみつけ、叩きはじめた。友達の行商人は、私を引き離してくれるどころか、はやしたてた。
 「もっとやれ、馬鹿!もっとやれ、馬鹿!」
 夫は疲れ切るまで、私を叩いた。私は蹴られたために、5ヵ月になろうとしていた3番目の子供を流産してしまった。この友達の行商人が私を引き離してくれていたなら、助かっていただろう。しかし、神はお裁きになった。このろくでなしは、悪い最後をとげた。
友達はリマタンボ辺りの出身で、ドナト・マイタという名前だった。アルムデナにある空き地の世話係として母親と一緒に暮らしていた。彼が旅に出ている間、もうだいぶん年取っていた老母は、空き地を世話して一人暮らしだった。カルナバルのために商品を持って旅をしていた。彼は、例にもなく一人でヤウリ辺りを旅していた。しかし、雨のためか、酔っ払っていたためなのか、知らない。1ヵ月近くも彼は旅から戻ってこなかった。この哀れな者が1ヵ月近くもたって商品を仕入れて旅から戻ってきたときには、母親はもう生きてはいなかった。家は、戸口まで、腐った肉の臭いがしていた。部屋の扉を開けたときには、母親は死んでいて、地面につっぷしていた。虫が湧いていて、鼠が足のあたりをかじっていたという。ドナトは、これを見ると、足の先から頭のてっぺんまで驚いて、叫びだし、大笑いしはじめた。こうして、彼は気が狂った。彼が狂人のように通りを徘徊していたとき、リマタンボにいた彼の姉がやってきた。それから、彼はどうなったのだろうか、狂い死にしたのだろうか、それとも治ったのだろうか。気違いは、黒い犬の頭のス−プを塩抜きで飲ませて治す、と言われる。
 あの恩知らずのドナトがいなくなってから、夫のエウセビオは旅の連れがいなくなり、1ヵ月近く旅に出なかった。その代わりに、私を挑発した。
 「おまえは何の役に立っている?馬鹿。家で吠えてばかりいる雌犬なんかいらない。何 
かの役に立ってみろ、馬鹿!」
 こう言っては、私の髪を引っ張った。私はあほだった。その瞬間にも、女主人のマリア・ペレス婦人が言ってくれたことを思い出したのだ。
 「キリスト教徒の女としてその男と一緒になったなら、死ぬも生きるもその男と一緒だ
 よ。」
 そこで、サンタアナの坂道の仕事を止め、私たちはオコンガテへと商品を背負って旅に出た。ここからパウカルタンボへ、パウカルタンボからウルコスへと抜けていき、そこから村から村へと渡り歩いた。シクアニまで商品を売り歩き、旅が1ヵ月に及ぼうとしたとき、商品も売り切れた。シクアニから私たちは列車でサンタロサまで行き、そこで夫の知り合いから買い入れた。粉、刺繍した帯、ハンカチ。これらはみんなボリビア製だった。夫の知り合いは密輸業者だった。荷物を手に入れてしまうと、私たちは他の商品と一緒に歩いてヤウリの山へと行くことにした。ここで、1週間もしないうちに商品が売り切れてしまい、夫は酔っ払いはじめ、例の通り散財しはじめた。私は知り合いたちのところに泊り、ここで飢えをしのいでいた。夫が2週間も酔っ払ったままだったとき、ある日、私たちが泊まっていた家で、アヤビリ出身の道路建設業者と知り合った。彼は、プ−ノ=アレキ−パ間の道路建設の監督だった。彼が、夫に言ってくれた。
 「おまえに仕事をやろう。私の助手になってくれ。」
 夫は受け入れた。私たちはその仕事に行く準備をした。商品を持たずに、私たちはヤウリからサンタロサへと出発した。しかし、私は途中で苦しみだした。妊娠5ヵ月だったのだ。お腹が膨らみだしていた。サンタロサで、私たちは、列車に乗り、フリヤカの先まで行った。とある駅で列車を降り、そこから湖の近くのキャンプまで歩いていった。たくさんの労働者が、妻や子供連れで働いていたが、非常に寒くて、風も切られるように吹いていた。そのためだろう。キャンプの家は地面に開けられた穴であり、亜鉛板でふさいであった。私たちにも、暮らすためにそのような穴が一つあてがわれた。こうして夫は働き始めたが、助監督としてではなく、橋梁建設の人夫としてだった。橋が完成すると、ほかの場所へ、キャンプからもっと遠くに移動した。側溝や小さな橋をつくるためだった。現場まで、私たち妻は、夫のところへ昼食を運ばねばならなかった。風が吹き荒ぶのも、ものともせずに。このキャンプでの仕事が3ヵ月以上にもなろうとしていた、ある日、私たちがいたグループに、もっと遠くに移動するようにという命令が届いた。そこはもうアレキ−パの近くだった。ああ、神様!どういう罪を犯したというのでしょう、これは?まさに、お腹がはち切れそうになっていたときだ。しかし、私たちは列車で行った。総勢50人くらいの人夫だった。この列車は、とある丘で私たちを降ろした。そこから私たちはもう一つの丘へ行った。そこがキャンプになった。この丘からは、アレキ−パの畑も見えた。このキャンプは新しくて、小屋すらなかった。監督が亜鉛板を配り、人夫たちは石の壁の小屋を建て始めた。私たちも自分たちの小屋を作った。労働は、到着した2日目から始まった。2週間目に私のマルティ−ナが生まれた。今度は安産だった。たぶん長い道中のせいで、あんまり苦しまなかったのだろう。
 夫が働いていた間、私は、夫がどれくらい稼いだのか、正確には知らない。それらのキャンプにはいつも倉庫があって、なんでもあった。食料や衣服。そして、必要なものは賃金をつけにしてもらってくることができた。また、キャンプには商人や知り合いが何でも持ってきた。肉もジャガイモもトウモロコシも。安い値段で売るためだった。料理するためには何でもあったのだ。出産後は元気になったので、私は5人の人夫を住まわせ、昼食と晩ご飯を料理しだした。もう以前のようにではなかった。自分で稼いだ小銭を自分のために使ったし、夫のポケットを当てにすることをやめた。こうして私たちはうまくいき、ましになった。私は自分の商売をし、夫は働いていた。すべて順調だった。私は、二人の間でそこそこのお金が集まるのを見て、大満足だった。しかし、日によっては、私の夫は、呪術をかけられたように、すっかり人が変わった。よくお酒を飲むようになった。最初は、酔っ払っていても、働きに行こうとした。しかし、その後は、酔いが進むにつれて、休むようになった。最後は、働きにいこうともせず、酔っ払ったまま日々を過ごし、私たちが集めたお金も使ってしまった。そのために、キャンプも、数ヵ月後には大きなキャンプに移って、お酒を欠かすことはけっしてなかった。1年以上もそこにいたが、夫は、何ヵ月も前から、もう働かなくなった。私だけが自分で商売をして、下宿人に食べさせた。下宿人の数は増えていった。とうとう、再びキャンプを移動するように命令が届いた。今度は3日間だけの距離で、アレキ−パに近かった。そして夫がもう働いていず、みんなも夫が酔っ払いであることを知っていたので、夫には何も言わなかった。お酒のせいでアルコール中毒になった上に、けんかっぱやかったからである。このキャンプがすっかり空になってから、私たちは最後に出発した。列車に乗り、フリヤカのはずれにやってきた。荷物は鍋と皿だけだった。このキャンプで私が過ごした生活については、今では何年もたったから、話そう。私はなんと役立たずだったのだろう!アレキ−パにいながら、街路さえ知らなかった。それが、役立たずということだ。そのときにアレキ−パを知るようになっていたら、私はアレキ−パを知っていると、せめて今、娘のカタリ−ナの子供たちには話すことができただろうに。

この世とあの世
 しかし、このようなものだ。この世界に存在する罪のせいで、この世で生活するというのは苦しむことだ。すべての人間は、ちっぽけな蛾から山の獰猛な聖なるピューマまで、あるいはもっとも大きな樹木や地面を這う雑草まで、みんな、私たちの先祖の時代から、私たちはこの世では通りすがりにすぎない。しかし、私たちの魂は、つまり私たちの霊は、消えてしまわない。昔の人の魂も、私たちの家族や知人の魂と同じように、消えてしまうことなく、ウクパチャ〔地下世界〕あるいはハナクパチャ〔天上世界〕であの世を過ごしている。そこでは、この世の苦しみから休息し、なにも不足するものはない。あの世には、この世に生きている私たちみんな、死んではじめて行ける。私たちの魂は裁判の日に、肉体を探して、あの世から出発するだろう。裁判の日、この世のすべての魂が、裁かれるために、ハナクパチャの主の前に肉体と魂になって出頭する。裁かれるときは、私たちは裁判所の被告のようになる。そこでは私たちの肉体は、もしもこの世で善い心の人物だったなら、主の前では、クリスタルのように透明に見える。そして、心が邪悪に満ちていたなら、私たちの肉体は、曇りガラスのように、透明ではなくて不透明になり、染みで一杯になる。この世で行なった善悪に応じて、その日に、主によって裁かれるのだ。あの世でも、罪人はいる。
 この世を去るときには、私たちの魂は主の前に出頭する。ここで主は、裁判までの間、私たちの魂がどこに行くべきかを決める。この世の魂が主を侮辱するような罪を犯して汚れていたならば、この世に戻るように宣告される。母や娘に対して罪を犯したり、両親を叩いたりして肉体を汚した魂は、拒否され、主に近寄れない。
 だから、母や娘に対して罪を犯した人のためには地獄ですら場所がない、と陰口でも言われるくらいだ。あの世から戻ってきたときには、これらの魂は、埋葬された場所から自分の肉体を取り戻そうとする。だから、家族たちが魂が汚れていると知っているときには、埋葬する前に、眉毛やまつげを剃り、足の爪は根元から引き抜き、イチュ草で手足を焼くのだ。そして、背中が父なる太陽に向くように、うつむけに埋葬し、背中のうえには重い石を乗せた。こうして罪人がお墓に戻ってきても、肉体を持っていかれないように邪魔をした。今、姉であれ母であれ、魂に肉体を汚された人は、埋葬の瞬間から注意され、8日間十字架で一杯の部屋に閉じ込められる。罪人が戻ってきて、罪を犯した相手を連れていきたがるかもしれないからだ。

鉱山で苦労する
 私たちがフリヤカに到着したとき、私は3日間も一人っきりで、飢えをしのぎ、赤ん坊と山のような鍋を抱えていた。夫は、フリヤカに着いた翌日に、最初のキャンプのとき人夫仲間だった友達と出会った。彼もまた解雇されていた。この友達と一緒に夫はいなくなった。おそらくお酒を飲むためだったのだろう。3日もたって、まだ酔っ払ったまま、姿を現わした。
 「鉱山へ行こう」と言った。
 鉱山の話は本当だった。翌日、旅の準備を始め、行商の元手としてまだ持っていたお金で、60ソルもして、コ−ルマンという商標の灯油コンロを購入した。私もまた、フリヤカの市場で、4つの使い古しの鍋のうち3つを売った。それで半アロ−バの砂糖と、1ガロンの食用油と、もう1ガロンの灯油を購入した。以上が、私たちの旅の荷物だった。私たちは列車でアヤビリのもっと先まで行き、そこから歩いていくつも山を越えた。3日の行程だった。とうとうその鉱山に到着した。コルディエラ山脈のなかのサントトマスの近くにあった。そこにも小さなキャンプがあり、たぶん40ないし50家族が暮らしていた。ここで、私たちにも小屋が住居としてあてがわれた。
 こうして、私の夫のエウセビオは、仕事に入った。翌日帰ってきたとき、地下深い坑道に差し向けられた、と言った。そのときまで満足そうだったが、その日から、気難しく帰ってくるようになった。私を再び虐待しはじめ、ののしり、料理にも満足しなくなった。食物を私の顔に投げ付けさえした。
 「雌犬め、馬鹿、犬の餌のようなものをこしらえよって!食え、馬鹿、おまえが食え! 」  
 そうして、私の顔に投げたのだ。
 きっと夫の仕事は嫌になるほどきつかったのだろう。かわいそうな夫は、いつも濡れ鼠になって帰ってきた。カ−バイトのカンテラを引きずりながら。それから、数ヵ月後には、坑道からクズ鉱を出すための荷馬車引きにかわった。夫がこの鉱山で荷馬車引きをしていたときに、息子のウバルディ−トが生まれたが、2週間で風邪を引き、死んだ。

選別工として働く
 私は虐待され続けていたし、いろんな女性が鉱山ではパヤペラ〔選別工〕として働いているのを見たので、これを見て、私もまた雇ってもらうことにした。ここでは人夫たちがバケツや手押し車で岩石に含まれた銅を出していた。外に出されたこれらの岩石を、別の人夫たちが大きなハンマ−で粉々になるまで砕いていた。そしてパヤペラと呼ばれる女性たちが銅を選別し、1級の銅と2級の銅の山にする役だった。仕事を頼みに行ったとき、監督は私を受け入れ、パヤペラにしてくれた。私は働き始め、鉱石を選別した。その仕事はのんびりしたものだった。座ったまま選別できたからである。しかし、まる1日いなければならなかった。寒さと、雨と、雪と闘いながら。それだけが苦しかった。この世で私が送った生活は、インチキだらけだった。毎月毎月働いても、けっして全部は払ってもらえなかった。2ヵ月働いたにしても、1ヵ月分しか払ってもらえなかった。だから、出ていきたくなった者も、支払いを待って働き続けるのだった。しかし、けっして全部は払ってもらえることがなかった。結局、鉱山から去っていった者は、2、3ヵ月分の労働を無駄にしたのだった。人夫に対する支払いは、1日当たり3ソル20センタボだった。日曜日はなかった。女性の場合は1日当たり1ソル50センタボだった。やはり、日曜日はなかった。私たちが掘り出した鉱石は、ラバ追いたちが、袋につめて50ないし60頭の馬やラバに乗せて道路の出口まで運んでいった。私はそこがどこにあるのか知らなかったが、鉱山から2日の道のりだと言われた。
 この鉱山での生活は、だれにとっても苦痛だった。働いてもお金は残らなかった。けれど、鉱山の近くの村々では料理するための材料はかなりあった。鉱山にいる間は、私たちはリャマの肉を食べて過ごした。なくなることはなかった。だから、私の見たところ、キリスト教徒らしくなかった。この町〔クスコ〕ではミスティの人たちは軽蔑し、こんなにおいしいリャマの肉にも吐き気をもよおすのだ。この鉱山にもまた、食料や砂糖や塩や米をツケで買える小さな倉庫があった。そのうえ、お酒を売りにくる者までおり、事欠かなかった。
 この鉱山に私は3年くらいいた。そこで2人の息子が生まれたからである。一人はウバルディ−トといい、もう一人は死産だった。その鉱山では私たち女性は必要なときにパヤペラとして雇われ、監督が望んだときには解雇された。解雇された残りの期間は、どんな商売もできなかったし、下宿人を置くこともできなかった。みんな家族連れだったからである。以上が、鉱山での生活だった。
 この男と連れ合いとなったその日から、私は泣いて苦しむばかりだった。まるで望まれなかった継子のように、自分の夫という十字架を背負って生きてきた。私をにらんでいないときは、天敵に対するよりももっとひどく虐待した。そのうえ、けっして私には自分の稼ぎを教えなかったし、私のお腹のことなどおかまいなしだった。ましてや私の着るものなど言うまでもなかった。私たちの娘のマルティナチャももう大きくなっていたが、彼女のことも気に掛けなかった。いつも着るものがなかったし、父なし子で洗礼もまだの子のようにボロを着ていた。それが私の夫だった。私や子供たちにとっては幽霊のようなものだった。私が妊娠したときにもっとかまっていてくれていたなら、子供たちもあんな無残な死に方はしなかっただろう。もう若者になっていて、きっと働いて、私たちの面倒を見てくれていただろう。夫のそばで暮らすことがかなり堪え難くなった。しかも、夫は私をにらんで体を苛むだけだった。私は、父や兄の善い魂にこの悪いキリスト教徒から引き離してくれるように頼んだ。私は言った。「一人の男のそばから離れられないなんてあるのでしょうか。手や足も、話すための口や、見つめるための目も、あるというのに?私は身体障害者でもない。この両手で料理することだってできるのに!」
夫を捨てる
 そう考えて、私は夫のそばから離れた。鉱山も夫も捨てたのだ。
 このカルバリオの丘〔夫のこと〕から逃れた日は、クリスマスの前だった。ラバ追いたちが鉱石の荷物を準備していた日だった。旅のためには、20ソルだけを隠し持っていた。灯油コンロを倉庫に質入れして、もう20ソルこしらえた。弁当を用意した。モラヤを炒め、リャマの肉を煮た。夫が坑道にいる間に、私はラバ追いについて出た。少しばかりの弁当と赤ん坊のマルティ−ナだけ背負っていた。ラバ追いについて、あるところまでやってきた。彼らは鉱石の荷物と一緒にヤウリの方へ逸れていった。私は、ほかの旅人と一緒にサンタロサのほうへ向かった。そこから列車で、まっすぐクスコへと帰ってきた。こうして夫の手を逃れたのだ。

クスコへ帰る
 クスコに到着すると、ワンチャクのチワンティト婦人の食堂で、料理女として雇ってもらった。この食堂で満足して静かに働いていたときに、娘のカタリ−ナが生まれた。7ヵ月目だった。彼女は、全部の子供の中で生きている唯一の子供である。鉱山から出てきたとき、きっと妊娠3、4ヵ月だったのだろう。そして何ヵ月かしてカタリ−ナを産んだ。この世に生まれてきたのは、私がチワンティト婦人の食堂で料理していた夜だった。私はかまどにいて、大きな鍋でチチャをつくるために湯を沸かしていた。一番鶏が啼く頃に、陣痛が始まったが、その痛みはなじみのものだった。陣痛が増したときに、かまどの壁につかまり、両足を開き、しゃがんだ。陣痛の最中に啜り泣きはじめたとき、赤ん坊が出てきた。気付かないうちに、両足の間で産声を上げた。そこで、皮のうえに置き、赤ん坊のそばに寝転がった。しかし、痛みは続いた。夜明けごろに、非常な痛みと一緒に、胎盤が出てきた。
 昼になって、食堂の女主人がやってきた。私が赤ん坊といるのを見て、驚いてしまった。
 「そうすると・・・・・・、チチャは作らなかったんだね」と言った。
 しかし、私にマテ茶をくれ、赤ん坊を洗ってくれた。赤ん坊はびっくりするところだった。本当に小さくて、触れたらこわれてしまいそうな絹の山のようだった。頭は、熟したパパイヤよりもまだ軟らかかった。こうして洗ったが、おむつもなかったので、ふつうの布にくるんでくれた。大きなかまどの側に楽にしてくれた。
 「ここだと、寒くはないだろうからね」と、言ってくれた。
 そこでこの天使は、1日目も、2日目も眠り、そして3日目も眠り続けた。泣きもしないし、乳も飲まなかった。泣きもせず飲みもしないので、ときどきじっと見ては言ったものだ。「もしかして、死んだのかしら。」
 しかし、困難だったが、息はしていた。こうして数か月がすぎ、そして成長を遂げた。しかし、どういう運命なのか、かわいそうな娘を見て、人は言ったものだ。
 「この赤ん坊は死んでしまうよ。」
 しかし、死のお皿〔淵〕にありながら、主のご意思により、それをもはねつけたのだった。今では、私たちを見てくれる唯一の娘であり、私たちを慰めてくれる。

娘マルティーナを失う
 2人の娘と暮らすようになって3年がたとうとしている頃だった。マルティ−ナはもう大きくなっていて、洗足式も終わっていた。カタリ−ナはもうよくおしゃべりするようになっていた。
 そのときあの邪悪で役立たずの男(自分の口を汚したのなら、主よ、お許しください)が、私が台所にいたときに、娘を探しにきたのだろう。娘が道路に出たときに、どういうふうにごまかしたのか、連れ出した。出身の村以来コマドレ〔宗教親の関係〕だったサンティアゴとかいうメスティ−サ〔混血女性〕の家に、お手伝いとして娘を置き去りにしたのだった。こうして、娘の父は、ある朝、道路に出たときに、娘のマルティ−ナを私から奪った。娘がいなくなったことに気が付いたのはもう午後のことだった。そして夜になっても帰ってこなかったので、心配になった。いったいどうしたのだろうと、思った。その夜、泣きながら、ほうぼう娘を探し回った。警察にも、病院にも。ワンチャクでは、一軒一軒尋ね歩いたと思う。今のようには家は多くなかった。こうして、奇跡のように失踪し、3日がたっても、音沙汰がなかった。私はもう気が狂ったように歩き回り、なにか知らせがないかを見た。4日目に、娘の父エウセビオから伝言が届いた。娘のマルティ−ナが彼と一緒にいる、というものだった。きっとこの罪人もまた、娘を探している私を観察していたのだろう。だから、私が病気なのを見て、伝言を送ってよこしたのだろう。
 その日から、私はその娘のことは何も知らなかった。失踪して2年がたとうとしていたとき、キンセミルの密林の砂金とりに婦人と一緒に娘が旅したという知らせが届いた。婦人の夫がそこの請負い業者だった。
 あそこで、きっと暑さのために、貧血症になったのだろう。帰ってくるとすぐに、ロレナ病院に入院した。そして、だれも訪れる人もなく、ほったらかしにされ、2週間で天然痘にかかってしまった。マルティ−ナは、貧血と天然痘のために、だれも看取る者もなく、死んでいった。
 この雇い女は、娘を入院させただけで、娘のことを尋ねることは2度となかった。そして、看取る者もなく、独りぼっちで死んでいった。埋葬に立ち会った者もなく、きっと、死体安置所の従業員が共同墓地に投げ入れたのだろう。このように私のマルティ−ナは、父のせいで犬死にした。もし私から娘を奪っていなかったなら、娘はずっと私のそばにいて、今も一緒に暮らしていただろうに。
 このようなことがマルティ−ナの身に起こった後でも、夫は、まだサンヘロニモまで行きたそうな顔をして私の母に言った。
 「せめてラ・カタリ−ナ辺りに住んで、アスンタと仲むつましくしたいけど、お義母さ
 ん。」
 どのように説き伏せたのだろう。酒を飲ませたのだろう。母がクスコまでやってきて、一人で苦しまずに夫のそばで暮しつづけたほうがよい、と私に言った。そこで、母に言った。
 「ご覧、お母さん。お母さんは、この男が私を見張ったりどんなに虐待してきたか、知
 っているの?私は私だから、寄りを戻すなんてしない。たとえ農園をくれるといわれて
も。あの男は私にとって人生の十字架なんだから。」
 確か、そのとき、こう話したら、母は帰っていった。数年後、たぶん4年後か6年後、グレゴリオと住むようになっていたとき、娘のカタリ−ナの父が酔っ払って歩きながらシクアニの街角を乞食のように毎日お金を請うていた、と友達が話してくれた。こうして死んでしまった。彼は、この世で私には非常に悪かった。彼のあわれな魂はどうなっただろう。許されることもなく、罪を背負ったまま、死んでいった。
 
「チュスピ・カルセル」食堂で働く
 娘のカタリ−ナは、赤ん坊のとき、病弱で、私はいつもついていなければならなかった。だから、ワンチャクの食堂の持主には疎んじられるようになり、いい顔をされなくなった。そこで、雇ってもらうために別の食堂を見付けなければならなかった。そういう次第で、私は、ロサリオ橋にあるメルセデス婦人の「チュスピ・カルセル」食堂へ行った。そこに、かなりの期間、たぶん2年くらいいた。チチャをつくったり、注文料理を作ったりした。 当時、グレゴリオの家がこの食堂の近くにあり、彼は、前からいつもチチャを飲みに来ていた、と言った。そして、私が来て以来、私をじっと見つめていた。私に夫がいないことを知っていたからだ。こうして、ある日、食堂の持主が病気になり、何日も来なかった。私は一人でお得意の世話をした。私が一人でいた日に、グレゴリオが現われ、チチャを1杯おごってくれた。私は話し始めた。何についてだったのかは、覚えていない。しかし、こうして私たちは仲良くなった。その日から、彼がしょっちゅう来るようになり、いつも私にチチャをおごろうとした。私たちは仲良くなっていった。そして、軽口をたたきあい、信頼するようになった。グレゴリオは、私や娘のカタリ−ナのためにケ−キやチチャロンをお土産に持ってきた。しかし、一緒に暮らすようになってからは、もうケ−キもチチャロンも持って帰らなくなった。もっと仲良くなったとき、ある日、彼が言った。
 「許可をもらって、サンセバスティアンの聖体祭へ行こう。」
 そこで、サンヘロニモへ行く許可を主人に申し出た。しかし、その日はサンヘロニモにもサンセバスティアンの聖体祭にも行かなかった。私はアルムデナの食堂へ連れていかれ、そこで、2皿か3皿食べた、と思う。しっかりと料理されていず、中まで味がしみていなかった。しかし、チチャロンは確かにおいしかった。そのため何度も彼に冗談を言った。
 「おまえは私をだまして、私にまずい料理を2皿も食べさせたんだ。」
 グレゴリオは、昔から、そして今でも、チチャロンが大好物だ。だから、いつも私は豚を育てたかった。ここでは無理だけれど。場所が必要だから。一度、闇市で買った豚を持って帰ったことがある。台所の扉にしっかり結んでおいた。もう大きくなったとき、その雌豚は発情してふりほどき、自動車に轢かれてしまった。
 グレゴリオが食堂に私を招待してくれたあのとき、食事の後、フルティヤ−ダ〔イチゴ入りチチャ酒〕を2、3杯飲ませた。そのあと、チチャとビ−ルをチャンポンした。私だけがすっかり酔っ払ってしまった。私は酔っ払うような、正体が分からなくなるまで飲んで、そのあと喧嘩するような類の、女ではない。飲むと、私の体は死人のようになり、まるで大きな石のようになるだけなのだ。だから、きっとそのときもそうだったのだろう。その夜、彼は私をかついで直接家まで連れていき、翌日までそばで寝たのだ。こうして、私は夫の家にはじめて足を踏み入れた。これ以後もまだ、私はメルセデス婦人の食堂に通っていたが、それも数日のことだった。グレゴリオが私に言った。
 「休みをもらって、ここにおいで。一緒に暮らそう。もうおまえは私の女だから。」

グレゴリオと暮らす
 そして私は、ああ、言われたことをみんなした。この男の言うとおりにするために。なんとおろかだったのだ。再び、3日間の休みをもらった。そして、その当日、私はもう大きかった娘を引っ張って来たように思う。ベッドも一緒に。私が持っていた唯一のものだった。ベッドと娘。
 嘘をついて、主を怒らせて、なんになるというのだろう。いいや、そんなことはできないことだ。グレゴリオは私たちを−私や娘を−何度も叩いて、雨の中を、深夜に、スカ−ト姿のままベッドから追い出しさえしたけれど、それがなんだというの。彼と私たちはうまくいっていた。喧嘩したりなじりあったりしはしたが。私の娘に対しても、最初の日から、気に掛けて見てくれた。今でも「私の娘よ」と言ってくれる。また、働いてきたものも、いつも私たちのためだった。一緒に住み始めたとき、彼はすでにワスカル工場で清掃係として働いていた。だから、彼は、ときどきうぬぼれ屋のように言ったものだ。
 「馬鹿、俺はワスカルで働いているのだよ。半分しか稼がないけれど、確実だよ。」
 この工場では、工場が閉鎖になると言われるまで、数年以上も働いた。「工場が閉鎖になる」とつぶやいていたとき、グレゴリオは心配そうになった。やがて、永遠に閉鎖された。
 工場が閉鎖されても、私たちはロサリオ橋で働き続けた。彼が工場にいる間、私は家にいることが多く、料理したりしていた。しかし相変わらずメルセデス婦人の食堂に通っていた。飼い始めた雌鶏やクイのための酒かすをもらうためだった。グレゴリオと暮らすようになった日から、いつも雌鶏とクイは飼っていた。彼が工場をやめると、ときどき建設現場で働いた。建設の仕事は、つねに終わりのある仕事だった。彼は仕事を探して日々を送り始めた。そのときから、定職はなくなった。人夫として雇ってもらおうとある場所に行ってみても、断られ、他の場所では1週間雇ってもらうか、「別の週においで」とか「15日後」とか言われた。

食物売りを始める
 こうして日々を送っていたとき、私は友人たちに話をし、「自分の夫がこうなっている」と言った。女友達はメルセデス婦人のお得意で、中央市場の食物売りだった。私は言った。
「私もここでは稼いでいない。家畜のためのSUTUCHIをもらっているだけだ。」 
そこで、私は言われた。
 「料理が上手なら、明日からでもなにか料理してみたら?私たちのそばに場所をあげる
から、食物を売りなさいよ。」
 さっそく、翌日から、食堂には行かなくなった。なにかの足しになるように、もう大きくなった娘のカタリ−ナだけをやった。しかし、娘がもらった酒かすは、私のときの半分にもならなかった。私は、その朝、食物売場を見にだけ、カスカパルの市場に行った。どういうふうに料理しているのか、知るためだった。私は、タルウィ・ウチュ〔豆のシチュー〕とソルテ−ロ〔野菜のあえもの〕の料理を食べた。食物商売がどんなものかが分かると、元気が出てきて、帰った。食堂の料理女に、食物売りになろうと考えた。私は、自分の食物鍋を持って市場に行くために、3日間準備をした。ましな皿はなかった。みんな欠けていたし、つぎはぎだらけだった。だから、コマドレのロサ・サラスから3枚の金属製の皿と2本のスプ−ンを借りた。あとはどうしたらいいのか、分からなかった。それでも、4日目に、鍋を背負って行った。私が市場に出ると、友達が私を呼んだ。自分たちの間に場所を作ってくれ、鍋と一緒に私を入れてくれた。
 道路が市場になっていて、売るための屋台も机もなかった。だから、売り物はみんな地べただった。市場はいつも、12時がすぎても、人で一杯だった。その最初の日、12時がすぎても1皿も売れなかった。すでに2時がすぎて、人夫のような格好の人々が4皿を食べた。その後、旅行者だと思うが、5、6人の人が来たが、盛るお皿がなかったので、友達から借りねばならなかった。これらの旅人は、1皿ずつ食べた。そしてお代わりを求められたが、みんなのためにはもう残っていなかった。そのとき、ス−プ1皿は、80センタボした。初日に持っていった食物鍋が2回売る分のためだけだったのを見ると、友達が言ってくれた。
 「ほら、いい滑り出しだったね。明日のためにはもっと大きな鍋で料理してきたら。」
 こうして私は、もっとよく入る鍋で料理しはじめた。最初の日に食べてくれた2人の人夫は、毎日のように来てくれて、私のお得意になった。そして他の人夫も連れてきてくれた。とうとう、全員でかしこまって言った。
 「私たちのためだけに料理してくれ。」
 その日から午前中からではなく、昼休みの時間を見計らって、12時くらいに市場に出掛けるようになった。しかし、キリスト教徒が地上に出現して以来、嫉みに不足することはなく、あらゆるところで、昼に夜に、主の面前でも、女友達の嫉みは増していく。私が市場に背負っていく食物に毎日固定客がついたのを見ると、嫉みが大きくなり、自分たちのそばに私が行くのを疎ましく思うようになった。皿やスプーンが足りなくなっても、貸したがらなくなった。そこで、前もって、もう下宿人のようになっていた私の固定客のみんなには、言っておいた。
 「ここから出ていくつもりだ。妬まれているからね。」
 そして、食物売場のある場所を教えておいた。私が食物売りを始めたときには、いろんなことが起こったのだ。しかし、みんなの魂のおかげで、商売は楽になっていった。グレゴリオも定職がなかったので、彼もまた、その頃から、荷担ぎ人を始めた。
 「路上の仕事は安定しているさ」と、グレゴリオは言った。
 しかし、私が商売を始めた日から今まで、もうグレゴリオ一人の背中に頼りっきりではない。私もまた、私たちの胃袋のために何センタボずつでも稼ぎだしたからだ。

食物売りを止めた理由
食物商売が順調だったにもかかわらず、ある日、役所の役人がやってきた。みんな警官のような制服を着て、市の許可書を請求しはじめた。
  私は市の許可書がどんなものかも知らず、売りに行きつづけた。ある日、市の役人が私たちの鍋や皿を押収した。書類(証明書)を所持していた人々は、罰金を払って市役所から自分のものをもらいうけた。私は、当時何の書類も持っていなかったので、鍋も皿も、今日まで、引き出せないままだ。今でも、6枚の金属製の皿は残念に思う。高かったからだ。こんなことがあった後も、私は役所の犬どもの目を盗んで、食物を売りに行きつづけた。しかし、ある日、きっと魂たちに懲らしめられたのだろう、私は捕まってしまった。まだ着いたばかりで、お得意が来るのを待っていたときのことだった。次から次へと役人が角から現われて、もう鍋を持って逃げる暇もなかった。この役人は私に言った。
 「馬鹿、おまえは耳が聞こえないのか?この売女の、インディオ女め!」
 ポン・ポン!食物鍋を蹴っては、陶器製の皿を踏みつけた。食物がみんな地面にこぼれ、皿がこわれるのを見て、私はわめきはじめた。この役人に対する怒りと憎しみで助けを求めた。通り掛かったメスティソ女たちが言った。「あんまりだ!」
 神様、お許しください。そのときは、憎しみばかりで血が煮えくりかえり、その役人を殺してしまいたかった。その役人に蹴られるようなことを、鍋がしたというのか?なぜ、私のほうを蹴らなかった?この怒りがおさまったら、もう市場には戻らなかった。クイ〔テンジクネズミ〕用の草を集めに野原にも行った。これを日暮れに、ちょうど夜が始まる頃に、リマックパンパの角の一つで売った。その時間には、たくさんの女が、クイの牧草を売りに出た。ショバのようなものもなかった。
 私がグレゴリオと連れ添った日から、ロサリオ橋で、私たちは静かに暮らしていた。グレゴリオがまだ、今は魂になったホセファという女と暮らしていたときに建てた小屋だった。それは空き地にあった。私たちだけが暮らしていたが、そばに一人の兵士が住む空き地があった。この兵士の女がやきもちやきで喧嘩っぱやかった。私と会った最初の日から、まるで自分の兵士を私が奪ったかのように、私を敵視したのだ。こうして、喧嘩とののしりあいの果てしない日々が始まった。その女とは、ほんのささいなことも喧嘩の種となった。私にどんなことでも聞こえるように話しして、私のほうはもっと大きな侮辱で言い返した。最後には、引っ掻いたり髪を引っ張りあったりして喧嘩になった。確かに、喧嘩っぱやいやきもち焼きだったが、私もそれに増して喧嘩っぱやかった。あわれなミスティ女はひよこのようで、見かけ倒しだった。全然力がなかった。だから、怒りで興奮すると、何度も、彼女の髪を掴んでは地面に引きずり倒し、自分に言ったものだ。
 「これで懲りたさ。」
 しかし、むだだった。彼女はもっと厚かましく、まるで病気の犬だった。何度も、そのために私たちは警察へ行き、苦情を訴えた。この家から私は出てていきたくなかったけれど、ある日、グレゴリオは、怒りのあまりに私がかかった病気に驚いた。私の舌が口一杯に腫れあがり、話すことも唾を飲み込むこともできなくなったからだ。
 そこでグレゴリオは、クリパタにあった別の家へ、まだ具合の悪かった私を連れていった。そこで私はその病気から立ち直った。怒り中毒と言われた。その家もまた空き地だった。今では、軍人たちの家がある。グレゴリオが手を入れた小屋だった。その家のために、彼は毎日曜日、女主人の命令どおりに働かねばならなかった。男のような、太い声の婦人だった。この婦人は、グレゴリオがある日曜日に行かなかったために、私たちにその小屋を明け渡させた。私たちは、グレゴリオがドロレスパタで手に入れたバラックに行かねばならなかった。

グレゴリオと正式に結婚する
 ドロレスパタで暮らしていたときに、私はグレゴリオと結婚した。彼は2人の女と暮らしたことがあったが、2人とも死んでしまった。だから、私が怒り中毒の病気にかかったとき、彼は驚いた。コンパドレのレオカディオが彼に言った。
 「コンパドレ、おまえの女がおまえのそばで祝福されて暮らしていくなら、死なない。
結婚しろよ。」
 私は前の夫とは結婚していなかったし、彼も同棲していた女たちと結婚はしていなかったので、二人して言った。
 「もし結婚したなら、私たちはうまくやっていけるのだろうか?よし、祝福をもらお
う。」
 こうして、結婚する決心をした。結婚生活はすべてうまくいった。そして、もっともよく思い出すのは、グレゴリオが私によく言ったことばだ。
 「泥でできた脳の女よ。」
 パドリ−ノ〔仲人〕を見付けると、私たちは結婚式の日取りを決めた。しかし、私のせいで、3、4ヵ月延期された。私の頭に祈りの文句が入らなかったからだ。私は毎日教えこまれた。

ワンチャクで食物売りをする
 結婚してからは、私はまたワンチャク市場で食物商売に戻った。現在でも、そこで働きつづけている。ここでも固定客がついた。彼らは灯油コンロの機械工や市場の清掃人である。その市場には、私たちがドロレスパタのバラックから追い出されて以来、行き始めた。そこから私たちが立ち退かされ、ものも投げ出されたときには、私が泣いているのをきっと見たのだろう。一人のグリンゴ〔白人〕の紳士が私に言ってくれた。
 「掛け小屋で暮らせ。」
 その掛け小屋はジャガイモ畑の真ん中にあった。ここで、私たちは数日を過ごした。その後この家に手を入れて、今でも暮らしている。当時はあばら屋だった。コリパタは、当時畑だったのだ。
 ワンチャク市場は、小さかった。その後、大きくなった。青空市場を大きくしていたとき、私は商売をしに行くようになった。だから、私は古株で、みんな私を知っている。ここでも私が落ち着くようになってからしばらくして、ずっと商売するための許可書を求められた。許可書を求められたとき、私は結婚の証明書を手に入れなければならなかった。しかし、証明書を入手しなければならないのに、修道院の神父さんたちは、帳簿の中に私たちの名前を見付けられなかった。毎日尋ねにいったが、彼らは言った。「ない。みつからない。」しまいには神父さんの忍耐が切れ、毎日私を見るのにうんざりし、結婚証明書をくれたのだ。これで、販売許可書を手に入れ、衛生証明書ももらった。毎日市場で売るために、市役所に手数料を払わなければならない。1日2ソル50センタボだ。
 以前は食物商売のために毎日市場に行っていたが、4年前から火曜と金曜しか行かなくなった。今では商売にならない。材料費がなんでも高騰し、儲けがないときが多い。食物商売で市場に行かない日には、ここコリパタやサンティアゴの知り合いの店からビンを買うことにしている。ときどきグレゴリオと一緒に、別のときは私一人で、ビンや鉄を探しにゴミ捨て場に行く。それはたいへんな仕事だ。他の人も行くから、奪い合うようにして探す。荷物を積んだ清掃車が到着するときには、喧嘩も起こる。たくさん見つかるかどうかは運次第だ。私が買ったビンや、グレゴリオと一緒に集めたビンは、洗剤やブラシでようく洗い、土曜市で私が売る。ビンは、ときには4ソルにもなる。今、お金や元手があったなら、衣類の商売をするだろう。お医者さんの中古を買って、土曜市で売るのだ。よく売れて儲かるのを見ているから。だけど、私には教育もないし、力も衰えてきているから、自分にはできない。家にひきこもって、ほとんどじっとしているだけだ。
 最近では、一晩中ぐっすり寝たあとでも、力なく、起き上がるだけだ。手足や腿はすっかり疲れきり、まるで夜通し何レグア〔何キロ〕も歩いたようだ。きっと私の魂はもう歩き始めているのだ。死ぬ8年前になると、私たちの魂は歩き始め、人生で歩いてきたあらゆる場所から自分の足跡を集めるという。こうして私たちの哀れな魂は何度も何度も立ち止まり、不注意のせいで縫い針を地面に落としたかもしれない場所で最後の苦しみを受けているのだ。だから、縫い針とかかがり針とかは、注意して扱わなければならない。ああ、きっと、私の魂も、もう巡礼を始めたのだ。だから、疲れ切った足で、私は目を覚ますのだ。 

<あとがき>
 本号で訳出した「アスンタ−グレゴリオの妻−」は、Ricardo Valderrama & Carmen Escalante, Gregorio Condori Mamani: Autobiografia (Cusco: Centro de Estudios Rurales Andino, 1977)の後半部分のみである。5年以上も前に友人を介して日本語への翻訳を約束したが、今日まで果たせずにいた。アンヘリカ・パロミーノを中心にケチュア語版から、まとめて刊行する予定だったが、残念ながら今回は、ケチュア語版は参照しただけで、スペイン語版から、それも後半だけ、青木芳夫が和訳した。あとは、後日を期したい。
 なお、Gregorio Condori Mamani: Autobiografia は、現在ではペルー・アンデス地方のオーラル・ヒストリーの古典とされ、英語版(Paul H. Gelles & Gabriela Martinez Escobar訳、テキサス大学出版局、1996年)も刊行されている。ユーモアとペーソスにあふれた文章は、グレゴリオやアスンタの人生とともに、読者の共感を呼ぶだろうし、1950年代以降、本格的な都市化の時代を迎えるクスコ市やクスコ地方農村における人々の暮らしの変貌振りをうかがう、貴重な史料を提供してくれるだろう。



      直線上に配置


トップページヘもどる