Asia の片隅で


       GUANGZHOU CHINA  (中国・広州)   2007.Nov,

    中国第三の都市、広州は亜熱帯にある。町を流れる珠江にはビルがそそり立ち、街にはブーゲンビリアが咲いている。

   「食在広州」は本物であった。私は一日四食食べまくり、2kg肥えて日本に戻った。

   日本から見れば、香港、マカオの奥に広州があるので、ここだけ訪れる日本の観光客は意外と少ないかも知れぬ。

   でも南部中国の中心である広州はビジネス拠点として、多くの日本企業があるみたいだ。古くから広州交易会があり

   私より少し年上の商社マンには懐かしい町の一つだろう。

    この町には私の友人が居て、新旧の広州の町並みを歩いたり、公園で半日過ごしたり、広州人の習慣に従って、

   朝は飲茶楽しんだ。私にとって難点は、コーヒーショップが殆ど無い、道路の横断は実に難しいと言うか怖い、

   サバイバル程度の広東語を身につけて行くべきであったと。日本語は勿論、英語もほぼ通じぬ、だから反対に日本人を

   ターゲットとする胡散臭い観光業者も現れぬ。歴史的なものは除き、とりわけ風光明媚な観光スポットも無いが、

   広州人的生活を真似ているだけで、私はこの町が好きになった。

    空港は真新しい白雲空港がある。以前の上海では出国に少し手間取ったので、早い目に空港に行けば、あっけなく

   出国できて、結果、待ち時間に「珠江麦酒」を二本も飲み干してしまった。(空港のビールは高いですが・・) 

   JALは定刻に出発と思いきやエプロンに出てから、空路混雑によりと約1時間待機、幸い三人席に一人で座って

   いたので、すっかり広州的大陸人に成りきっていたので、楽観的に待つことにした。

   香港からは直ぐ海に出るが、広州からは、大陸の上を上海まで行ってから海に出る空路を飛ぶ。

   旅の終わりは夕刻のフライトがよい。この感傷のこみ上げは何なんだと自分に問いかけて、茜色の空を見つめて

   いるのは、何とも私の旅の終わりに相応しい。


    新旧の建物が佇む広州の街

    珠江に昇る朝日


      BANGKOK THAILAND   2007.Oct,

     タイには度々行っている。でもバンコクに連泊するのは25年ぶりのこと、私にとってバンコクはタイの通過点だった。

    だから浦島太郎状態だけど・・。バンコクに高架鉄道が走っとる、サイアムスクエアーには大きなモダンな

    ショッピングセンターが幾つも立っとる。もう、カオサンが外国人にとってのバンコクの拠点ではなくなった。

     そのサイアムスクエアーにある日本レストランに行ってみた。決して日本文化を勘違いしていない内装、味も料理も、

    日本の外食産業と変わりない。ただ値段は日本並みなので、タイの人にとっては、我々がちょっとお洒落なイタ飯を

    食べている感触だろうか。倅と三人でバラバラの定食を頼んで食べている(我が家では個人の自由が尊重される)と、

    隣に身なりの良い女子大生風の女性がグループでやって来て、どこの国でも同じだが、会話が弾んでいる。

    ただ時々、こちらをチラッと見ては笑っているように私には見える。「うわー、日本人が日本食食べとるう !」タイ語は

    分からぬが、そんな風に私には聞こえてくる。勝手に女子大生と決め込んでいるので、英語で「何が面白いの

    ですか」と聞いてみようかと思ったけど、私は家庭では妻以外の女性とは、挨拶以上の会話はせぬ古典的閉鎖的

    非社交性頑固親父をずーとやっていると、思われているむので、倅の手前やめた。

     私のバンコク通過点旅行としている心の根底には、ひょっとしたら昔、ドンムアン空港には水牛が闊歩し、

    バンコク市内にも観光用ではない像が歩いていた幻を今なお夢見てるせいかも知れぬ。

     それにしても今年の雨季は大雨で、雷が天空を駆け、道が直ぐに川になる現象だけは、

    25年前と変わってはいなかった。


   
     突然、大雨が降り出す雨季の空、足元は水に浸かっている家、雨季の終わりのタイ郊外。


      SHANGHI CHINA  (中国・上海) 

     久しぶりのアジア、友人の招きで上海へ。地図を見ても分かるが、ともかく近い。

     新装の浦東空港まで、関空から二時間半のフライトで中国経済発展の象徴とも称される上海に降りた。

     街中を昼夜を問わず建設作業車が走り回る、それでいて高層のアパートの窓から独特の洗濯ものを

     干す町並みに、中国にいることを実感する。もっとも私の中国への予備知識などほんの点にしか過ぎないが、

     人それぞれ、その国に抱いているイメージが合致したとき、やってきたのだ・・・のトキメキに変わる。

     例えば仮に夜に入国したならば、翌朝ホテルのカーテンをサッと開け"来たぞ!"と言うのが私風の旅の

     楽しみ方なのだ。旅のちょっとしたつまずきも旅心を満足してくれる。@着いて友人に公衆電話から電話した。

     相手は出てくるのに通じない。電話機に変なスイッチがあってそれを押さねばならないらしい。

     A上海の街中には一元で利用できるトイレ「厠所」があって、これは実にありがたい。どうも中国のトイレには

     悪いイメージがある。安心しきっていたが、上海を少しはなれたところに、見た目には立派なトイレがあって、

     されどこれはただ溝があるだけの中国伝統的トイレ、倅を表に見張りに立たせ何とか用を達成。

     B中国の人は物を投げるのが好きなのかと思うことがある。昔、外国のさる所から中国の都市まで中国系の

     飛行機に乗った。スッチーさんは中国語で「空中小姐」と言うと思うが、文字のイメージからは程遠い、

     背丈2m近くの大女の空中小姐は食事のパンを投げつけてくる。この光景の再来か、上海でもイミグレ官吏は

     私のパスポートを投げて返す。まあ風習の違いと思えばそれまでだが・・。そう言えば西洋の女性はスーツケース

     を足で蹴飛ばして運んでいる。これを真似た日本女性も最近は見かける。「大和なでしこ」は絶滅したと思える

     瞬間でもある。




      CHIANG-RAY THAILAND  

     チェンマイ発チェンライ最終便、日がとっぷり暮れた闇の中、日本では珍しいSAABのプロペラ機がチェン 

     ライ空港に滑り込む。どうやらこの便が本日の最終らしく、空港内のシャッターが次々と下ろされいく。宿無しの

     この身は不安を隠しながらホテル紹介のカウンターに出向く。英語があまり通じない。彼女の細い指先に示された

     「Saenphu Hotel」を理由もなく選び、タイ語で書いてもらった紙切れを持ってロビーを出る。

     もちろんメータータクシーなんかはない。勧められるままに白タクに乗り込み、真っ暗の田舎道を走る。どう見

     たって蛇の革を巻きつけたハンドル、私の知る限りのタイ語をぶっけたって30秒も会話が続かないだろう。

     不安の中を灯りが1つ2つ増えて40分ほどでホテル着、彼はほとんど無言で別にチップを請求もせず、消えてし

     まった。

      意外といえば意外、まずまずのホテルである。受付嬢の英語のレベルが上がる。男二人に一部屋ですか二部

     屋ですかと、勿論一部屋、昨日までのチェンマイでの無差別の女のセールスにへきへきの我々は例えGayと錯

     覚されようと、二部屋をとればまた 別の問題が派生することを恐れた。部屋は4階、シーズンオフなのか閑散と

     している。今夜はこのまま眠ろうと思いつつ、窓越しに 読経のような声が聞こえる。通りのむこう、木々に囲まれた

     広場を何百人が何やら唱えながらぐるぐる回っているではないか。 日本でのここらあたりの知識は黄金の三角

     地帯のど真ん中、それだけで十分緊張しているものをあれは何の催しだろうか。 我々は、真っ暗な暗闇を恐る

     恐るやって来て、次は念仏ダンスの傍で眠ろうとしている。

      一夜が明けた。まず念仏ダンスの謎解き、窓を開ければ通りの向こうはお寺、あれは何かの仏教行事だったに

     違いない。女のセールスに来るボーイも来なかった。真夜中のノックは皆無。このホテルは思いのほか安全、

     快適、私の言う4つ星ホテルなのだ。

      田舎の町はいい。ひっこく付きまとう観光客目当てのゴマの蝿もいない。市場を奥深く探索しようと、そこらの

     お寺の石のベンチで昼寝をしようと、我々を商売の対象と見る輩はいない。黄金の三角地帯を思わせるのは、

     町の中を山岳民族が歩いてはいる。

     メーコック川の川舟を500バーツほどでチャーターして少し上れば、いささか観光用とも思える少数民族の村に

     連れてってくれる。川沿いのゴールデンシャワーの木々が鮮やかに見える。さすがに国境に近いのか、陸軍の

     ヘリが山間をパトロールしている。途中雨が降ってきて、船頭が合羽を出してきた。これは助かると思ったのは

     早計、合羽はエンジンにかぶせるもので、我々はビシャ濡れ、お腹にパスポートをしまってスタンプが滲むのを

     防ぐ。この川の上流の村から舟で下るツァーがあると聞いたが、山賊が出るとも書かれてあり、我々は途中であ

     きらめた。後日、空港でこのコースを筏で下ったという大阪からの女性二人組に会った。別に無謀な行動ではなく、

     十分計画されたものだった。女性は強いというべきか、蛇のハンドルとか真夜中の念仏ダンスとかですっかり脅え

     きっているわれわれが弱いのか、パンフレットの観光コースを少し外すだけで、少しはタイの素顔も見えてくる。

     チェンライは取り立てた名所もないが、のんびりタイの生活をも見られ、日本で言う危険な三角地帯の真中にある

     楽しい町である。


    チェンライ市街地を望む

    タイ国内どこでも見られる町の食堂

   


      PANAY Is, PHILPPIENES  

      フィリピンの人は実に視力がよい。不思議だった。暗闇の中で針に糸を通せるような魔法を時々見せてくれる。

     雨でベタ遅れのフィリピン航空国内便はパナイ島カリボ空港へ機首を下げた。玉ねぎ小屋程度の空港建物、到着

     ロビーは垣根ひとつだった。人々が群れている。マニラのセキュリティーショックで思わず気を引き締める。

     ここからカティクランまでバスで行ってそこからバンカーボートでボラカイ島に渡るつもりだった。誰かホテルからの

     出迎えがあるかもしれない。それらしい人物を探し当て頼んでみれば、今日の予約リストにはあなたがたの名前は

     ないと、それでは食い下がって何とかバスに乗せてもらおうとの決意は無駄であった。あっさりバスに乗せてくれた

     のである。パナイ島の北部を約2時間の予定でバスが行く。水田とも湿地とも分からぬところを道が真っ直ぐ伸びて

     いる。いたるところに川があり、雨のよく降る島だと分かる。出発してから薄暮そしてすっかり暗くなってしまった。

     しかし時間にすれば午後8時前、まだ就寝する時間ではなかろう。よく見れば道の両脇を人々が歩いている。

     バスのライト以外ほとんど光源がない。ともかく暗い。さらによく見れば道の側には人家がパラパラある。ローソク

     1本立てて夕食の様子が見える。私の長年の不思議は簡単に解けた。我々は明かり過ぎる国にいる。エネルギー

     浪費といってもよいだろう。後で知ったことだが、ここらあたりでは大金持ちは発電機を持ち、金持ちはランプ、

     そして一般的にはローソクが照明源だそうだ。やがて小さな港町であるカティクランに到着、靴下を脱いでズボンの

     裾をまくって、石ころだらけの浜辺から幅30cm程度の板を上ってバンカーボートに乗った。真っ暗な海峡をひとつ

     ふたつのボラカイ島の灯りをめざしてボートは快走した。ただの日本人にとってこれはさっきのバス旅行よりは冒険

     と言える。しかしこれには驚かなかった。旅行の案内書にここの描写が書かれていたから。


        
  

     カティクラン船着場、向こうにボラカイ島が見える。

    気を付けないと椰子の実は、夜明け頃に落下してくる
                                     


      PUKET THAILAND  

      旅行会社のパンフレットに出てくるプーケットは実にリゾート地である。もちろんこれは間違いではない。       

     そのホテルの周りを恐らく何百もの娼婦のいるオープン・バーが取り囲んでいることも事実である。ただこん

     なことパンフレットに載せる必要はまったくない。同じようなことがフィリピンのセブ島にも言える。

     セブ島のパンフレットにはあまりフィリピンの表示がない。フィリピン国はやや危ないが、セブ国(?)は安全

     の基本的誤解が結構はびこっている。これは旅行社の営業的配慮といえる。

      さて、プーケットなぜそれほど娼婦たちが集結しているかというと、これはアメリカのインド洋艦隊に起因する。

     休養とかと称して水兵とか海兵隊がどっとこの町にやって来る。以前はパタヤビーチだけだったが最近はどうい

     うわけか知らないがそれがプーケットにまで及んでいる。高校、大学いずれも男ばかりの学校を出た私には、

     男ばかりの船の生活がどんなものか多少同情しない訳ではないが、お世辞にも行儀のよい行動とは思えない。

     ここの娼婦たちはまあまあ陽気で強引なところもなければ、さほど商売熱心でもない。オープン・バーも酒を飲

     むだけの人々にとってはただのバーであり、彼女たちにシグナルを発信しない限り酒を楽しんでいられる。

     ただ私自身にはいささか異変が生じている。わたしは典型的な中年太りでお腹が出ている。もちろん同行の

     友人2人もほぼ同じ体形であるのだが、道を歩いているとわざわざバーから女の子がひとりふたり出てきて、

     私のお腹を撫ぜて、ちゃんとワイ(タイ式挨拶の合掌)してニコニコして帰っていく。その行為は別に人をから

     かっているようにも思えず、不可解なのは同じ中年太りの友人の腹は撫でずに私だけに接触して帰る。私の

     知識では、これがどんな意味を持つものか分からない。私の外見は肥満、色白、丸顔であるが、一般的なタイ

     での評価はそれぞれ金持ち、外で仕事をしなくとも食べていける人、徳のある人物であるとある書物に書かれ

     ていた。私は気をよくしていた。ところが長い間タイに留学していた高野山の僧侶に会える機会を得て、この話が

     出たが確かに表面的解釈はそうなんだが、TVに出てくる悪役も実はその体形なのだと。すなわち仕事せず

     金儲けがうまく表面上は徳なのだが本当は不徳の人。軽いショックであった。彼女らの行為は今なお謎のまま

     である。タイの北部、中部ではこんなことはなかったし、南部だけで信仰されるあたかも日本の布袋様のような

     神様があるのか、それとも中年太りプラス彼女らを幸せをもたらすオーラが私の背後に輝いていたのか、謎である。


    表通りの海鮮レストラン

    午後はホテルのプールサイドで過ごすのがよい。


      SEOUL KOREA

      東南アジアが好きな私には韓国は身近な遠いアジアである。 週末感覚で短いトリップを2度の経験、だから

     ソウルしか知らない。それでも地下鉄とタクシーに乗ることを覚えた今は点と線だけは地図を頼りに廻ることが

     できる。これはちょうど地方在住の私が東京を移動するのに似ている。ただやはりそこは外国、言葉の壁が

     のしかかる。でもこれがなければ外国旅行は面白くはない。韓国では漢字の使用が法的に制限されていると

     聞いている。だから漢字表記を頼りにすることは難しい。さらに厄介なのはもちろん英語表記も韓国語の音訳

     なので、例えば南大門(なんだいもん)はNamdaemunである。ハングルが読めるのが一番良いのだが・・。

     英語もそれ程一般の街中で通用するようにも思えない。これは日本だって同じこと。私はいよいよ道が分から

     なくなれば、お年寄りに日本語で丁重に尋ねることとしている。歴史を多少なりとも知る身には、ここは丁重に

     お願いするのが筋だろう。加えて韓国は儒教の国、年上への敬意も当たり前だろうから。たいていは親切に

     教えてくれる。第二次世界大戦をくぐり抜け、更に朝鮮戦争を経験して、今老境を迎えたお年寄りは驚くほど

     温厚な人が多い。私の旅は個人的なものである。しかしアジアを歩くときは、少しは歴史の端を持って歩いた

     方が、むしろいい旅ができると私は思っている。漢江のみどりが今回も鮮やかだった。何故か2度とも桜の花の

     咲く頃にソウルの街を歩いていた。


     景福宮、周りは工事中だった。