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 ロザリンコラム 粋なBARとは


 PART,1 

 BARについてあれこれと思考するのは私にとって、いつの間にか
 職業柄でもあるがライフワ−クになってしまっている。一般的にも
 BARについての定義づけは人それぞれの数ほど無数にあるが、
 私の個人的な見地からの
  “粋な店についてを掘り下げてみる。
 それについてのハウツウ本も何冊か読んでみた。

 十人十色でそれぞれの意見も様々だが私の独断と偏見で綴ってみよう

 粋なBARとは簡単に言えば、まずは粋人達が訪れる店。
 当たり前の話だが・・・
  
  店内にはどちらかというと男性客が中心になり、その中に
 綺羅星のような女性が入り混じっているのが様になるようだ。
 女性客がほとんどを占めてしまうと店全体の緊張感が薄まってしまい、
 昼の世界とあまり変らなくなってしまう。
  やはり、BARとはあくまで夜の世界での事だから。

 さて、その肝心の粋人の定義付けも又複雑で難しい。
 何も型にはまった美形がいいとも限らないが、かと言ってあまりにも
 崩れすぎているのも話にもならない。
 長い年月をかけて男が崩れてしまうのは訳がないんだから。

過去の文献を紐解き自分なりにまとめてみた。

 申し分のないどこから誰が見ても紳士然と洗練され、立ち居振る舞い
 の完成された男っぷりなのだが、一点かすかな染みの様な怪しさを
 伺わせる。もちろんだが、ごく僅か、毒も香辛料も効きすぎると
 逆効果になる。
  
  上質な香水の製法に似て、そのすれすれが色気なんだそうだ。
 上品さと優雅さと凄みを兼ね備えつつ、野生の力強さと鋭さを
 垣間見せる。世の御婦人方の願望の欲望は気高く、妥協も果てもない。
 
 もちろん、異性の目だけを意識したわけでもないが考慮するに十分値する。

 早い話が多面性があるという事。単純な男は粋ではないのだ。
 それにせこい貧乏臭さはご法度だ。こびり付いた様な所帯臭いのは
 論外だし、常に眉間に皺を寄せている手合いも周りが疲れるだけだ。

  何もないのに何かあるように勘違いして、ニヒルぶるのは時代遅れ
 で鬱陶しく嫌われる。涼しげな、優しさが今は好感を持たれるようだ。

 日本人には少なく珍しい。むしろ少し過去に遡る方がお目にかかれそう
 だが、やはり、ヨーロッパなどでは貴族社会からの流れで見た目にも
 何となく分かり易いし説得力がある。

 ショーンコネリーやマストロヤンニ、中年の頃のジャンギャバン等。
 しかし、アメリカ人になるととにかく腕力でものを言い出しそうで腰が
 引ける。ブラビやトムクルーズなども美形だが粋な雰囲気かと言えば
 何となく子供っぽさが勝ってしまうし、デニーロやアル、パシーノ
 なんかもピンと気づらい。特異すぎるキャラクターがで過ぎてしまう。
  結局、一見普通らしくてそうでないのが一番難しいようだ。

いかにもさりげなく様になり、別に何もなくてもカウンターで
 煙草を燻らすだけでドラマチックに店全体を変えてしまう男。

人生の喜怒哀楽を掻い潜って来た男のホンのひとコマの酒場での
 ステージ。何も、もの言わずとも何かを予感させ又、十分その期待に
 応えてくれるそんな粋人。 

 あくまでこれは視覚的な話なのだが・・・



PART,2 


  今回は、わたしがBARを営むひとつのきっかけになった
 エピソードをひとつ紹介しよう。その時の事が影響し今の方向性が
 できたといっても過言ではない

  
  20年近く以前に、妻君を連れローマに旅立った時の事だ。
 まだ恐れ知らずで世間知らずだった私は、初めての海外に身も心も
 最初から浮き足だっていた。 どうしたかと言うと真っ赤な
 ジャージ姿で何処に行ってもそれで徹していた。家を出て空港に着き、
 搭乗手続きから飛行機に乗り込みその頃はトランジットのアンカレッジ
 を経てイタリアの空港に着き、入国手続きを済ませると
 空港バスに乗り、ローマのナボーナ広場近くのホテルに
 いい時間にチェックインした。個人旅行だから、誰に何を
 咎められるでもなく部屋に通された。たどたどしくポーターにチップを
 手渡すのは忘れない。 もちろん、事前に事情は調べていた。


 『ヨーロッパでは場所によってはネクタイやジャケットを
  着用しなければならない。』


 未熟で恐れ知らずだった私はあえて行ける所まではジャージで
 通してやろうと考えていた。おとがめがあれば、その時に考えよう。
 それまでの、道中もみんなのいい目印になっていたし第一楽チンだ。
 唐辛子のような眼の醒める、まっ赤のジャージが気に入った。


 『どうって事、ないじゃないか。』

気分よく海外での1夜をそれで過ごした。


 ドキドキの夜が明け、時差ぼけも手伝い早くに目が醒める。
 まだ、少し早いが朝食を採りにホテルの地下レストランにと支度をする。
 といっても再びの赤のジャージで、妻君と出かけた。
 まだ眠気が残っているが、とりあえず、イタリア初のどんな朝食が
 出るのか、まだ早い時間だが、わくわくしながら降りていった。


 驚いた。思いがけず貴族的で広くゴージャスなレストラン。
 焼きたての何種類かのパンに香ばしい珈琲の香り。
 目を奪われるほどの新鮮なフルーツの盛り合わせ。
 もちろん、ヨーグルトやベーコンエッグ、コーンフレークなどの
 メニューもメインのテーブルにたっぷりとセッティングされている。


 『ボンジョルノ、グッドモーニング、オハヨウゴザイマス プレーゴ!』


 立派な刺繍を施したクロスを敷かれたテーブルに促され豪華な椅子に
 座り、妻君とまず抜群に上手い熱い珈琲を飲みしばらく考えさせられた。


 想像していた朝食のテーブルとは、はるかに違った。

今までにも国内で何度も旅の朝を経験したがこんな感動は初めてだった。
 まだ薄暗いこんな朝早くに何もかもがパーフェクトに準備されている。

 一番の驚きが我々を迎えてくれたタキシード姿のここのフロアチーフ
 だろう。 おそらく自分の親父ぐらいの年恰好のようだ。
 そんな人がこんな時間にすべての受け入れ態勢を整え余裕で
 銀のナイフ、フォークを磨きながらこれから訪れる宿泊客達を待っている。    
  鼻歌を歌いながら、イタリア人らしく陽気に!
 
 他のスタッフ達もいんぎん無礼でもなくメリハリの利いた身のこなしで
 テキパキと自分のパートをこなしている。何もかもが完璧で
 それでいて、日本のホテルでよくある中途半端な対応で息苦しくなる
 事もない。心地よい緊張とは何かをフロア全体で物語っていた。


 インパクトをうけた。身をもって思い知らされた。

世間知らずで未熟な自分が惨めで恥ずかしかった・・


 もし自分があの紳士だったら? あのカメリエーレ、シェフだったら?
 朝早くから身支度を整え、神聖な職場であるホテルで、何もかもの
 チェックを終える。1日の始まりにこれから迎える大事なお客を待つ。
 その挙句最初にやって来たのが、寝起きでボヤッとした自分の
 息子ほどの東洋人の若造。しかもだらしないにも程があろうと
 言いたくなる様な、おばかな真っ赤なジャ−ジ姿。
 『朝立ちはもう治まったのかい。』とでも言いたくなろう。
 
 朝早くから髪を整え髭をあたり隙のないタキシードで迎えた最初の客
 が・・・ 
 それでもおくびにも出さずに鼻歌を歌いながらにこやかに
 紳士的に接してくれる。


 『こういう事だったのか。ヨーロッパの接客業、成熟した大人の文化の
 何たるか。プロ意識とはどういう事か。』

鼻歌を機嫌よく歌っている本当のプロ達に教わった。

 たっぷりの朝食をおいしく頂いた後、さっそく地元ローマっ子の服を
 街中に探しに出掛けたのは言うまでもない。


 part,3


 

  肝心な粋人について色々と考えてみたが、最近出揃っている
 流行りのハウツーものにはほとんど興味が失せた。
 嫌な商売根性ばかりが見え隠れする。言ってみればそんなものとは
 対極ななずなのに・・

 こんな時はどうすればよく見られるだの、何を持っていればマニアに
 思われるだの、知っていて損はないだろうがだからといって何に
 なる訳でもあるまい。


 要するにどうでもいい事で何処にでもいる野暮天や、女子供の
 関心を引きたいが為の浅ましさだけが後味に残る。


 正直言って、20年ほどバー稼業をやっていて、初めての客人から
 マニアックな酒やカクテルを注文されたからってそれだけで
 粋人とはまったく思わない。ただそれが好きな客人という解釈なだけだ。

 もちろん、店の人間としてそれを注文した背景はなんであるかは
 それとなく注意を払うが・・


 最近、参考にして読んでいる本。


 「いき」の構造 九鬼周造著

「いき」の作法 馬場啓一著


 どちらも「いき」をテーマにしているが、年代も内容もかなり違う。
 九鬼のほうは難解でおそらく私には何分の一程度にしか理解
 できなかったが、現在の自分に何となく迫ってくるものがあった。
 
 馬場の方は、反対に冒頭で述べたただの世俗っぽいおじさんの
 ハウツー話で、私から言えば勘違いしているよく居る困ったさんの
 ウンチク自慢満載本だ。
  しかし20年以前の私なら少しは参考になったかもしれない。

では九鬼周造の方からここにそぐう件をさわりだけ私なりに抜粋しよう。


  「粋」とは「媚態」「意気地」「諦め」が要らしい。

いきな事といううちには、その異性との交渉が
           尋常でない事を含んでいる・・ 

「色っぽさ」「なまめかしさ」「つやっぽさ」

  これらを基調とした ・・「媚態」

 

  “「いなせ」「侠骨」などに共通な犯すべからざる気品

 気格がなければ成らなく武士道の溌剌とし
       理想が生きている・・「意気地」

             

”運命に対するあっさり、すっきり、瀟洒なる心得での解脱。             

魂を込めて打ち込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを
 嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に
 目をくれなくなるのである・・「諦め」

    端的にして的をえている。

 これらが粋人の大筋になっていた。頭の中でぼんやりと理解している事
 だが文章で示すとこうなる。何となく輪郭が見え面白い。
            


  前出の馬場氏は女々しいだの理解できないだのと勝手な事を述べて
 いたが、私には十分理解できるし共感を覚える。
 自分だけの価値観を他人様に押し付けたり決め付けたりするのは
 決して粋ではない。
 

 
 以前、ヘルムートニュートンが写真集の中でベルリンの
バニーガールを
 なんショットか撮っていた。
 被写体の成熟した十分大人の女性達がくわえ煙草でリラックスし、
 
どことなく全体の風情にデカダンスの匂いが漂う。          

 
「私はね、食べていくためにやっているのよ。何か文句
ある?
こんな馬鹿な格好もやるわよ、仕事だからね。
哂いたかったら哂えばいいじゃない。 好きで判ってやってるのよ、
食べていく為にね。」

 そんな声が仮面の中から聞こえてきそうであった。
 ドイツ女のしたたかさ、たくましさが感じられた。

 反対に、カリフォルニアガール達の何の迷いも感じられない肢体には
何の感性にも引っかからない。

「この私のきれいな姿を見て だって今でないとこんな事出来ないし、
ギャラもいいのよ。これが何かのチャンスになるかも解からないし、
それに第一可愛いじゃない、ウサギちゃんなんて。」

 何となく「粋」に関係がありそうだ。


part,4

 粋に生きる


 粋に生きるのは今の時代にはなかなか難しい。
 もちろん昔からもそうだったろうが最近、特にそう思う。 
  そう粋に生きるしかない定めのような人物も要て、誰も彼もではないが、
 稀に運命的なものまでに感じられる人もいる。そうでないと本人が
 生きられないようなもって生まれたまでに。
   しかし、われわれ、凡人はそれを意識して生きる。
 そうして年月を重ねていくうちに何となく様になっていくのだろうか。


  話は少しそれるが、私の持論で男と女では、生き方のスタート時点から
 まるっきり違っているように日頃から思える。 
  女の子は物心がついた幼い時点からすでに色々な要素が備わっている
 ように思える。 母性に代表される様々な女性としての要因が種子の
 如くにあり、年月と共にそれらを発達させていくのである。 
  だから、幼女の頃から、備わっている色々な要素を時おり無意識に
 垣間見せて周りの大人達をドッキリとさせる。

 反対に男はそれらの複雑な要因は最初は、何も備わってはいない。
 同じ年頃の女の子に比べると単純明快すぎて可哀相なくらいだ。

  幼い頃、何も知らずに能天気に今までどおり過ごしていると
 ある日思いもがけない事態が起こる。


 『あなた、しっかりしなさい。もう明日から学校が始まるのよ。
  何時までも小さい子みたいにグヅグヅしていてどうするの?
 もう今までみたいにはいかないわよ。赤ちゃんじゃないんだから。
 みんなの様にこれからは、お勉強が待っているのよ!』


  それまで何の疑問もなくのんびりと過ごしてきて寝耳に水だ。
 その日の突然の母親からの宣告から、これを皮切りに死ぬまでも
 いやというほど宣告の連続を繰り返されるのが男の人生だ。


 『一人前になったから、もう大人なんだから、ご主人だから、
 お父さんだから、
部長になったから、 お祖父ちゃん、なんだから。』


  それこそ公私ともに宣告とスライドしてそれが死ぬまでも続いていく。
 
 『棺おけに入ったんだから、大人しく目をつぶっていなさい。男でしょ』
 
 そして、その時点で脱皮を余儀なくされる。それももちろん否応なくだ

 色んな脱皮の繰り返しが男の人生そのものかもしれない・


  その脱皮が上手く出来ていなければ、色んな悲喜劇が起こる。
 自分自身で意識したり自覚しなければ脱皮はうまく出来ないのだ。


  それらの事と同レベルに考えられるのが『粋』だろう。
  それも自分で意識しないと備わらないものだ。

 色々な物事や周りの人達に教わり、身に詰まされたりしながら、
  それに、気付かされ、『粋人』としての脱皮を繰返していく。

 1日2日で備わるものでもないし何年かかっても無に等しい人物が
  世間ではゴロゴロしているのが現状だ。
  はっきりとこれがという実体が見えるものでもないしはっきりと利に
  結びつくものでもない。むしろ損になることのほうが多いかもしれない。
 
 あえて言えばそのものの周辺に漂う気配や空気のようなものだ。

粋なBAR空間 簡単な様で複雑怪奇だ。決して大層で大仰な
 ものではなく、しかしきっぱりと確実に感じられるものである。
 日本と欧米では若干温度差もあり時差もある。しかし、独特な感覚に
 引っ掛かるものには共通項が不思議にある。

  喫茶店でもレストランでもない。
BARでなければならない独自の
 空気。ドライで、クールだが、大人達の熱い想いがそこはかとなく
 店内に漂っている空間。
  
 世間知らずで未熟な若者達や所帯臭い女達に足を取られながらも
 嵐の後の柳の様にかわせてしまい元の位置に構えてしまえる大人の場所。
 
  最近に観たシネマでこれぞと思ったシーンに出くわした。
 リンチ監督のトラクターでおじいさんが遠く離れ、些細な事で
 疎遠になっている兄貴にはるばる逢いに行く 『ストレイトストーリー』 

 
  小さいトラクターだから何ヶ月もかかり、様々な苦労を重ね
 色々な人達との出会いと別れを繰返し、ようやく兄貴の住んでいる
 初めての町にたどり着く。
  ようやく着いた安堵感から、体をこわして以来、長い間
やめていた、
 久しぶりのビールを飲みに立ち寄った、静かで寂れた田舎の小さな
BAR
  長かった旅を共にした泥だらけのトラクターを店の前に乗り付ける。
 薄暗い店内に、カウンターの前後は地元の爺さんしかいない。


 「ビールをたのむよ。」  「ああ、あれで来たのかい?」


 「そうだよ。」      「そうか、さぞかし喉が渇いただろうな。」


    素朴な栓抜きでミラーの栓を抜き


 「そらよ。」      「あぁ、ありがとう。」


  シンプルでそっけないシーンだが私は釘づけになった。
 どうしたこうしたといちいち尋ねない怪しげな主人のクールさと
 大人の暖か味がそこはかとなく伝わるシーンだった。
  上手そうにビールを飲む主人公を温かく見守る店主。


   日本の1流になりきれないホテルのBARの取って付けたいんぎん無礼
 で無機質なサービスほど居心地の悪いものはない。どうしても
 マニュアルで仕方なくああなってしまうのだろうが、
 粋とは対極の位置にある。それを有り難がたがる客も客だが
 一杯だけで早々に退却した方が無難であるのは間違いない。
 


 part,5

人生劇場”

 ”やると思えば、どこまでやるさ、それが男の魂じゃないか
   義理がすたればこの世は闇だ なまじ止めるな夜の雨

 

恋女房の佐久間良子を引き連れ、必死の想いで駆け落ちをした
 鶴田浩二は世話人の計らいで狭いアパートに身を潜める。

 狭いながらもようやく落ち着きこれで安心の2人だった。

 『堅気になって』 と哀願する良子に

 『それは今までにお世話になった人達に恩返しができた暁だ。
  もう少しすれば一緒にゆっくりと映画でも観に行けるよ。』

そんな会話をしているところに使いの若い衆が来る。

親分にトラブルができたのでとりあえずは違う所に移って欲しいとの事。
 判ったと使いを帰らせた後、

 『新しいさらしを出してくれ、男の義理を果たすんだ!』

 身支度をして、周囲の止めるのを振り切り、世話になった親分への
 義理を果たす為、殴りこみをかけ相手を殺り刑務所へと送られる。

 独房での長い刑期の間に想うのは良子の事ばかり・・

ずっと恩義に思っていた世話人もろともが実は悪党にはめられて
 いたと気付いた良子は、アパートを引き払い料理屋の女中に
 身を潜めていた。
 チンピラどもに襲われた所を鶴田の弟分である高倉健に偶然に
 救われるが高熱で寝込んでしまい仕方なく健さんの家で
 しばらく世話を受ける事になる。
 
 その間に健さんは自分の兄貴分の女房とは知らずに惚れ込んでしまう。
 良子も一本気で誠実な人柄にほだされてどちらも何も知らぬまま
 2人で所帯を持つ事になる。

永かった刑期を終え1日も早く恋女房の顔を見たい一心の鶴田を
 待っていたのは悲し過ぎる現実を知らされる事だった。

“あんな女に未練はないがなぜか涙が流れてならぬ
  男心は男でなけりゃ 解かるものかとあきらめた”

間に入った恩人の計らいで3人での話し合いの場をもたされる。
 海風が吹きすさぶ砂浜で一人腕を組み待っている鶴田。
 うなだれる健さんと後からついてくる良子。
 運命の3人がこの時に初めて顔を合わす。
 仁王立ちで待っている鶴田の前に跪き哀願する健さん。

「兄貴!すまねぇ、知らなかった事とはいえ・・
 俺を八つ裂きにするなり嬲り殺すなりどうにでも好きにしてくれ。」

「おめぇの腕をだせ!」

「へぇ。」

鶴田の前に捲くった腕を差し出す健さん。
 鶴田は、しばらくその様を眺めていたが、差し出された腕を
 思い切り蹴り上げる。

「ばかやろう!俺はな、おめぇのその腕、全部詰めてやりたい位だよぉ

  だがな,そんな事をすりゃ後ろの女が悲しむだろうよ・・・

  その女を幸せにしてやってくれよ。」

 「兄貴ぃ・・」

そう告げるとくるりと踵を返し来た道を戻っていった。

やがて、その健さんも悪党に殺され最後、鶴田1人で敵討ちに行く。
 
 ”時や時節は変ろうとままよ 吉良のにきちは男じゃないか
  俺も生きたや にきちの様に 義理と人情のこの世界”

  

これが有名な人生劇場の大体の物語りだ。最近になりこれをDVDで、
 初めて観た私にとっては侠客モノというより悲恋のメロドラマ色が
 強く感じられた。
 現代に置き換えてもよく似た事がいろいろな場所で起こっている。
 様になるのもならぬのも,それぞれのやせ我慢が必要だろうか。
 そんなやせ我慢がどれだけのものかは後日に解からせてくれるだろう。

 何事も簡単に手に入るものはたいした事はなく、そのものへの
 たぎる想いの結果に得たものは自身への勲章へと昇華する。
 たとえ もし得られなかったとしても胸中奥深くに自分のその生きた
 時代の勲章としていつまでも啓示されるものだ。
 その叶えられなかった過去への“諦めが

  自分自身の内の『粋』に加えられるのかもしれない。

 part,6 玄人仕事と素人さん

 

  色んな物事には玄人と素人があって単純に定義づけをすると、
 その道で飯を食い生業の本職にしているプロと趣味、余暇で
 やっているアマチュアとの違い。玄人はだしという言葉も
 あるが”粋”を意識するとまず玄人仕事になるだろう。    


  一昔もふた昔も以前の話になるとそれぞれがはっきりと
 色分けされていたが段々と境目がなくなってしまい昨今ではその方が
 お互いに都合がよかったりする。
 現実に目を向けるとそれも又無理からぬ事かと思ったりもする。


 長年の熟練工が不景気の名の下に人件費削減と苦もなくおっぽり
 出される世の中になった。華やかな職種じゃなくてむしろ縁の下の力持ち
 だった多くのベテランの男達が、何もわかってなさそうな手合い達に
 職場を脅かされる。今までに培ってきた技術や経験などは無用の
 長物扱いで平気でゴミ箱に投げ捨てられ、それこそプロとしての
 プライドや 自信、職業人としての自負など、跡形もなく
 葬り去られている。


  未経験な若者が小手先の知識でベテランをあごで使っている現場を
 何度となく見てきたがなんともいえない寂寥感を覚えたものだ。
  
 人件費のかからない所に外注に出す方がいいのもしごく最もな話だが・・・

店を始めてまだ間もない頃に飲食店経営者相手のセミナーに
 参加した事がある。


 『これからの飲食店の展開について』
 お偉い先生の講演。具体的に参考になった事もなかった事もある。

 確かに時間の無駄ではなかった覚えがあるが、その時に印象に
 残っているのがすし屋の板前さんの話だった。


 『板前さんの修業は最低でも10年以上かかる。もろもろな事は
 あるがそれを凝縮すると3年で十分です。少なくとも技術的な事は
 それで十分、後は個人次第ですね。」


  感心するやら納得するやらで帰ってきた覚えがあるが、しばらくすると
 それまでもボツボツあったが次々とそんな形式のすし屋がオープンして
 いった。そして又去ってもいったが・・・

 
  たしかに板前の修業は私自身も賛否両論。結論を言えばその個人の
 人間性になってくるのだろう。まだ世間に出ていなくて何も知らない
 うちに住み込みの厳しい修行が自分の将来の実になるのも、逆に
 いじけ切って歪な人間になってしまったりするのも個人次第だろう。
  ビジネスとして実践に役に立つ人材養成として単純に考えれば
 10年物が3年物ですむにはそれに越した事がない。
  今までのそんなこんなが現在形になって現れている気がする。
 何でもかんでもがそんな単純で簡単なものではない。本物を育てるには
 時間も手間もかかるものだ。 無駄と思える途方もない代償も必要だろう。 それらすべてを怠った結果が今のあらゆる日本の状態だと思える。


 「わたしは何も知らない素人ですから・」


 「こんなのは趣味の一貫です・」


 「お客さんのご意見中心でやっていきます・」


  こんな自分自身を素人ですと最初に言い訳しておいて貰う金だけは
 ちゃっかり玄人に変身する怪しい商売人がどうどうと横行し、
 まかり通ってしまって、いつの間にかそんな張りぼての
 商売ごっこが一向に恥ずかしくもなくなり又、そんなスタイルにまで
 なってしまっている。結果オーライではないが出来上がった“物”も
 左程変らない気もしてくる程だ。むしろそれにまつわる面倒くさい物を
 省いた分、すっきりする事もあるのが現状かも知れない。

  日常雑貨などのフリーマーケットもあまり縁がないが1度たまたま
 通りかかった事があって覗いてみたが何の面白みも夢も感じられず
 ただどこかで集めてきた所帯臭い“商品群を山積みにし、
 異常に安価で売っている。

 『退屈で仕方がないからやってるのよ。売れても売れなくても
 どっちでもいいけどただ又持って帰るのがめんどくさいし
 買う気があるなら早く言ってよ 』
 
  そう言いたげにじろっと睨まれた


   水からはい上がって休けいしているオットセイのような中年女が
 いかにも面白くなさそうな顔で店番に座っている。
 売る方も買う方も盛り上がりも何もないずんだれ澱んだ空気だ。
  威勢のいいどこかで遭遇した陶器市とは天と地ほどの差だ。口上も
 鮮やかに、売り手の親父にのせられて、つい要らぬ物まで買って
 しまった経験がある。後でやられたなと思うが親父の“玄人の技に
 まんまと嵌まってしまったこっちを笑ってしまえる。


 最近、知っている店が閉店した。かれこれ20年近く営業していた様
 だった。確か同じ人が以前に別な商売をやっていて新たに始めた
 ようで、元の店舗をつぶしまったく別な店舗に商売変えして、
 すぐに開業した様子だった。
必然的に一からの修行は何もなくて
 そんな専門の業者のマニュアルに乗っ取って始めたのだろう。
  表からの店構えを見ただけですぐに判断がつき私は1度も足を
 運んだ事がなかった。しかし、あまり深く考える事もない一般大衆は
 結構訪れ、よく流行っていた時期もあった。


  偶然に閉店される何ヶ月か前に何も知らずに行ってみる機会があった。
 プロの眼でしばらく見てみると、出されたものも内装もそこの店主
 までも統一して感じられるものがある。
 どれをとってもソツがなくまとまっていて取り立てて言うべきモノは
 何もない。普通に平均点。

 

 ただ特筆すべきはすべてにおき一様に感じたのは玄人らしさが
 まったく欠けている、抜け落ちている様子なのだ。
 20年間も続けていたのにもかかわらずだ。プロとして
の迫力は
 微塵も感じられず、個人経営なのにスーパーの一
角のコーナーの様だった。


  ただ古びているのと肝心な“気”が抜けているのとは明らかに違う。
 最初のスタート時点で欠けているといくら年数を重ねても無理な
 ものは無理だと実感した。
  それからしばらくすると店をたたんでしまった。


  店だけじゃなくてもどんな物事も年月と共に光を帯びて
いい味わいに
 なるものとただ古くなり朽ち果てて荒みばかりが表れる違いは
 歴然と有るものだ。 本物の玄人の仕事は前者だろう。

 逃げ道を常に残しながらの素人仕事に“粋さを求めるのは
 失くした指輪を砂漠で見つけるに近い。




  
part,7
 人生の昼下がり


 

 私の周りには男も女も40歳前後の知人が多くなった。いわゆる厄年をこれから
  迎えたりその真っ只中だったりの人達だ。

 振り返ってみれば何年か以前の自分自身の姿。

 かつての、20,30歳を迎えた時とは明らかに違っていた,40歳。
 その当時は、たがをくぐり神社参りなど考えもしなかった。 

 トルク力でそれまでなんなく乗り切ってきた今までの延長で望んだ40歳台、
 最初はなんて事はない。

   しかしボディブローのように、じわじわと効いてくる。

 まずは周囲の目が
今までとは明らかに違ってくる。

  
  「若いのにがんばっているね。これからが楽しみだよ。」

  「色々と教えてください。 マスターも僕達と一緒でしょ?」

 
 そんな言葉を今までにずっと当たり前のように聞いてきたが、気がつくと
いつの間にか
  それがまったくなくなってしまっている。 よく考えてみれば無理もないのだ。

 一緒でもないし、若くもない。 年長からはすでに楽しみでもなくなっているのだ。
 若いのにがんばっているではなく、がんばっていて当たり前なのだから。

 明らかに上から下からにも一線を引かれ距離を置かれる。今までの延長で同じ事を
  やっていても、上の世代からは別段、面白みも
珍しくもなくなり、下からは同世代の
 一体感から外されるのだ。

 これが聞かされていたいわゆる “花の係長の板ばさみ” かと実感させられる。
 今までに味わった事のない孤独感の付きまといが始まる。

 青臭い事は30歳台に捨て去ってこれからは文字通りの円熟した中年というのに
 挑んでやろうじゃないかという意気込みに最初の障害物がそんな形で立ち塞がる。
 
 しかしまだまだそれまでの若さの名残りがあり、自身の過信と焦りで知らぬ間に自分の
 墓穴を掘ってしまっている。  それが厄年なんだろうか・・・

      “40にして惑わず” 

 惑うつもりもないのについ惑ってしまう年代だからそんな言葉が残っているのだろう。

 一生をまる1日に例えると昼下がりのティータイムが終り、オレンジの西陽が指してきた頃。

  これから段々に陽が沈んでいく時間だ。本人にとってそれが、今まで生きてきて
 静かだが最大の山場である。


  うまく乗り切る者とやり過ごす者。

  押しつぶされてすっかりと人格が変わらされる者。

  後々にまで後遺症の如く引きずられる者。

 これから、まだまだ続く長い今後の人生のためのラストスパートのスタートライン位置が、
  おのおのがまったく違うのだ。

 男女とも後年に内面と外面、ともに明らかにその差がはっきりと浮き彫りにされ、
 否が応でも、もう後戻りを許されぬ姿を棺おけに入るまでの間、周囲に、晒す事になる。

 はっきり言って、それまでの生き様などはほんの助走程度で、それからが本人にとっての
 本編の始まりかもしれない。その時期をどうこなすかの結果で開花される者もいれば
 ずっと影薄く生きるしかない者に分別されてしまう。

 それからの人生の方がはるかに深く本人の胸中に刻まれるのだ。

 親子でも歳をとり老いている親の方が、まだ若い子供よりもはるかに魅力的な人はいるし、
 本当の親子とは信じられないほどやつれてくたびれ切った親もいる。

 それもこれも、その厄年付近の時期の乗り切り方や生き方が後年にまで影響される気が
 してならない。

  人生の棚卸のこの時期。 まず、突然の体の変調に気付づかされる。

 かつてはまったく何て事のなかった体の無理がきかなくなり、単純に体力に余裕がなくなる。

   深酒、 徹夜仕事、 夜遊び、 いつもしない事

 それまで、睡眠をとるとすべて治まっていた筈なのに何日も回復に引きずったり
 下手をすると、 一生抱え込む病のきっかけにもなりかねない。

 
 「わたしは、経験も何もないです。 ただ若さと元気だけが取り柄です。
よろしく御願いします。」

 かつて周囲にそうPRしていた自分が今となればまるで別人に思えてしまう・

 思わせぶりに擦り寄ってきた異性達もいつの間にか消え失せ気がつけば同世代同士で
 キズの舐め合いをしている自分達の姿にハタと気付く。

 何をするにもまず、楽な方楽な方へと流されてしまい、新しい未来を築くより、ちょいと
 今よりもましだった過去へと視線と向けがちになり、今までに起こった事とこれから起こるで
 あろう事のおよその予想がつきそれらを天びんにかける。

 
   『あの時ほどの事はもうこれからの自分にはないな。』

 そんな風が嵩じて絶望感や失望で黙り込んでしまい、うつ病になる手合いもいる。

   「いつの間に俺はこんな体たらくになったんだろうか?」

 こんな何とも言えない暗雲の時期が何年かしばらく続くのだ。

 逆流に邪魔をされいくらオールを漕いでも向こう岸にたどり着かない船頭の様に
 もがいてもがいても自体は思い通りに前に進まない。

 それやこれやで予想もしなかった自分の事以外のトラブルにも打ちのめされ,
 かつて我が身だけの事を案じていただけの時期がウソのように思え
世間で言われる
 余裕のある中年とは程遠い自分の姿が惨めで馬鹿みたいに思える。
 
 かつての我が身を彷彿させる若者は次々に世に現れ自分の今までの
軌道のたいした事の
 なさを思い知らされる。 いい年をして誰も彼も相談できるわけでもなく思い余って
 それとなく相談をした数少ない信頼を寄せていた年長者からは


  『そんなものさ、それよりもこの前の・・』

 いい年をぶらさげ、自分の面白くも珍しくも無い、模範解答などはどこにも無い相談ごと
 など まったく関心などなくて心無い言葉にショックを受ける。

  そんな先行きの見通しのなどたつ筈もなくただただ心細い日々が何年か続くのだ。


 そして慌ただしくも不安定な日々の隙間にいつもよりも少し明るく感じる陽射しに、ふと気付く。

 若い時には気にも留めなかった季節感や、うつろう時節に関係なくもたらせる自然の姿。
 変ることなく本当に自分を気にかけてくれていた暖かい人達への感謝の心。

  真っ当に打ち込む努力や誠意など何ひとつも報われない事も人生にはあるんだと。

  仕事も愛情も所詮瞬きひとつで変ってしまう、儚いゆめのようでもあると。

 思い通りにならぬ事ばかりを経験し潜り抜け、その上で我が人生のこれからの方向性を

 うっすらとようやく意識できかけた日がいつかやってくる。

   「そろそろ厄除けにでも行こうか。」

 そんな事を思える頃には、すでにそれが過ぎていた事に始めて気付かされる。


 この何年間の混沌とした月日がそうだったんだと、ようやくその時期の意味を後に
 なって思い知らされるのだ。

   これらが私の経験も含めてのいわゆる“厄年”というもの。

 
 悪い事ばかりでもない。裏目裏目に出る日々を越えると又別な世界が見え隠れする。
 サウナの後の冷水のようなものだ。 それまでの過去への捕らわれや見い出せなかった
 これからの方向性が暗いトンネルの向こうで手招きしているのがぼんやりと見えてくる。

 自分が歩むべき辿って行くべく道のりの輪郭が以前よりはるかにくっきりしている事に
 気がつくだろう。

  『今まで悩まされてきた馬鹿な幻想や分不相応な願望には捕らわれまい。
   これからはできる事と無理な事、したいこととそうでない事 
   はっきりさせてやろうじゃないか。 どう見られようと俺は俺でやってやる。』

 そんな腹の括りができるのが厄が抜けたというのだろうか。

   その苦しかった山越えがこれからの “粋に生きる”のに関係は必須であろう



  
part,8


  『ロリータ』

 
 考えてみれば、
粋という言葉も今ではほとんど死語に近い。

 

 いつの時代にもその世相は無視できないが今風にそれを置き換えると若干のスケールは違うが
 「おとこまえ」が近いように思われる。

 
 潔さや気風の良さを若い世代なりに表現している。言われてみると
何となくだが納得させられる。

 
 女の子に対しても『おとこまえな女の子』などとややこしくも言っているがニュワンスは伝わってくる。
 むしろ言葉遊びとしての要素が強くて、周りを見ても、大の男より、意外性のある女の子を
 指してよく使われているようだ。

 考えてみると、解っていなさそうで解っているのがいつの時代にも感性の鋭敏で
 多感な年代の女の子達。

 彼女達なりの理想像は清く、正しく、美しくそして、シビア。なおかつ現実的。

 そして的確だ。何も解かっていなさそうな子が見透かした事を言って大人達を驚かせるのは
 昔からよくある。 とぼけた振りをしていても本当は何もかも本質的な所ではすべてを見透かし、
 シニカルな視線で大人達を観察している。

 おめでたい大人達は、自分の都合のいいように解釈しどんどんと蟻地獄へと陥ってしまう。
  そんな題材をモチーフにした話は昔からもありすぎる程だ


 “
ロリータという小説、映画化もされたが下手をすると身につまされる思いがする。

 しかし最初からパーフェクトな人間なんかはいない。分別臭い手合いに限りきっかけひとつで
 辻褄の合わない事をしでかす。魅力的で悪魔の様な娘に魅せられたあげく
 何もかもからめとられてしまうのも無理もなくて人間としてみれば、当たり前の事かもしれない。
 他人にはご立派な説教を説くくせに自分の事となると盲目になるのが一般的な男だ。

 “嘆きのピエロの話も似ている。

 今まで厳格でとおってきたベテラン教師が偶然にドサ周りのサーカス団の踊り子に
 ハートを持っていかれて、今までの名声など何もかもかなぐり棄て去る。そして同じ団のピエロに
 成り下がってまでも、踊り子にどこまでものめり込んでいく。


 “ベニスに死すの主人公の親父も物悲しかった。

 平衡感覚が狂ってしまった中年男ほど危険かつ悲しいものはない。

 昔、自分がまだ若かった頃には恋愛に憧れ、想いを寄せていた異性に近付けた時は
 感動に打ち震え、めくるめく日々は純愛だった。


  今、鏡に映しだされた自分の容姿はそんな美しかったものとはとっくの昔の
  無縁に見える年老いた醜態。  むしろ不自然に若ければ余計に惨めだ。

 しかし、異性に対しての想いは何一つ変ってはいないのだ!

 このどうしょうもない自己矛盾に泣き叫ぶほどの喪失感が襲う。

 「同じ想いを抱いても昔は純愛と言われ今は誰もが目を背けられる醜いものになってしまうのか!」

   今までになかったえもいわれぬ無常感に苛まれる日々を潜っていく。

 人生のうちで何度か一か八かの選択を迫られる場面に遭遇させられその都度

 今までにこんな事はなかった、俺はこれほど愚かで駄目な奴ではない

 揺れ動かされる思いが何度か遭遇する。

 いつか審判を迫られて
その結果、 うまくいくも破滅するも本人次第。

 後日、胸を撫で下ろすか、 抜き差しならぬ泥沼の事態に陥っているか・・

 色々な小説や映画のテーマになっているのは、それほどによくあり、無理もない話しなんだろう。

 考えてみれば、そんな主人公達のそれ以前の姿。

 社会的にもプライベートでも認められ申し分のない完成された人物像。

 そんな人達が“粋な人物であろうか。よく出来た隙のない順風満帆で生きてきて、
 これからもそう生きるであろうと予測のついた人物達。

 いい人には違いないが少なくとも物語にはならないし“粋な人物ではなかろう。 

 そんなこんなをくぐり抜けて、自分とは、周りとはそして人生とはなんなんだろうかと・・

 挫折と諦めを苦い涙と共に思い知らされたうえで、改めて自分の生き方の深い皺を刻ませ、
 懐のさやに収めて生きていくのが“粋に繋がるのだろうと思われる。